ブラッド・ピット健康法

夏はメンタルの調子を崩しやすい。暑さと不規則な生活リズムで自律神経が狂うからだろう。大学に入って以来、夏休みは毎年、程度の差こそあれ、なんとなく調子が悪い。

今年の夏もご多分に洩れず調子が悪い。そして比較的悪い方である。過去いちばん悪かった年は精神科(心療内科だっけ?)に行くことになったが、その次くらいに調子が悪い。

さて、あらゆる問題に対して、俺は対処療法が苦手だ。その場その場で問題を処理していくのができない。メタの視点を導入して、根本解決をしないと気が済まない。たとえば、仕事や勉強のやる気が出ない日がある。そのとき、対処療法的には「今日は疲れているから休もう」とか「気分を変えてカフェでやろう」みたいな手段が有効かもしれない。だが、俺は「やる気が出ない日」を根絶やしにしたい。根本解決をするには別の手段を講じる必要がある。「寝不足が続くとモチベーションが下がってくるから、これからは8時間たっぷり寝よう」「家にいるとモチベに波が生じてしまうから、毎日図書館に行くようにしよう」「週7日もモチベを維持するのは不可能だから、土日はしっかり休むようにしよう」このような手を打つ。

なぜ根本解決したいのか。それは俺が怠惰だからだ。なるべく頭を使いたくない。対処療法でやり過ごすと、今後幾度となく同じ問題に直面することになる。その度ごとに問題に向き合うのが億劫なのである。一度で全てを解決してしまいたい。そうすればもうこの問題について考えずに済むし、俺がもっと考えたいことに脳のキャパシティを使える。

そういうわけで、メンタルの不調に関しても、対処療法ができない。なんとなく不安になるとき、その気持ちをやり過ごすことができない。要するにこれは同語反復的なのだろう——メンタルの調子が悪いというのは、ネガティヴな気持ちをやり過ごせないということとほぼ正確に同義なのだ。では、根本治療はどうすればいいか。おそらく最適解は「心療内科を受診する」なのだろうが、予約はめんどくさいし薬は飲みたくない。

そこで編み出した方法が「ブラッド・ピット健康法」だ。昨日、バイトに向かう道中で閃いた。内容はごく簡単である。ブラッド・ピットになりきるのだ。ブラッド・ピットならこの道をどう歩くか。ブラッド・ピットならこの吊り革をどう握るか。ブラッド・ピットならこのペットボトルをどう開けるか。一つ一つの所作にブラピを召喚する。この方法で、なんとなく姿勢が良くなった。

なぜブラッド・ピットなのか。理由はほとんど無いに等しい。俺は彼の熱烈なファンというわけでもないし、彼が出演する映画は数えるほどしか観たことがないと思う。端的に言って、彼に関して大したイメージを持ち合わせていない。だが、なんとなく陽気そうだし、いつも微笑んでいそうだし、そしてなによりかっこいい。ブラッド・ピットとして生きることには苦悩もあるのかもしれないが、俺にはその苦悩を知る由もない。

陽気でかっこいいブラッド・ピットとして生活する。そうすれば少なくとも「俺」の苦悩は和らぐ。ブラピの対極として、つまり「陰気でカッコ悪い」という形容によって自らをアイデンティファイしているつもりは全くない。が、ブラピの方が圧倒的に清々しく見える。(当たり前だ。)

実際に(?)ブラピとして生活してみると、なんだか余裕が生まれてきた。多少のことでは動じない。「ま、ゆーても俺ブラピやし」と、どっしり構えることができる。

が、一つの重大な疑問にぶつかる。<ブラピとして生活するとはどういうことなのか?>俺はハリウッドの豪邸に住んでいない。(本人がハリウッドの豪邸に住んでいるかは知らないけれど。)デカい高級外車は持っていないし、仕事は俳優ではなくてフリーター(学生)である。母語は日本語だし、俺はまだ20代だし、そしてなにより、背格好がちがう。(ちなみに、このことから少しでも目を逸らすために、鏡を見る回数が半分くらいになった。)

周知の事実、紛れもない事実だが、俺はブラピではないのである。「ブラピとして生きる」には無理がある。しかし、こうやって実際にメンタルの安定に一役買っている「ブラッド・ピット健康法」はどういう方法なのか。

「そんな細かいことは…」と目を瞑るのが対処療法型の人間だろうが、俺は根本治療型である。ちゃんと論理的に整合的な方法として、「ブラッド・ピット健康法」を示したい。

俺がブラッド・ピットになるんじゃない、ブラッド・ピットが俺になるんだ。

逆転の発想。コペルニクス的転回。ブラッド・ピットが「『俺』の生活」という映画の主人公役——すなわち「俺」役になったら、どのように演じるか。そういう設定にしよう。そうすると、彼が横浜の郊外に暮らしていることも説明がつくし、受付でアルバイトをしていることにも納得がいく。ちなみに、彼が主演を務める、九月一日に公開の映画は、舞台が日本である。

俺の生活を、ブラピが生きている。文字通りに換骨奪胎だ。俺が演じるのではなく、俺が演じられている。少し抽象的に言えば、生活に演技性を導入するわけだ。前に耳にした、発展途上国のマーケットの話を思い出す。市場では値段を巡って怒号が飛び交い、ある種の暴力性に満ち満ちている。しかし怒鳴り合ったあとでも、ひとたび市場を出れば友人同士になるのだそうだ。市場での怒号はあくまで演技にすぎない。本気で怒っているのではなくて、商人/客 として振る舞っているだけなのだ。彼らは非常に健康そうである。きっと「ブラッド・ピット健康法」を身につけているのだろう。<ブラッド・ピット>ではないにしろ。

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