ゾーニングのお話は表現の自由のお話です。

TrinityNYCさんが次のようにツイートしています。

あんたが部屋の中で見てれば何も言われない話。表現の自由は守られている。単に、部屋の外に出してくるな。部屋の外に出してくるかどうかは、表現の自由の話ではなく、ゾーニングの話だ。

https://twitter.com/trinitynyc/status/1725797084035748335

 これは、端的に間違っています。

 表現の自由は、表現物を創作する自由のみならず、表現物を通じて情報を他者に伝達する自由を含むし、さらにいえば、表現物を通じて情報を公衆に伝達する自由する自由を含みます。したがって、表現物を通じて情報を公衆に伝達する自由を制限するゾーニングは、表現の自由に対する制限となります。

 さらにいえば、表現物がその創作者の私的領域内に留まっている場合、国家権力や社会の多数派から弾圧を受けることは多くありません。気付かれる場合が少ないですし、気付かれても、影響力が乏しいので、見過ごされることが多いからです。表現の自由が侵される場合の多くは、当該表現物が公衆に向けて伝達され、権力者や社会の多数派に不快感を与えたときです。

 だから、特定の人々に不快感を与えるというだけの理由でゾーニングの対象とする、すなわち、不特定人に対し当該表現を伝達することを禁止するということは、表現の自由の存在意義を失わせるものです。

 大日本帝国無謬論者からすると従軍慰安婦像を目にするのは不快なのかもしれませんし、キリスト教保守派からすると女性の性的魅力を描いた絵画等を目にするのは不快なのかもしれません。しかし、自分にとって不快だという理由で他人の自由を制限しないというのが、原則自由な社会、すなわち立憲主義に基づく社会ということができます。

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