スキマ時間しか存在しない

受験勉強が切迫してくると、みな口を揃えて「スキマ時間」の有効活用を唱え出す。移動の時間や、寝る前のちょっとした時間、あるいは猛者は信号待ちの時間さえも使うそうな。俺はあらゆる試験勉強に関心がなく、定期試験にも大学入試にも切迫感がなかったから、スキマ時間を使おうと思ったことがなかった。

だが、近頃は違う。手を動かすことの快感を覚えてしまい、いつでも手を動かしていたいと思うようになった。手を動かしてると、心身の不調・不快をやり過ごせる。このことを森田正馬の本から学んだ。自らの神経質と上手くやっていくコツである。

となると、スキマ時間なんてない方がいい。ちょこまか動き回って、疲れたら寝ればいい。ところで、スキマ時間とはどこにあるのか?いつ現れるのか?

スキマ時間はしばしば、このようにカタカナで表記される。なぜか?漢字にしてみよう。隙間時間。間が多すぎるのである。そしてここでわれわれは気付くことになる。スキマ時間とは、同語反復ではないか!あらゆる時間は隙間である。ある時点と別のある時点との間のことを時間という(哲学的にどういう議論が可能かは措くとして、あくまで一般論ではそうだ)。たとえば4時間ぶっ通しで勉強するとしても(そうとう強度が軽くなきゃできないだろうけど)、それは開始時刻と終了時刻の隙間なのではないか。

さて、「スキマ時間の有効活用」を考えるとき、おそらく人はこう考えるのではないだろうか——スキマ時間を使って少しずつでも作業を進めよう。つまり、逆に言えば、一つのスキマ時間を使って大きなプロジェクトを完成させようなどとは思わないのだ(もしいわゆる「スキマ時間」でプロジェクトが完了するとすれば、それはさほど大きな仕事ではないのだろう)。

いろいろなタイミングで少しずつ作業を進める。そして飽きたり疲れたりしたら、すぐに別の作業(なるべく大きく異なる作業)に切り替える。そうすることでいくつかのプロジェクトを同時に前に進めることができる。

このやり方の優れた点は、非常にフレキシブルだということだ。ちょっと用事を頼まれたりして時間を食われても、全く問題ない。そのことでむしろスキマの数が増えるくらいだ。作業が捗る。

いま書いていて気づいた。スキマは数を数えることができるが、時間は数えられない。スキマとて厳密に数えることはできないけれども、まあ、なんとなく数が多いとか少ないとかは言える。時間の数の多寡については言えない。

もっと時間が欲しい、というのは現代人に共通の欲望だろうが、それには限界がある。1日は等しく24時間だし、人間は等しく8時間程度の睡眠を必要とする。時間を増やすことは焦燥と疲弊につながる。なんにも面白くない。時間が欲しいと言うのはやめよう。スキマが欲しい。スキマならばいくらでも作れる。作業の変化を起こせばいいからだ。

ともあれ、この考え方は森田正馬の神経症療法に着想を得ている。神経質じゃない人には全然合わないだろうと思う。時間をどう捉えるかが実存を規定するのだ、とハイデガーは言ったかもしれないし、言わなかったかもしれない。いずれにせよ、そういう側面はあるのだろう。自分に合った時間の捉え方が出来れば、生きるのはグッと快適になるはずだ。

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