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日記(2022/09/22-25)

木曜日。『失われた時を求めて』岩波文庫11巻読み終わる。第五篇「囚われの女」まで読んだことになり、その足で下高井戸シネマ、シャンタル・アケルマン特集『囚われの女』およそ5ヶ月ぶりに再見。初見時は、分からなさというか、何やら得体の知れない不穏さと切実さに支配された画面を見ていて、それが見たあとの興奮と充実度に繋がったのだと思う、原作読んだうえで見るとあまりにも「分かりすぎる」気がして、これはむしろ良くないかもしれないと思った。原作知った上で見て面白いのとそうでないのがある。

金曜日。プルーストを読み進める。12巻『消え去ったアルベルチーヌ』。アルベルチーヌの不在、そして亡き後の心境のめまぐるしい移り変わりを克明に書いていく。堀辰雄の「プルウスト雑記」という文章を読んでいたらこういうのがあった。「プルウストの小説は、他の作家のものがすべてを記述するのとは異り、を記述してゐるのだから、ああいふ小さい活字で組まなくつちや感じが出まい」。さいわい岩波文庫の活字は小さくないからありがたいが、秒を記述するというプルーストの生理に身を委ねていると、思った以上にページが進んでいることが分かる。作中時間は全然進んでないのに、もうこんなところまで読んだのか、と思うことがたびたび。
15時くらいに外出、渋谷シネマヴェーラ。ジョン・フォード特集『大空の闘士』。終盤以外はそこまで面白くない。僻地不倫×大雨という点では『モガンボ』と共通している。『トップガン マーヴェリック』と同じ展開になる。
菊川Strangerで彼女と合流して『ゴダールのマリア』再見。キリスト教の映画だからか、ゴダールにしてはかなり内省的な感じもするというのが異色だなあと。めっちゃ好き。この時代のゴダールこそ至高という思いが強まる。

土曜日。昼前に彼女と原宿に行き竹下通りにある犬カフェに行った。畳の部屋に大小さまざまな豆柴が10匹くらい居て触れ合える空間。実家を離れて以来犬猫を触る機会がなくなって寂しいと思っていたところ。豆柴専門のカフェなのは彼女の希望。店内にはブラウン管のテレビに山口百恵の映画かドラマが放送されている。壁には『ふりむけば愛』のポスター、店内BGMも山口百恵で、百恵の徹底ぶりが何なのか気になって仕方がなかった。他にも店舗があるらしいが、どこも百恵推しなのか。単に「昭和レトロ」を演出しているだけなのかもしれない。竹下通りのフードコートでお昼食べたけど、テーブルに落ちてる胡麻が緑色だったりして怖くなった。他にも全体的に衛生がバッド。竹下通りは飯食うとこじゃない。
夕方から下高井戸シネマでアケルマン特集。1本目『私、あなた、彼、彼女』。これは2016年に京都シネマで見ているらしい。マットレスで書きにくそうに手紙書くところだけは憶えてた。前半はアケルマンが部屋で横になったり縦になったりマットレス移動させたり壁に立てかけたりするだけで退屈だが、強いて言うならここが一番面白いし見ていられる。モノローグで語られた言葉がそのまま画面で行われるという冗長さのおかげで逆に見ていられる、というのは不思議だが。中盤はトラック運転手とのロードムービーで悪い意味で退屈。セリフがあると途端に面白くなくなる。後半はひたすらセックスで何とも言えない。
2本目『オルメイヤーの阿房宮』。『囚われの女』のスタニスラル・メラール主演。同じような役をやっている。白人男性の空虚さが強調された人物だが、ラストカットの長回しはその表情をひたすら写し続けるという退屈さで、顔に射す光の変化は良いには良いけど、それにしても人物の内面の底の浅さは散々見せつけられているものだから、感情芝居を延々と写しても特に興味を惹かれず、というよりも感情芝居の長回し自体が辟易する表現だと思う。

日曜日。シネマヴェーラのジョン・フォード特集『鄙より都会へ』。終盤のでたらめ具合が凄い。目まぐるしいクロスカッティングによって田舎と都会との距離が消失する。田舎男たちが都会の高級レストランに殴り込み。前景、中景、後景、そのいずれにおいても誰かが誰かを殴っている。その画面からみなぎるのは地獄のような暴力性ではなく、むしろ楽園にいるかのような多幸感である。殴り、倒れ、プールに落下する、それらが繰り返され、どこかエッシャーの有名な絵を思わせるループ感を想起させる。ただ今回の上映は音楽が適当すぎる。何か『荒野のギャングたち』の音楽流れてなかった?壮大っぽい音楽垂れ流してるだけで、ちょっとな……。
京橋に移動し、来年閉店というので八重洲ブックセンターに初めて行き『失われた時を求めて』の最終巻を買った。PFF最終日の青山真治特集まで銀座の路上でプルーストを読む。
時間がきて1本目『赤ずきん』。河を行く船に乗った女が進行方向を見つめて船の先頭に立っているという光景は昨日見た『オルメイヤーの阿房宮』と共通しているが、『赤ずきん』の場合、女がその場で横になっているところも写しているのが訳もなく良いと思った。船の航行による背景の移り変わりと不動の縦の女が同時に画面にあるときの運動感と、女が横になったときの運動感は、また全然違った面白さがある。これは実際に自分が自動車に乗っているときに座っているか横になっているかで全然違う感覚を得ることができるというのと同じで、そういう日常的な身体感覚に強く訴えるものがある画面だった。2本目は『路地へ 中上健次の残したフィルム』だが、これは2018年10月に大学図書館のDVDで見ているらしく再見。前よりは面白く見れたと思う。中上健次は「十九歳の地図」と『千年の愉楽』の1話目の半分くらいしか読んでない…面白いのあったら読みたい。


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