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01. BEAUTIFUL SILENCE

 昔のことを覚えているかと言われたら、そりゃあ覚えていることもあれば覚えていないこともある。数少ない覚えていることも、何年前かということがあやふやだったりする。現在地からの遠近感。それを測るのは海馬とは別の器官だと思うから、仕方のないことだ。
 どれくらい前のことかはわからないけれど制服を着ていたんだからきっと高校生の頃、クラスメイトの女子が僕にこう言った。
「写真は嫌いだわ」
 どうして、と社交辞令で僕は尋ねた。僕の指は一眼レフのカメラをいじっていて、その時撮ったファインダー越しの景色は覚えているけれど、彼女の顔は見ていなかったので、どんな表情をしていたのかはわからない。
 彼女はこう答えた。
「だって、さみしいもの」
 ファインダーがとらえていたのは、二本の鉄塔の間に落ちていく太陽。
 彼女が一体誰だったのか、それさえもわからなく、決して重要なことだとも思えないんだけれど、もしもあの日に立ち返ることができるならば、僕はきっとこう言っていただろう。
「だから、いいんじゃないですか」
 あの日夕暮れの教室で、僕が本当はなんと答えたか。もう、覚えてはいない。


「綺麗ですね。ああ、本当に」
 僕の言葉は虚空に消えた。辺りに沈む、冷たい空気をよけい白々しくさせただけだった。賛美することの不慣れは仕方がないとしても、思いだけはそのまま伝えたつもりだった。本当に美しいと思ったのだ。触れることを拒むようになめらかな肌、黒曜石の輝きを持つ髪。なによりも瞳がいい。長いまつげに彩られた黒い瞳は、眠りに落ちる一瞬前のようだ。
 文句のつけようのない美しさだった。
 彼女はがらんとしたアトリエの隅に、追いやられるように座っていた。母屋である日本家屋のすぐそばに建てられた、プレハブ小屋に近い、安っぽいアトリエだった。
 光の加減が少し良くないなと思う。アトリエの窓にはまった格子が邪魔だった。残念ながら光源の手持ちはない。今度は用意してこよう。機材の十キロや二十キロ、彼女のためなら労力を払っても惜しくないと思った。
「……そうだ、あなたはモナリザに似ていますね。モナリザって目を見張るほど美人ではないけれど、それこそがダ・ヴィンチの天才たるゆえんだったように思うんですよ。どことなく愛らしいし、気高くも親しみやすいでしょう。美人なだけなら誰にだって描けるし、容易なんです。僕が思うに、例えばカメラを構えて彼女を撮ったとしても、どれほどのカメラマンでもあの微笑は写せなかったんじゃないかな。そういう美しさが、あなたにはありますね」
「そう言う、お前の職種は何だ、カメラマン」
 突然声がかかった。僕は人から声をかけられることが好きではない。沈黙を破る人間を不躾で不作法だと思う。けれどその声は、女性にしては低く涼やかで、それほど不快ではないと感じた。
 振り返って、言う。
「カメラマンですよ」
 オウムのように答えると、こちらを見ていた人形師は呆れた顔をした。
「他人のアトリエに単身乗り込んできたと思えば、作りかけの人形相手に無尽蔵な饒舌ぶりじゃあないか。警察と病院、どっちがいい?」
 人形師は、ずいぶん口が悪かった。けれど僕はもともと、他人の言葉に頓着するたちではない。
「作りかけなんですか。彼女」
 僕はそして、声をかけてきた人形師のそれよりも愛情のある視線で「彼女」を見た。壁のそばに佇む彼女は、丸く磨かれた関節さえも正しいように覚えた。完全な完成体、に見えた。僕には。一寸の狂いもないじゃないかと思った。
 答える人形師の顔は見なかった。
「あぁ。化粧がまだだ」
 ふぅん、と思う。
 人形師である彼女は少し頭のおかしい人のようだった。若いのにもったいないと思う反面、女性だから仕方がないとも思った。生まれながらに女の頭がおかしいと思うのは、男として当然の反応でしょう。
 ただ、聞いていたのとは少し違うなと思っていた。いや、その若さと美貌は聞き及んだ通りか。
(若さ?)
 心の中で独白に首を傾げる。幼さ、の間違いだろう。
 僕はちらりとその人形師を見やる。
 稀代の人形師はモノトーンだった。肌は陶器のような、一種病的な白さ。ベリーショートにされた髪は漆黒。白いブラウスの上に、深いVネックで薄手のセーターを着て、長いスカートは細身の黒だった。僕との目線の違いから測るに、百五十いくかいかないかの身長だが、その小枝のような細さと頭の小ささで、もうすこし背丈があるように見えた。
「あのー、すいません。あなた、おいくつでしたっけ」
 聞いたことに意味はなかった。社交辞令にもならなかったことだろう。
「私の年? お前、その程度も事前に調べて来なかったのか」
 軽蔑よりも、軽い驚きを交えて人形師の目が僕を射抜いた。黒目がちの大きな瞳だった。
 はぁ、と僕は返事する。
 気持ち悪いな、と僕は思った。この人、気持ち悪いな。目の力が不必要に強くて、爬虫類みたい。多分きっと、見えすぎる目だ。見えすぎる目に、生きにくい身体。ああ、頭がおかしくなるのも、道理というものだ。
「どこかで、見たような気もするんですけどね。僕は忘れっぽいんですよ。あまり記憶力がよくないんです。例えばパブロ・ピカソの本名は全て言えるけども、今の総理大臣の名前はよく忘れますよ」
「変態なんじゃないか」
 勝手に納得して、「今年十八だ」となんでもないことのように答える。そのあと、すぐに「シプリアーノ・サンティシマ・トリニダード」と小さく呟いた。
 なんだ、と思う。知ってるんじゃないですか。パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピニァーノ・デ・ラ・センテシマ・トリニダット・ルイス・イ・ピカソ。そこにあるシプリアーノ・サンティシマ・トリニダードがキリスト教において「三位一体」を表すということ。そんなマニアックな知識まで。
(お互い様だ)
 頭の少しどうかしている人間に頭がどうかしていると言われる。これは嬉しいことなのだろうか。
 十八という数字が脳神経をゆっくり回り始めたのはそれからだった。ふぅん、と思う。ふぅん。感想がなかった。十八歳だった頃の自分も、すぐには思い出せなかった。今の年もすぐには出てこないのだから仕方がない。十年も経っていただろうか。思い出せないほどの昔と呼んでもなんら差し支えがないだろう。
 じゅうはち、十八。またすぐに忘れるだろうという予感がした。僕の中でその数字はピカソの本名ほど、魅力的な輝きを放つことはなかった。
 それから、人形師の名前を思い出すのにまた少しの時間がかかった。こればかりは僕のせいだとも言えない。
(平田……)
 あぁ、そうだ。平田開闢。読みにくい。ひらた・かいびゃく。
 まずは性別を疑う。次にまっすぐに、親の良識を疑う。疑ったところでどうしようもない。興味もない。そこまで考えて、ふと思い立って聞いた。
「なんて名前ですか」
「平田開闢だけど」
「いえ、あなたの名前じゃなくて」
 そんなことはどうでもよくて。
 僕は目で人形を指した。
 アトリエの隅、いすの上に倒れ込むようにして座っている、化粧もまだな「彼女」の名前。
 僕が聞いたのはその名前だった。
「あぁ」
 小さく平田さんが返事をして、ほんの少しの沈黙の後に、言った。
「…………リザ」
「りざ?」
「そう。リザ」
 ふぅん、と思う。腕を伸ばして、リザの手の甲に触れてみる。子供のように小さな、女のそれ。彼女の指はささやかに伸び、親指だけが少しだけ内側に寄っていた。
 静かだなと思った。
 目を細めるほどに美しい、つちくれの肌。
「よごすなよ」
 やはり沈黙を破るのはその声で、やはり無礼で、やはりそれでも別になにというわけではなかった。
「撮りましょう」
 言うと、「私は邪魔かな」割と愁傷な問いが来た。
 僕は社交辞令が得意ではない。
「邪魔ですねぇ」
 正直に答えた。
「そうか」
 平田嬢はそこでふっと笑った。
 なんだか、満足げな笑みだった。


「我慢のならん話だねぇ」
 と言った相手がいた。僕の部屋、僕のリビング、僕のソファで。
「それでボゥイ、ヘイナイスガイ、ロメオ様! カメラテストしてさよーなら? やるねやるねぇと言いたいところだが、断じて否! お前は爪の先ほどもやってない!! お前の社会不適合は重々承知していた我ながら、年月というものが少しは先進的に作用したと期待したことが間違いだった!!」
 それは確かに馬鹿な話だ、と僕は心の中だけで大きく頷いた。年月なんてものに期待をかけるなんて、楽天もすぎるというものだ、と思うけれど口には出さなかった。
 そして彼は相変わらず、壊れた鳩時計のような饒舌さで、言う。
「だってお前、気むずかし屋で有名なあの人形界のプリンセス・平田開闢にお目通りしておきながら、お尋ねしたことはお歳のみだって? 信じられない! アンビリーバァ!! お前はもう少し、ロマンとか、と、き、め、き、とかそういう物を持てないのかね!」
 ソファに寝そべる彼は腐れ縁の友人で、名前はといえば真木遊成【まきゆうせい】。出会った時は別の名前だったような気がするけれど、もうその頃の記憶は無い。「今日から俺の名前はコレだから」と言われて、それから僕にしては珍しく律儀に暗記している。というより、目につくことが多いから忘れようもないだけかもしれない。
「真木。君はこんなところで一体なにを?」
 僕はひとまず、それだけを聞いた。
 本当は人形師に尋ねたのは歳だけではなく人形の名前で、僕にとってはそちらの方が大変に重要なメモリであったのだけれど、訂正してやる気にはなれなかった。彼の半独り言が三倍返しで返ってくることがわかっていたので。
「なにを? なにをと聞いたかい? よし答えよう! こんな君の家でとりあえず寝そべり、こんな家主から有名人のことをお聞きしようとしている僕のことだ! いいかいこれはあくまで僕とお前の個人的な交遊であって決して締め切りが近づいていて担当さんに追われているからとかなかなか筆が進まなくて気分転換に逃走したとか実は締め切り近づいているというか過ぎているというかうんぬん」
 どちらにせよ、真木の一声は長い。肺活量に恵まれている。小説家になんてならずに、歌でも歌えばよかっただろうに。アコースティックギターでも持っていたらそれなりに様になりそうな容姿だった。茶色く色を抜いた髪をうなじで細くひとつにまとめて、眼鏡はいつも薄いカラーグラスだ。それがさほどに見苦しくない、人間なのだから。
 真木と僕とは高校時代の級友だった。僕のような人間と真木のような人間が腐っても縁、をつなげるのだから、学校という場所は大層なところだ。感謝をしたわけでもないが、無感動にそれだけ思った。
「ふぅん」
「あ。貴様またそうして流したな。華麗にスルーという特殊技能じゃありゃせんか! 失礼とは思いませんかねこうして語っている真木遊成に対して!」
 ソファから身を乗り出して、いつものカラーグラスの向こうの瞳が食らいついて来そうだった。面倒だなと思う前に僕は口を開いていた。
「出版社の番号あったかな」
「すみませんごめんなさいもう黙ります」
 真木はそう言いながら、きっかり五秒の後にまた口を開いた。
「しっかしね、もすこし人間的な会話したらどうかと思う訳よいつも言っているけども僕はお前にね。人間関係円滑に進める上での潤滑油っていうのはあるに越したことがない、ではなくある程度はなきゃ困るんだ。歯が浮くような世間話にも意味があるってこと。曰く、『今日の空は青いですねキミの瞳のようだセニョール』『まぁなんてお上手なのかしらジェントルメーーン』!」
 真木は言って両腕を虫食い花のようにかぱりと広げた。躁病の気がある友人だ。同時に多分程鬱病の気もある友人ではあるけれど、そこまで他人に見せることはしない。彼の中で恥じらいがあるのだろう。それらは感受性を十代で止めてしまった彼の代償だと僕は認識している。
 そうして真木は多分一生若いままで終えるのではないだろうか。
 それはとても幸せなことだ。
 僕たちはどちらもそれなりな、ひとかどの、クリエイターと呼ばれる職業なのだった。といってもそう思っているのは僕だけの可能性は高く、真木はいつも笑う。
『俺はクリエイターではなくてエンターテイナーなのですよ』
 夢と心と愛想を切り売りする彼は、自分をさほどに評価しない。ひとまず数字の上でだけ見れば、同じクリエイターでも年収は真木の方が桁が三つほど上がるはずだった。
 高校時代、初めて出会った頃から僕達は自分の道を見据えたつもりでいた。しかし僕らはお互いの創造物を理解し合えぬままずるずるとここまできている。
 真木は僕の撮る写真を「ロマンがない」と一蹴し、僕は真木の書く小説に目を通したことがない。
 そもそも十代、二十代の女性に大人気の恋愛小説家の作品がどうして僕の手元に届くというのだろう。そちらの方がなにかの間違いめいた話だ。ましてや僕の部屋のソファに転がって蘊蓄を垂れているだなんて。すぐさま警察を呼ばないだけの縁はこれまであることにはあったが、だからといって仕事以外の過去の繋がりが現在まで続くことは僕には至極稀なことだった。
「真木の小説ではそんな言葉が羅列されているのかな」
 気になったわけでもないのに、聞いてみた。
「マサカ」
 真木の答えは即答だった。
「俺の小説はもっと煌めく星の王子様だよ。腹の足しにもならない愛だとか恋だとかそういう遠い世界の物語だ。人はパンのみに生きるにあらず、お菓子のみでもまた生きられず、ってね」
 言いながら真木は自分の言葉に感激して少しだけ涙を浮かべた。ゆっくりと言葉の速度と温度が下がっていく。冷えていくのではなく沸き立つ熱から人肌に戻っていく。人の姿から獣に戻るように。それとも獣から人に? どちらかはわからないけれど。
 彼はもうすぐ出て行くんだろうな、と未来予知のように僕は思う。
 理由無く訪れる彼だけれど、僕の部屋を出て行く時の理由はいつでも同じだった。
 とても小説が書きたくなっているのだろう。
「あー……それでだ。まぁ、なんつぅか、そのうち、もしも仲良くなれたりしたら紹介してくださないな。十も離れた生娘にはご用は無いが、人形師平田開闢にはかなりの興味があるから」
 口の中だけでそう言いながら立ち上がって、玄関にフラフラと向かう。
 こうなったら挨拶なんてしようとしまいと同じ事だ。真木はその、愛だの恋だの『遠い世界』に旅立ってしまっている。星の違う王子様になって。
 バタンとドアの閉まる音。
(仲良くなれたら)
 無理だと思う。
 思うけど、言うのは簡単だ。望むのも簡単だ。社会不適合者である僕と、あの恋愛小説家が一緒にいるのも僕が彼にとって、彼が僕にとって(多分)役に立つというその理由だけだった。ギブ・アンド・テイク。単純明快で、割と優しい理由。真木は自分の小説のために僕の存在を利用する。例えばこうして行き詰まって好きなように語り、例えばこうして有名人とツナギをとれと言い。
(仲良くなれたら)
 でもそれは無理だと思う。
 今更のような、ことだけれど。


 二度目の訪問はほんの三日の後だった。平田家の玄関先で、ドアを開けて出てきた人間と鉢合わせる。平田嬢ではないのだろうと思った。タートルネックのトップスを着た、背は低いが小柄とは言い難い女性だった。平田嬢の家族とは思いがたかった。彼女とはお互い同じ空気を吸って眠れない人だろうなというのは、どこまでも勝手な印象と推測だった。せいぜいが回覧板を回しに来た近隣の人間、といった、平田嬢にはない生活感が感じられた。エプロンと買い物カゴを腕から提げていて、あからさまに自身の機能性を主張している人だった。
「あら」
 僕の姿を目に留め、それから肩からさげた三脚と、カメラその他大仰な荷物をまじまじと見詰めて、「お嬢さんなら駄目ですよ」と、尋ねてもいないのに近づいてきた。彼女が三歩身を乗り出すようにして来たので、僕は反射のように半歩だけ下がった。
「どこの記者さん? 新聞? 雑誌?」
「いえ」
 短く僕は答えた。どこの回し者になった覚えもなかった。人に師事したことも無いことは無かったが、ここしばらくはフリーで撮り続けている。
「ただのカメラマンです」
 体面を取り繕うように饒舌になる気にはなれなかった。彼女の不躾な視線から、僕が一体如何様な存在として扱われるのかは、僕の主張に左右されるものではないのだろうと思った。実際、平田嬢の人形を被写体にした写真を、どのように発表するかはまだなにも決まっていなかった。世に出すにしろ蔵に仕舞うにしろ、写真の出来上がりを見てからだった。こんないい加減な態度で良く撮影を許されたなと自分でも思うけれど、写真を撮らせて頂きたいのですがと初めてこの家を訪れた時、平田嬢はそういったことにまるで口を挟んで来なかった。ただ、最初の数秒固まって、「あぁ」と言った。それからもう、アトリエに通された。
 目の前の女性はふぅん、と生返事だけを返して来た。
「あ、わたしはね、ここの家で家政婦みたいな仕事してるんですよ。通ってるの」
 それから聞かれてもいないのに職種を教えてくれた。お礼を言うところではないなと思った。
 お嬢さんなら駄目ですよ、と家政婦氏はもう一度言った。何度も同じことを言う、ロールプレイングゲームの町人1のようだった。しょうがないから僕は聞いた。
「なぜ駄目なんですか」
「なぜって! そりゃあねえ」
 また一歩近づいてきた。どうやらずいぶんプライベートエリアの狭い人らしい。いけませんよと、出来ることなら教えてあげたかった。
 そこ、あなたの、入っていい場所じゃないですよ。
「言いにくいことなんだけどねぇ」
 と、嬉々として『家政婦みたいな仕事の人』は言う。
「お嬢さんはね、今こもってらっしゃるの。ちょっとね、難しい方だからね、なんていうの? 最近よく言われるでしょう、ええ、ええ…………」
 へぇ、と適当に相づちを打つと、そうなのよ、と家政婦の付近をうろついている人は言った。
「お病気なのよ。お心の」
 へぇ、と言い飽きたので黙った。
「今とても荒れてらっしゃるの。だからね、だから駄目なのよ」
「そうなんですか」
 僕の返答はなんだか壊れたカーナビのようだな。
 買い物カゴを持っているってことはこの人はこの家に帰って来るのかなあと思う。帰って来ない方がいいのに、という意味のことは僕の管轄外のことだから言わないし、言えない。早く行けばいいのにね。
 この人は心の病というものをなにも知らない。気を違えるということが実はまったく自然であるということなど、なにも知らない。
 それからしばらくの間僕のことをじろじろ見ると、家政婦付近の人はゆっくりいなくなった。僕は玄関先で佇んでいた。駄目だと言われたからといって帰る気は毛頭ないのだけれど、少し迷いが生じていた。三日前に僕が彼女に邪魔だと言ったように、仕事に没頭したいのならば、僕は邪魔だろう、と思ったのだ。僕を邪魔だと思うその気持ちに遠慮するわけではなく、ただちょっと、不純物が入ることはうまくないなと思った。彼女の仕事、それから僕の仕事も、純度が高められるのなら、それに越したことはないのだ。もっとも、不純の中でこそ純んでいくという感性を、僕は信じてもいるんだけれど。
 なにもせずにただ立っていた。この、なにもせずにただ立っている、ということが出来るのが、ある種の必須条件である仕事はままあり、カメラマンの一部も明らかにそこに属している。当たり前のことだけれど、シャッターチャンス(僕はこの言葉が気持ち悪いなと思ってる。ただの嗜好の話)はつくりだすんじゃなく、ただ待つだけである、ということ。
 その時、作業場の方から、ひどく乱雑な音がした。
 低くてどことなく痛みを伴う音だ。
 嫌だな、と思った。ああ、嫌だなあと思いながら、僕はそこへ足を踏み入れる。


 プレハブのアトリエ小屋には申し訳程度に嵌め殺しの窓があって、少しだけ独房に似た雰囲気がある。時刻は正午を少しまわった頃だったから、殺された窓から差し込む光が、辺りに散るホコリを照らしてなんだか天上の光景のようだった。
 でもそこにいたのは別に天使じゃなかった。
 平田開闢は、アトリエの真ん中で、死体を粉々にしていた。
 ゴリ、という音がする。髪を踏みにじるのが砂利めいた音だった。彼女が一心に暴虐していたのは人形の死体だった。
 少しうろたえて息が止まったのは、それがリザだったら嫌だなと思ったからだ。虐げられるところを見たくないなと思う程度には、僕は彼女に心を移していたのだと自己認識した。
 けれどそれは杞憂だった。リザは先日とは違う、小屋の隅で、外を見つめるように首を回していた。
 その頬は薄い薔薇色。
 完成した彼女の命。
 また新しく、平田嬢が一体の腕を折った。僕は冷静にその姿を見た。
 平田嬢はくたびれた姿をしていて、顔色が悪かった。シャツは違っていたが、先日と同じ黒いロングスカートはところどころ白い粉に汚れていた。
 彼女が蹂躙しているのは彼女の人形だった。つくりたての新しいものではなく、古いものだ。それは結構な値打ちものだったんだろうと思うけれど、僕には彼女を止める権利はないし、実はこうしてその行為を観察する権利もない。
 けれど見ながら(そうでもないな)と思った。
 この間見たときよりも、正常だなあと思った。人の形をめちゃくちゃにしていくその姿が、それほど「お心のお病気」のように見えなかった。
 正常な反応なんじゃない? と僕は思った。そんなことよりも、馬鹿みたいに、細い手首だなあ。
「なんだ」
 突然、平田嬢が声を発した。顔は上げなかった。虐げた人形を凝視する目玉さえ、動かなかった。
「なにをしているんだ」
「いえ、特に、なにも」
 あえて正直に徹した。気の利いた返事を考えるのが面倒だったせいもあって。
「そうか」
 平田嬢は浅く胸を上下させると、やはりこちらを見ず、「邪魔したかな」と呟いた。
 変な人だなあと思う。ここまでの所業よりももっと、そう感じる。ここはあなたのアトリエであなたの仕事なんですよ、と言ってあげなくちゃいけないのかな。面倒な人だなあと思う。
「いえ。出来たんですね」
「というと?」
「リザ」
 そこでようやく平田嬢が顔を上げた。目の周りが少し落ちくぼんでいた。濁った爬虫類の黒目にゆっくりと光が戻っていく。
「完成したんですね。なぜ外を?」
 こちらではなく外なんて見ているのかな。そういう意味で呟いたら、平田嬢はくみ取ってくれたようで、
「……見せるのは、酷かと思って……」
 ささやくように言って、肩を落とした。
 僕は思わず言う。
「特別扱いじゃないですか。すごいな」
 つまり平田嬢はリザをつくったからこれまでの人形がいらなくなったんだろうと思った。そうしてこうして破壊活動にいそしみ、またその情景をリザに見せまいとする気配りまで持っている。その事実に驚いたわけではなくて、すごいなと感嘆したのは、ちゃんとその自分の心を把握して実践出来たということ。やっぱりこの人は気が狂ったりしていないのだなあと、さっきの誰かを浮かべながら思った。
 すると平田嬢は素直にためらいなく頷いた。
「うん。特別なんだ。びっくりした。悪いことをした。私は、悪い子どもだ」
 悪い子どもになってみたかったんだ、と平田嬢はかかとの低い靴で、何度も人形の足首部分を踏んで見せた。
「でも、仕方ないですよ」と僕は言う。慰めでもごまかしでもなく。
「つくってしまったんだから、もう、仕方ないですよ」
 そうだね、と平田嬢が言う。
「本当にそうだね」
 ふう、と魂が抜けるように、そう呟くと、足を地に下ろす動作で平田嬢は少しよろめいた。
「血糖値が下がってる気がする」
 下がってるのはそれだけじゃないだろう、と僕は思う。
 まぶたを痙攣させながら平田嬢は両の手を払い、「なにか食べる」と僕の隣をすり抜けていくので、僕はその後ろに続いた。別に粗茶でも出してもらおうと思ったわけではなくて、単純な好奇心だった。このくたびれた人形のような少女が、「なにかを食べる」と言ったことに、少しだけぞくぞくとした。それはどんな光景だろう。どれくらい平凡で、どれくらい気持ち悪いんだろうか。
 そして僕ははじめて平田家の母屋に入り、大して変わらない空気を吸って、あまり熱のない台所に入っていく。
 薄暗い、ひどく古いものと新しいものが混在するそこで、平田嬢は装飾のない冷蔵庫を開いて、白い皿と、そこに乗った少し形のくずれたオムライスを取り出した。サランラップでラッピングされた、ケチャップのないそれ。
 台所のテーブルに座り平田嬢がラップをはがしたので。
「冷たいですよ」
 お節介だとわかっていたのに言ってしまった。わかっていたのに、ということが、なんの免罪符にもなりはしないのに。
「それ、もう、冷たいですよ」
 温めましょうかという言葉は出さなかった。お節介を通り越して罪悪だと感じたし、僕は微塵もそうしたくなどなかったのだ。
 そして冷え切ったオムライスをなぜか塗りものの箸で食べながら、平田嬢が簡潔に応える。
「冷ましたんだ」
 なるほど、と僕は思う。嘘や誤魔化しではないのだろうと感じた。
 なるほどあなたは猫のような人ですね。餌をもらい慣れているくせに、恩などかけらも感じないんだ。それどころか食糧から立ち上る湯気を不快だとさえ感じるふてぶてしさがある。あなたはこのボロ家が壊される時に取り残されるといい。そうちょうどその辺りの窓辺で、外から丸見えの窓ガラスの中に、標本のように閉じこめられて、見物人の同情を一心に浴びるんだ。そしてお節介な誰かが危険を顧みず窓ガラスを割ったとしたら、その不躾な手をすり抜けて一目散に走り去るといい。僕は見物まではするけれど、絶対にガラスを割らない。
 絶対にガラスを割らない。
 だってそのまま死んでしまっても、それだけのことでしょう?
 冷たいオムライスを半分残し、「あとは夕食に食べる」と言い残す。聞いてもいないのに律儀な人だなと思った。僕はあなたでたくましく妄想をしているだけなのにね。
「僕は食べたりしませんよ」と言おうとして、なんだかつまらなくて笑えない話だと思って、やめた。食べたあとは綺麗だった。きっちり半分。飢えたことのない人の食べ方だなあと、勝手に決めつけた。
「今日は何曜日でしたっけ」
「私に聞くことか、それは」
「だって曜日の感覚なんて、なにかを取り決められたひとのものでしょう。僕ははみ出し者なので、あまりに気にしたことがなくて」
 でもあなたは曜日に縛られる子供のはずでしょう、と言おうとして、あれ、と思った。あれ、十八ってどんな身分だっけな。タバコはよかったっけアルコールは薬の摂取量は?
「高校生がご期待に応えようか? 月曜日だ」
 月曜日? 高校生?
 どちらの疑問にも、聡明な彼女はまとめて答えてみせた。
「はみだし者だから。計算では、今年は卒業出来る」
 なるほどね。とてもわかりやすいじゃないですか。
 つまり月曜の午前中に高校生の家を訪れた僕の方が非常識だったわけだけれど、平田嬢はそこに気づいた風もなく、「じゃあ」と言った。僕の隣をまたすり抜けて、熱に浮かされたような目と足取りで。
 僕は思わず答えていた。
「ああはい、じゃあ、また」
 そうして僕らは、その日は、さようならを言わずに別れた。
 だから、彼女がそのあとどれほど壊れてしまったのか、僕は知らない。


 雨が降りそうで降らない、ぐずついた天気が続いていた。自殺者の増えそうな秋の空だった。
 時計を見ると、先日人形師の家で迷惑な人と会った時間と同じタイミングになりそうで、ちょっと顔をしかめた。エプロンに買い物カゴ。覚えていたくないものに記憶の容量を割くような無駄はしたくなくて、気休め程度に煙草屋の前で三本煙草を吸った。
 あの家のあの人、いなくなってくれないかな、と思うのはひどい傲慢だとわかっていたけど、僕が平田嬢のような年齢の時は親の金を頼りにしながらひとりで暮らしていたのだから出来ないことじゃないよとも思う。その一方で出来そうにもないなと、塗り箸でオムライスを食べるアンバランスさを思いだしながら勝手に判断するのだった。
 ひとりで生きていくべき人は、大抵が、ひとりで生きていくと死ぬような人なのかもしれない。その場合、死んだ方が幸せなのかどうかは、僕にはわからなかった。
 三本目の煙草をつぶして、視線の先にあった花屋に気まぐれのように入っていくと、いらっしゃいませとはれやかに迎えられた。地面が少し濡れていたけれど、暖房が入っていないところがよかった。
 花の名前は多くは知らない。数でいえば星座の名前より少ないだろう、というくらい。豪勢な白いユリの花を指さして、「適当に花束にしてください」と頼むと、店員がケースから花を引き抜いてきた。
「贈り物ですか?」
 と尋ねられる。いいえ違います、と言いそうになって、頭をよぎったのは人形師ではなく彼女が作った美しい人形のことだった。
「はい」
 赤いリボンをかけてもらって、メッセージカードはなしで。手際のよさをアピールしながら、店員は僕が退屈しないようにと話題まで提供してくれる、サービスが過多だった。
「こちらテッポウユリですが、贈り先では猫とか、お飼いじゃありませんでしたか?」
 猫。どうだったかな。あの生き物は人だったか爬虫類だったか、もしかしたら猫だったかもしれないな。
「飼っているとどうかなりますか?」
 問いに問いで返したら、店員は小さく困り顔で「でしたら、ユリはおすすめ出来ません。猫には毒になる場合があるんです。花粉だけでも……」と手を止めた。
 へぇ、と思った。花に対する興味も知識もない僕だけれど、その事柄は面白いなと思った。そしてもしもあの猫に毒になるのなら、持っていってやりたいなと思った。
「大丈夫です。でも、花粉が落ちないように切っておいてもらえますか」
 粘着質のその粉が、リザの美しい指にでも落ちたら、それは耐えられないことだから。
 花束を抱えて電車に乗り込む。人形師の家までは距離があるが、土曜日の日中、郊外へ行く電車は空いていた。
 大きな荷物と花束で、優に二人分は座席を占領していたら、乗り込んできた髪の長い女性が僕の方に歩いてきて、僕の名前を呼んだ。
「久しぶりね」
 傍らの花束よりもにおいのきつい、香水だった。僕の前に立って、毒々しい赤茶の唇を曲げながら、二色に分かれた爪の生えた手で、僕の側のポールをつかんで、見下ろすみたいにして立った、その人に僕は席を譲るべきかなと考える。
 席はたくさん空いているのに、僕の目の前に立つだなんて、老人が若者の乗車マナーを諭すようなものだろうと思ったのだった。
「どちらさまでしたっけ」
 と、落ちかけた眼鏡も上げずに僕が尋ねると、赤茶の唇の人はひきつったように笑った。
 眼鏡の落ちた僕には、唇より上は認識出来なかった。
「冗談?」
「いいえ」
 僕は本当に覚えていないのだった。
 多分どこかで見つけてどこかで拾って、どこかで捨ててしまった女性のひとり、なんだろうと推測は出来たのだけれど、僕は確かに異端的な性癖を持っているので、同じ女性と二度三度と会う必要性を感じられないのだ。だから携帯のメモリと同じように記憶の容量が圧迫されることはない。高校生の頃の相手だったかもしれないし、先週のバーで隣に座った女性だった可能性もある。腐れ縁であるところの真木遊成が、「お前はいつか刺される。むしろ俺が今すぐ刺さんとす」と言ってはばからない、僕の悪徳のひとつ。
 その被害者なのか犠牲者なのか、彼女はけれど報復の機会でも探っているようだった。
「じゃあ、これから思い出してもらうわ。時間はある?」
 復讐は仕方のないことと思うけれど、僕もそう、それが半月前のことなら、お付き合いしてあげようかなと思うのだけれど。
「どうぞ」
 立ちあがって席を譲る。
 僕の降りる駅が近づいている。「やだ、ちょっと」と手を伸ばした。その二色の爪が僕の方に伸びてきて、上着をつかもうとしたので、
「やめてください」
 思いの外強い声が出た。大人げないな、と心のどこかで思った。けど、いつかのプライベートエリアの狭いあの人も、僕にさわってはこなかったし。
 赤茶の唇の人は固まってしまったので、その指がこれ以上こちらに浸食してこないことに安堵して、僕は丁重にお断りする。
「花のにおいがつきますよ」
 一言そう言って、電車を降りる。
 降りたホームのゴミ箱に、上着を捨てる。
 そして僕はもう一度、念入りに、唇が赤茶の彼女の、記憶を消した。


 軽いトラブルに見舞われながらも、たっぷり時間をかけて人形師の家まで行ったら、上手く都合が運んで人形師がひとりきりだったので胸をなでおろした。人生の損得勘定は、こういうところで公平に調整されているのかもしれない。
 平田嬢は花束を見ると眉を寄せて。
「毎回荷物が増えるな、お前は」
 と呆れたように言った。今日はワインレッドのカーディガンを着ていた。寒い作業場にその薄いカーディガンが、集中の度合いを物語るようでよく映えた。
 過度の期待をされては困ると頭のどこかで思ったのか、挨拶の前に口をついて出たのは、ひどく失礼な一言だった。
「あなた宛じゃあないですよ」
「知ってるよ」
 言いながら手を伸ばしてきた彼女の腕に収まる、ユリの花束が大きすぎて、どんな顔をしているのかわからない。「水にさしてくる」と背を向ける人形師の背中に声を掛ける。
「食べてもいいですよ」
 その声は届かなかったのか、平田嬢の小さな背中は母屋に消えた。
 食べてもいいですよ。それ、あなたには毒かもしれませんけど。
 月曜日ぶりに会う、リザは今日も美しかった。
 その温度の低さに息のしやすさを感じて、深呼吸をひとつしてから、照明のセッティングをはじめる。
 紺の花瓶に花を生けた平田嬢が戻ってくる。
 品のいい花瓶に、口には出さず満足をしながら、別のことを尋ねた。
「リザは熱に強いですか?」
「強くもないけど弱くもない」
 と花の角度を整えながら平田嬢は言った。
「燃やせば燃えるし、人体よりは異臭を放つことが無いと思うけど」
「そんなことは聞いてませんけど」
「じゃあ何を聞いてるんだ」
「昔、蝋人形を撮ろうとして照明あてたら溶けちゃったことがあるので。あの時はスプラッタだったなぁ」
 なんてことのないことのように言ったら、人形師はその生まれながら整っていたであろう眉を寄せて。
「……弁償したのか?」
「逃げました」
「…………」
「冗談ですけど」
 本当は廃棄物に近い蝋人形だったから「あーあ」で済んだのだけど。思えば人形にハマッたのはあれからなのかもしれない。だって、光をあてただけで無言のまま溶けてしまうだなんて、たまらないことでしょう。
 そんな冷たいもの、なかなかないよ。
 今年の冬は北海道に行こう、と唐突に思う。
 雪祭りに行こう。
「そうか。性癖がおかしいんだな」
 平田嬢は一言そういってくるりと背を向けた。アトリエの隅、段ボールの積まれた一角に向かっていく。
「あの」
「なに」
 後ろ姿は小さかった。
「別に、邪魔ではないですよ。その辺にいて頂けるんなら」
 邪魔をしないで頂けるんなら、邪魔ではない、という意味のことを言ったつもりだった。
 やはり、今回は前のい蝋人形とは勝手が違って、具体的に言えば被写体の金額が違うわけで。
 厳密には、リザにはまだ値段がついていないけれど。
「あぁ、そう」
 平田嬢は無感動にそう答えた。
 その気持ちがわかるな、と思う。そういう平坦な、無味乾燥な返答をする気持ちが。
 了承を得てから、リザに触れる。その髪を手櫛でとく。
 唇が紅い。作り手である人形師はなにひとつ白粉のにおいさえさせていないのに、美しい、完璧な化粧だった。
 照明の微細な調節の後、ファインダーを覗き込んだその時だった。
 激しくにぶい、思わず眉間にしわが寄る音がしたのは。
「は……?」
 振り返る。
 過日のこと。ここは確かに虐殺の現場だった。彼女がここにある遺物を駆逐して虐殺して、そしてその残骸を段ボールに詰めてことを僕も知っている。安っぽい刑事ドラマみたいに。だからアトリエの隅にはその段ボールが積み重なっていた。どれかに手をでも触れたのだろう。どうでもよく積み上げられた段ボールは、反逆みたいに彼女を襲った。手首の細い腕が積み上げたものだから、ひとつひとつは大した重さと容量ではないけれど、その段ボールの中に、埋もれている平田開闢嬢を見た時にはどうしようかなと思った。
「あの……」
「痛い」
 平田嬢は段ボールに埋もれて埃で髪を汚したまま、僕を睨み付けるようにしてそういった。僕のせいではないと思う。そう、責任の一端もありはしないはずなのに、どうして僕はそうして睨まれなければならないのだろうと思った。今更そんな姿を恥ずかしがるような真っ当な神経でもないくせに。
 真っ当な少女という生きものでもないくせにさ。
「はぁ」
「お前。ここで大丈夫ですかと言って手を伸ばさないのは紳士失格なんじゃないか」
「それは、どうも、ごめんなさいね」
 口をついて出たのはその言葉だった。少し虚をつかれた顔を、平田嬢はした。
 平田嬢はゆっくりと僕の手元を見て、僕がカメラからまったく手を離さないのを確かめた。そして小さく息をついて、自分の力で起きあがった。子ども向けアニメのバンビの生誕のような、硬質の動きだった。
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないように見えるのか」
「見えませんけど。髪に、埃が付いてますよ」
「……」
 平田嬢はだまって、頭を犬のように振った。年相応の仕草ではあったが、そのすぐ後に見上げた目つきは、年相応だとはとうてい思えなかった。
 そして平田嬢の薄い唇が動く。
「そんなにも、他人に触れるのは嫌か」
 小さく呟いた、その言葉に少しカメラをさわる指に力を込めた。
 僕は答えなかった。答えずに、その目を見ながら、作り物のようだなと思った。もう少し見つめて、人間のようだなと思った。人間のようだな。
 不自然な沈黙が流れた。
 僕は常々思うのだけれど、沈黙とは美しい。
 だから写真が好きなのだと思う。
 沈黙する風景が美しいのではなく。
 そこに横たわる、沈黙が美しいのだ。
「まぁ、いいけど」
 やはり沈黙を破るのはその声だった。ひとつ小さな息をつき、平田嬢は崩れた段ボールを片づけにかかる。ひびの入った手足をまた箱に詰めていくその仕草が、哀れみを誘う。
 なんだかかわいそうな気がした。
 かわいそう。
「はい。さわれないんですよ」
 僕はとても正直にそう言った。自分に出来うる限りの正直さ、それこそ医者を前に自分の病状を進言するような素直さで言った。
 平田嬢は振り返らない。
 なんと言ったら振り返るのだろう。
「さわれないんですよ。人肌って言われるじゃないですか。あの温度が駄目なんです。虫酸が走るんですよ。耐えられない。紳士としては失格ですが、そもそも合格しようと思ったこともないもので」
 人としてもとうの昔に失格していると思うんですが。
 やっぱり、合格することに意味があるとは思えなくて。
「だから、リザは好きですよ」
 あ。しまった。
 言ってから、しまったと思った。
 流石に人間失格な僕でも、言っても良いことと悪いこと位の区別はつくはずだ。まずいと思う。まずいでしょう? たとえばここに真木がいたら、僕のことを叱るんだろうな。お節介な教師のように。
 だからお前は駄目なんだ、カメラマン。
 根拠と結果を羅列する、真実ばかりが美しいとは限らない。真実ばかりが喜ばれるとは限らない。
 僕は大人だ。もうそれなりに、分別がついてもいい年頃のはずだ。酒を買うのにも煙草を買うのにも運転免許証の提示を求められることは無くなった。朝目が覚めて曜日に縛られることもないし、通知簿の協調性にバツがつくこともない。
 それなのに。
 淡々と段ボールをもとあったように積み上げる、白いうなじが、喋りだす。
「人形界のお姫さまは、とても偏屈で、そして我が儘なんだそうだ」
 聞こえた声はいつものアルトだった。振り返りはしなかったけれど、それは気分を害しているようにも聞こえなかった。
「自覚はある。たいていの写真家は玄関で断ることにしている。だが、私はお前の撮影を拒まなかった。それは、お前が最初に私に握手を求めなかったからだ」
 段ボールを片づける指が、白いなと場違いに思った。
 平田嬢の言葉は続く。
「私の人形を撮りに来ておいて、先に私にカメラの照準を合わせようとする。無礼も程々にしてほしいものだ。ここにある人形が、私よりも劣っているなんて、これ以上の侮辱はない。そうだと思わないか?」
 そこで初めて振り返った。
 そして笑った。
 人形のような、人形師は笑った。モナリザのような笑み、人間のような笑みで。
「なんだ、結局、私も人間が嫌いなだけかな」
 その淡い、雪どけのような笑みに、すこしばかり手が、無意識に動いた。
 カメラをつかむ、僕の手が。
 シャッターを、切ろうとしたのではなければ良いと思う。自分自身に、祈るように、思う。
 どうか、そのような愚挙に出て、人間嫌いな人形師を幻滅させないように、と。


 人形ってさ、なんだと思う?
 僕はわからないな。
 あれは一体なんなのかな。人なのかな。絵なのかな人なのかな魂なのかな。そのどれでもないと僕はわかるし、なぜかふくらみとまるみととげがあるんですよ。それから固さと形がある。ねぇ、本当にあんなもの、十八の生娘がつくれるはずがないんですよ。でも、これまでもつくってきたという話じゃあないですか。どうしてかというと、タネ明かしは実に簡単で、君も知る通りこれまでの人形達は七光りであり遺産であり模造品【レプリカ】であり、ただの量産品のプラモデルであり彼女の作品であったことなんて、彼女がつくったことなんて一度もなかったんだ。でも、それがあやまちだと僕は思わない。思えないんですよ。それをし続けていたのは彼女の選択で、受け入れて悦んでいたのは彼女。それでいい、と思っていたのは、過去に彼女の組み立てたそれらを見れば一目瞭然で、満たされていたはずなんだ。
 幸せだったろうにね。
 模倣であれ盗作であれ代替であれ、決して誰も彼女を罪に問えないし、せいぜい出来ることは後ろ指をさすことぐらいで、でもそれは平田嬢にはなんの関係もない。だってそうでしょう? 彼女は決して、後ろなんて見ないんだから。僕がむしろなぜと思うのは、今ここで『なぜつくったか』ということなんですよ。どうして扉を開けたのか、『新しくつくってしまったのか』、ということ。もう戻れないところに、どうして行ってしまったんだろう。必然だったなんて思いませんよ。彼女は言わば死体をつくっていたのに、ここにきて生体【なまもの】をつくってしまった。その違いはあんまりに大きいし、そして残酷なことに彼女はつくりあげてしまった。そう、つくりあげてしまったんだ。失敗すればよかったのに、それを許さなかったのは誰かな。死霊や神様というやつなのかな。それとも老祖父の愛情が、彼女にGiftとなってしまったのかな。僕は君と違ってそういうものの声を聞いたことがないからよくわからないんですよ。もしも僕にそういうものがいたとして、絶対に黙っていたと思う。君のそいつとは違って、僕は沈黙しか信仰は出来ない。戸惑ってる? うろたえてる? 同じ意味ですよ、それ。でもああ、確かにそれは否定はしなくて、ほんの少しばかりですけれど、存在しなかったらよかったのにと僕は思ってる。他の大量の平田開闢の人形が、どれだけ素晴らしく芸術であっても、僕の興味はかけらも動きはしなかったしなにも珍しくはなかったんだ。そう、どうしてあの人はさ。――リザなんてつくったんだろう。
「どうでもいいことだよ」
 と言ったのは、僕の隣で煙草に火を入れる真木。
「至極どこまでもどうでもいいことだ。なにをそんなに饒舌になってるんだ」
 大丈夫、と薄っぺらい言葉で真木は言う。
「どうでもいいことじゃないか。お前の写真は、ちゃんと黙っているんだから」


 僕の持参した写真を見ながら、平田嬢はアトリエの地面に座り込んで息を漏らした。
「ふぅん。よい写真を撮るんだな」
「写真のよしあしなんてわかるんですか」
 このプレハブのアトリエに通うようになって数週間が過ぎ、もはや雀の涙ほどの遠慮さえできなくなっている。そして平田嬢も、その点においてあきれるほどに無頓着だった。
「わからんよ。言い直す。好きな写真だな」
「そうですか。どうも」
 僕は無感動に答えた。
 ファインダー越しにリザを覗く。
 一度、家政婦の人が嫌いだなと呟いたら、件の人をぱったりと見なくなった。来てはいるんだと思う。そうでないと、平田嬢は餓死して腐乱してしまうだろうし。けれど僕のことをおもんぱかって、僕のプライベートエリアには入らないようにしてくれたんだろう。
 しばらくともに過ごしていると、彼女がずいぶん臆病者で、気遣いの生きものだということがわかってきた。
 僕と平田嬢では、主権は僕にあるようだった。平田嬢はお嬢様の顔で、そのくせ虐げられることに慣れている風情だった。それは芸術家特有の、自己を追い詰めるマゾっけなのかもしれなかった。
「――……ほかは、撮らなくていいのか」
「ほかは、と言うと?」
「ほかの、これまでの、人形だ」
 これまで平田嬢がつくってきた人形は、彼女がいくつか手に掛け崩したけれど、まだいくつも残存していた。後ろ指を指されながらも評価を受けてきたそれらに、僕は特に興味をひかれなかった。確かに美しいだろうし、確かに素晴らしいのだろう。美術性(という荒唐無稽なものが存在するのなら、の話)だけならあの人形達のほうがずっと高いのかもしれない、でも。
「あれはあなたのおもちゃでしょう?」
 あなたの人形ではあるけれどあれはあなたの所有物であって、制作物だとは思えなかったし、思わなかった。だから平田嬢が壊すことも殺すことも、自由であるし損失だとは思えなかった。
「わたしのもの、か……」
 と、平田嬢が平然と呟いた。ここではないどこかを見る瞳だった。
 真実あれらの人形は、平田嬢のために与えられたものだった。
 僕の知らない昔話になるけれど、『平田開闢』という男が死んだのはもう八年も前のことだという。戦中から戦後まで生きたその老人はいつの頃からか人の形の狂いになって、たくさんの人形をつくった。死する十年も前には引退を告げ、全ての人形を自宅に監禁したという。そして彼の死とともに、人形の家からころがり落ちてきたのは、人形のような孫娘。
 童話にするには少し生々しくてグロテスクだな。
 ねえ平田嬢、あなたその老人の腸を突き破って出てきたんじゃないですか? 彼のつくりだした人形が動き出したと思うより、僕にはそっちのほうがよほど現実味があるなあ。
 だってあなた、人間なんかになって、しかも二代目として平田開闢の名を名乗り、死した老人の遺物を組み立て遊びすぎるんだもの。
 と、思ったけれど口には出さなかった。饒舌になるほどには、僕らの距離は縮まってはいなかったから。
 ねぇ、いつまでもそうしてお人形遊びをしていたらよかったのに、と心の中で彼女を罵倒する。そうしたら、僕はリザにも会わなかったし、あなたにも会いには来なかった。
 僕らは一生出会わず、交わることもなかったんだ。
 それなのに。
「リザは違うでしょう。リザはそうではないから、僕は撮りますよ。ねえ、今干してある作りかけのパーツならとってもいいけれど、これまでのあれらのためにシャッターを切りたいとは、僕は思いませんよ」
 だから、あなたがこれ以上リザのような人形はつくらず、これまで通り、祖父の遺品だけ組み立て続けるのなら、僕はもうここには来ないし、それこそ本当にさようならですよ。
 まったく、どうしてつくろうとしたの。正真正銘、あなたの人形だなんて。
 こんなもの、一体どんなつもりでさ。
 ゆらり、と陽炎のように平田嬢は立ち上がる。
「なぁ、カメラマン」
「なんでしょう」
「お前、自分のアトリエを持っているのか」
「アトリエ、じゃなくてスタジオだと思いますけど」
「どっちでもいい」
「持ってませんよ。マンションの一部屋を改造して、暗室は作りましたけどね」
「ふぅん」
 言って、平田嬢はゆっくりとスカートの後ろをはたいた。今日は初めてあった時と同じ、モノトーンだ。やはりこの格好が一番似合うと思う。
「有名になりたいか」
「へぇ?」
 突然の言葉に、間抜けな声を出して振り返ってしまった。平田嬢はあくまで真顔だった。真顔で、そして冷静な瞳だった。
「有名になりたいか。よくわからないけれど、なんでもしてやろう。私を撮りたいか。人間に興味がないのか? なら、リザをどうして欲しい。したいように、してやろう」
 どうすればいい、と平田嬢が問いかける。
 嗜虐的な響きをさせて。
「…………どうしたんですか」
「なんだか、気が向いたんだ」
 少しうつむいて、平田嬢はそう言った。ショートカットの毛先が揺れた。
「さぁ、そうそう無いことだ。私が、お前の望みに応えよう」
 僕は自分の重たい眼鏡を意識しながらまばたきをする。そしてさぁ、僕に出世欲というものはあっただろうかと他人事のように考える。そんなものがあるなら、そもそもこんなところでカメラを構えることはないし、あの傲慢で厳格な父親から遠回しな勘当を言い渡されていないだろう。
 どうして欲しいのかと聞かれるなら、続けて欲しい、と僕は思ってしまった。誘導尋問に乗ってしまうように。
 人形を作り、続けて欲しい。
 このまま、開いてしまった地獄の扉を、どれだけ吐いて嘆いて倒れても進み続けて欲しいと思った、けれど口には出さなかった。言葉にするまでもなく、彼女がそれを果たすであろうことはわかっていたから。
(なんでもしてやろう)
 星がきらめくように、その言葉が頭の中を巡った。
 口に出したのは反射行動だった。
「じゃあ、キスを」
 平田嬢は眉根を寄せた。
「…………」
 わずかな沈黙の後に、言った。
「ここは笑うところかな」
「違います」
 すみませんね、僕の言葉が致命的に足りなくて。
「リザに、キスを、してくれませんか」
 今度は瞬きをした。戸惑っていると言うよりも、反復しているようだった。咀嚼し、飲み込み、消化するようだった。
 やがてリザに目を移し、熱に浮かされたように「わかった」と答えた。
 ゆっくり平田嬢がリザに近づく、それにあわせてカメラを構える。
「あなたの作った、あなたのものが」
 淡々と、僕は言った。
「神であるあなたによって、命を、与えられますように」
 平田嬢は頷いた。目の錯覚だったかもしれないが。
 唇を寄せる。リザのまばゆい紅の唇に、小さな平田嬢の、薄い唇が寄る。

 僕は、一度だけシャッターを切った。

 唇が離れて、そうして力が抜けたように平田嬢は座り込んだ。
「命なんて、無理だね」
 小さな呟きだった。「どうして」と僕は問うた。
「あなたは、リザに命を与えて、どうして欲しかったのですか」
 祖父の遺志を継ぐのをやめて、それまでの技術をすべてのみこんで血肉とし、模造品ではなく新しいなにかを作り出して、それは一体、あなたにとってなんだったのか。
 今の僕に欲しいものを尋ねたように、欲しいものが、あったのでしょう?
「あのね」
 平田嬢はうなだれた。
 いつもの声色で、けれど本当に、年端の行かない少女のように小さく言った。
「やさしくしてほしかったの」
 僕は一歩を踏み出す。
 平田嬢の側に、ゆっくりと寄る。
 平田嬢は顔を伏せたまま、身じろぎひとつしない。その肩も、震えさえもしていない。
 僕は、優しさをもらったのだ。この、いろんなところが壊れてしまった人形師は、僕のように平凡で不適合な人間嫌いのために、なんとか、とてもとても頑張って、優しくしてくれようとしたのだった。人形しか友達のいない彼女が、生身の僕にその手を伸ばすのはどれほどの苦痛だったのだろう。それほど白く、細い腕で。
 僕も、なんとかできるだろうか。
 隣に座り込む。いつものように白い、人形のような、人間のような、平田嬢の顔が見えた。
 伸ばそうとする、指が震える。それでも伸ばす。気が遠くなるほどの、時間をかけて。
 僕はむかし、自分がろう人形か雪だるまなんじゃないかと思ったことがある。他人に触れたら、その温度差で、暖かさで、醜く溶けてしまうのではないかと。子どものような罪悪感で、馬鹿げた贖罪の仕方だとわかっていたけれど、誰もいらないしなにもいらなかった。
 そうして僕は永遠に、沈黙する神を信仰する。沈黙を美しいのだと思う。
なにも変わらないのだという予感がある。こうなってしまったものは、もう二度と、どうにもならない。けれど、けれども。
 彼女は優しくしてくれたから。
 指の震えは止まらぬままに、それでも、その頬に触れた。
 人形のように、冷たい頬だった。
 あぁ、なんだと思う。
 なんだ。
(僕だけが、冷たいだなんてそんなこと)
 溶けてしまうだなんて、そんなこと。
 どれだけの嘘で自分を固めて、そうしてひとりでいる気になっていたのだろう。
 君も、そうして僕も。
「……触れるのは嫌だと、言っていたのに」
「気が向いたんです」
 平田嬢はゆっくり腕を持ち上げて、僕の指を、頬と手の間にやわらかくはさみこんだ。
 長い指と、美しい爪の形だった。小指の爪が少し他より小さくて、アンバランスで愛らしかった。
「あたたかい、な」
 目を閉じる。
「平田さんは冷たいですよ」
「私、冷え性だから」
「そういう問題かな」
「どういう問題でもいいよ」
 そうだな、と思った。その通りだった。僕はもっと腕を伸ばして小さな平田嬢を抱き寄せた。
 例えばこれから平田嬢の温度が少しずつあがって、僕を暖めることになったとしても。
 溶けてしまっても、いいな。
 そう思った。


「やぁ今日も多忙かい、有名人!」
「君に言われると癪だな。どうしてかな」
「うーむそれは、さては愛だな!」
 真木はいつもの調子でそう言って、僕の家に上がり込んでくる。マンションの一室ではないので、靴を脱ぐ必要もなくなった、木とコンクリートで出来た僕のスタジオ。その机にバサリと紙の束を置いた。
「これ、読んでおいてよ」
「……なんですか」
「聞くかね。今ここでこの俺に! 俺の職業柄、こういう紙の束がどういう用途で使われるか、かなり用途が限定されると思うんだがいかがなものか。真木遊成の新作ゲラを一番のりで読めること、少しは僥倖だと思わんかね」
「一番乗りも何も、僕は真木の小説を一度も読んだことはありませんが」
「いいから読みなさいって。こっちも急遽ごり押しさせてもらったのは悪いと思ってるけど、そこは俺とお前の仲ってことでひとつさ。今度の新作、表紙に頼むよ。お前の写真だよ」
 にやにや笑って真木が言う。俺とお前の仲なんて、そんなものあったっけ。
 僕はカメラの整備を念入りにしながら返す。
「嫌ですよ、そんな仕事」
「どうして?」
 その問いかけは真木のいる反対方向、僕の背後からあがった。
「…………」
 僕は沈黙する。
「あ! やっ! こーんにちわ平田センセ!」
 真木が片手を上げて嬉しげに挨拶した。開闢は出会ってから少し伸びた髪をかき上げながら、後ろ手でドアを閉めて会釈をした。
 くそう、と思う。
「アトリエにこもってるんじゃないんですか」
「こもってるよ。でも私のアトリエは隣なんだし、話し声が聞こえるんだから仕方ないじゃないか」
 しれっと開闢は答えて、原稿の束を持ち上げた。
「ふぅん……」
「やめてくださいよ開闢。そういう仕事、好きではないでしょう?」
「そういうわけでもない」
 なんて答えてから、つけ加える。
「なんといっても、私は真木遊成の恋愛小説のファンだからな」
「マーベラス!」
 真木が大げさに驚いてみせる。僕も驚いて、思わず振り返った。
「聞いてませんよ、それ」
「そういえば、言ってなかった」
 近くの椅子に座って足を組むと、開闢は原稿に目を通し始めた。他の客なら顔も出さないのに、真木が来ると顔を出すのはそういう訳だったのか。
 腹立たしいな、と改めて思った。
 へらへらとご機嫌な真木をなんとなく睨みつける。
「それにしたって真木。君は僕の写真は嫌いなんじゃなかったんですか」
「嫌いだった、よ」
 ご丁寧に過去形を強調して真木は言った。
「でも、お前が平田開闢専属で脚光を浴びるようになってからは好きだね」
 そうして僕の方に流し目をして、器用にウィンクまでつけて、笑って言った。
「彼女の愛が、お前を変えたのかな?」
 そういうわけでもないと思いますよと答えながら、白い鉢植えの花弁を引く。
 殺風景で温度の低いスタジオには、ユリの花のかおりが満ちている。アトリエと併設したこのスタジオをつくるにあたって、真木が贈ってきたものだった。花ならランかなと尋ねる真木に、ランの花ならユリがいい、そう言ったのは開闢で。
 結局彼女は、猫ではなかったのか、それとも毒を好む猫だったのか。
 どちらかといえば後者かな、と僕は勝手に思うのだ。
 そう、たとえば。誰かの愛が、どんな意味のGiftになるかなんて、わかりはしないけれど。
 落ちた花粉を、さわらないように、と、僕は開闢に告げた。


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