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09.virgin snow


 白い雪と冷たい空気。
 溶けていく私。

 朝早く、郵便受けを開けて封筒のたぐいを取り出す。新聞はとってはいないから、習慣化された行動ではなく気まぐれだった。
 書類の多くは視線を這わすだけでシュレッダーへとかける。
 生きていくのに必要なものはそう数はない。なくして後悔するものなら、なおさら。
 右から左へ流していたら一通だけ、目にとまった。丸みのない、生真面目な文字。リターンアドレスはない。
 既視感があったわけではないのに、敬称略で平田開闢に手紙を送りつけるような輩は、ひとりしか思い浮かばなかった。
「あいかわらず礼儀がないな」
 呟きは、冬の空気に霧散する。
 そんなもの、欲しいとも思ったことはないけれど。
 鋏を使い、封を切る。
 中から出てきたのは、一枚の航空チケット。時間と場所を書いた、メモ用紙。
 それから、雪祭りのパンフレット。それだけ。


「いけませんよ、お嬢さん」と岡本さんは言った。私の家に長く通っている、昔の、隣人だった人の、親類縁者の。頼まれて。お金をもらって。とにかく長く、私の、というより私の家の中の、世話をしていた人だった。
 私は母親というものを知らないので、この人を評価する比較対象がない。
 ただ、くたびれたエプロンの裾を握りしめて、「これまでどうもありがとう」と言った私を、途方に暮れたような目で見た。
「とんでもありません、そんなの、いけません」
「どうして? 私が高校を卒業するまでという約束だったじゃないか」
 私は彼女に、仕事の終わりを告げているのだった。ずいぶん前から決められていたことのはずだったのに、彼女はそれを承伏してはくれなかった。
「お嬢さんが、ひとりで生きていけるわけなんて」
「でも、大人はひとりで生きていくものだろう」
 と私はマグカップに入った飲料が冷めるのを丁寧に待ちながら言う。緑のお茶の、成分を考えながら。
「お嬢さんが大人なものですか!」
 と岡本さんは私の出来ないことを並べ立てる。それはどれもただの事実で脚色もなくて、なのに私は「なんとかするよ」と嘘をつく。
「なんとかなんて……」
 そこで岡本さんはひとりで息をのんだ。怪訝な顔をして、強く裾を握りしめて。
「あの人ですか」
 声を硬くした。
「あの人でしょう、ここしばらく来ないと思っていたから、切れたんだと安心していたのに……」
「切れたもなにも」
 つながっていたことなんてないよと私は思って言おうとした。けれど、代名詞だけで該当の相手を結んだのだから、それはつながりと言ってもいいものなのかもしれなかった。
 どうしてつながったのかもわからないから、切り方なんて、もっとわからないけれど。
「いけませんよ、お嬢さん」
 ともう一度、歯を擦りあわせるように岡本さんは言った。
「いけませんよ、お嬢さん。ああいう人はねぇ、幸せにはしてくれませんよ」
 あなたを幸せにはしてくれませんよ、と決めつけた。
 そうかもしれないなぁと私は心のどこかで思った。そうかもしれない。けれど、幸せはそれほど重要なものだろうか。
 それは、生きていくのに必要なものだろうか。
「不幸になりますよ、お嬢さん」
 そんな言葉を聞きながら、手の中の飲料に目を落とす。
 いつの間にか冷たくなったそれは、幸福の味だろうか。不幸の味だろうか。
 口をつければ私には少し、甘く感じられた。


 平日の空港は人がまばらだった。
「来るとは思っていませんでした」
 と「あの人」は言った。
「航空券まで送りつけておいてその言い草か。ひとを馬鹿にするのもいい加減にしたらどうだ」
「失礼」
 私は「失礼」という言葉をこれほど慇懃に使う男を知らない。
「行きましょう。そろそろ時間ですから」
 こちらに背を向けて、さっさと歩き出す。
 私の荷物も大きくはないが、相手の荷物はそれに輪をかけて小さかった。必要な機材は先に送ってしまったのかもしれない。飛行機には重量制限があるという注意書きを見かけたから。持ち物は少ないけれど、肩にかけたケースいりのカメラだけがその存在を強調している。
(変わっていないな)
 だからなんだというわけでもなく、ただそう思った。


「よく席がとれたな」
 ゆったりとしたシートに腰をかけて、飛行機の離陸を待ちながらふと思ったことだけを言ってみる。
「知り合いに色々と顔の利く作家がいましてね」
 機内に入って曇った眼鏡のレンズを適当な布で拭きながら、明らかに足りていない言葉でそう答えた。
「便利な男なんですよ」
「ふぅん」
 シートに深くもたれかかる。北海道は晴れているだろうかとそんなことを思う。言葉は別の種類を選ぶ。
「久しぶりだな」
 私のスケジュールも私生活も、そうたいした変化は見せていないけれど。
 隣のカメラマンが、最近いくつかの賞を受賞した「時の人」であることは、風の噂で聞き及んでいた。なんて、他人事のようにいうことでもない。賞をとる写真の被写体が、私の創造物であるというだけ。
「それほどぶりでもありませんよ」
 今度はカメラの整備を、さっきの眼鏡とはうってかわった懇切丁寧さではじめながら、なんでもないことのようにカメラマンはそう言った。
 私は唐突に、二ヶ月ほど前読んだ恋愛小説を思い出す。
 長い間の別離の後に出会う恋人達。『久しぶりだね』『あなたと出会っていなかった二十年の年月を思えば、たいした間じゃなかったわ』わずかに目を閉じる。
「そうだな。たいした間じゃない」
 ゆったりと睡魔が降りてくる。


 札幌の雪祭りは、雪像よりも人混みの方が壮観で、はぐれたら彷徨い死んでしまうだろうなと思いながら、ふとまきあがってくる回想に頭のしんがじんと鳴った。
 踏み固められた雪の大地は固く、コンクリートとは違う感触だ。
(「来るんだ」)
 人混み。
 真白い雪像。
 吐いた瞬間に形をなして、消えていく息。
(「こっちだ」)
 それは魂に似ている。

 どうしてあの日私たちはどちらも、手袋ひとつしていなかったのだろう。

 灰色の手袋を外して、コートのポケットに入れる。
 爪の色が白く青く変わっていく。
 私はあの日を思いだそうと躍起になっている。
 肺が痛く、空気の不足を感じる。白さに灼ける。冷たさに、灼ける。私は追いかける。幻の中のあの人を。

「平田嬢…………!」

 人混みの先で名前を呼ぶ声がした。 


 人混みに酔ったのだと言われた。そんなことはないと返したかったけれど、口から漏れたのは乾いたため息のみだった。
 タクシーに乗り込み、泊まる予定のホテルにたどり着く。
 先にチェックインだけは済ませ、荷物を互いに自室に置いてきていた。
 においのないベッドに靴を履いたままで横になりながら、そういえばこの部屋代はどこから出ているのだろうかと見当違いなことを思う。
 この時期に、シングルの、眺めのよい部屋を二部屋も、どうやって押さえたのかとか。
 関係のないことを考える。そういうことに気を回すことは、得意ではないのに。
 しばらく横になってから、エントランスに行くとソファに相手の姿が見えた。気むずかしい顔をしているなと思った。
「部屋に戻って休みますか」
「外でいい」
 せっかくだから空気だけでも吸いたい、とホテルの裏へまわる。
 しばらく歩くと、一面の雪原が広がっていた。曇りがちな空よりも、地面の方が明るい。
 雪の白さはシーツのそれとは違っていて、目玉の裏を灼くようだった。
「平田嬢、手袋は」
 私のむき出しの指先に目をとめたのか、そんなことを聞かれた。
「うん」
 答えにならない答えを返す。
「――平田嬢?」
 のぞきこむように、膝をついた。私達はあまりに身長に差異がありすぎて、そうでもしなければ近くで顔が見えなかったのだろう。
 けれど私は自分の爪ばかりを見ている。
「考えているんだ」
 そう、私は考えているのだ。手をおろして、珍しく見下ろす形になった、相手を見る。

「そうだ。ものは試しに、私を開闢と呼んでみてはくれないか」

 カメラマンはわずかに不可解そうな顔をして、「…………開闢?」それでも呼び慣れない呼び名を口に乗せた。
(あぁ、違うな)
 そう思う。
 開闢、でも、なかったか。
 私は視線を雪原に移す。
「じいさまと雪祭りに来たことがある。ただそれが、どのような物だったか思い出そうとしているだけなんだ」
 太陽が落ちていく。
 寒さが厳しくなっていく。
 その中の景色を、美しいなと素直にそう思う。
「――――先代と?」
 その呼び方に、少しばかり驚く。
「知っているのか」
 知っているのか。
 私より先に平田開闢と呼ばれた、ひとのことを。
 聞かれた相手は少し視線を泳がせて、
「いろんな人間が来て、いろいろと言っていくだけですよ」
 と言い訳のように言った。
 けれども、覚えていたのか。その情報を、きちんと脳内のシナプスに焼きつけていたのか。
 ピカソの本名ぐらいしか覚えないその頭で。
 ふと思う。
 たとえば、私のことは、この唐変木なカメラマンにとって、ピカソの名前ほどの価値は持ち得ているのだろうか。
(名前を忘れられてはいないようだけれども)
 年齢も覚える気はないようだったし。
 視線を流す。地平線は白かった。
「じいさまと過ごしていたあのころ――」
 私は私がこんな風に、昔の話をはじめるとは思っていなかった。
 板張りの床や、そのきしみを思い出す。四季の花の咲く庭を、それから、そこに満ちた煙のにおいを。火を放った時にはもう、祖父は私から手を離し、そして彼自身からも、手を離してしまっていた。だから、いくら思い出しても、私の欲しい答えには届かない。
 それよりまだ、前。
「私はあまりに幼かったし、じいさまは、あまりに老いていた」
 私は誰かに優しくする術を知らなかったし、
 迎えの近いじいさまは、私に優しくする必要もなかったのだろう。
「失礼ですが、ご両親は?」
と、相手は私に、あまり失礼と思っていない口調で聞いた。私は首を傾げる。
「親の顔はもう覚えてないな。どこかで生きているのかもしれないが……『仕様のない人間』だったらしいよ。それしか聞いたことはない」
「なるほど」
 相づちに隣をみやる。
「…………無理に反応しなくてもいいんだぞ」
「いえ。興味深いですよ」
「いろんな人間から聞いているんだろう?」
「話す人間の違いですよ」
 言ってカメラマンはポケットから煙草を出した。
「ふぅん……」
 けれどくわえることはせず、指で遊ぶ。
「煙草を吸う人間だったか」
「ごくたまに。……嫌いですか? 煙草」
「好きでも嫌いでもない。特に感想は持ってない」
 そうですかと答えて、けれど一度口に挟んだ煙草を火をつける前に外した。
「僕もそれほど好きではないです」
 指で折ってポケットにしまう。
 それはつまりどういう意味なんだろうと思う。
 遠回しに、話がつまらないとでも言われているのかな。
 けれどそれは仕方がない。私は元々話すことが得意ではないのだから。
 つまらない話ははやく終わらせてしまおうと思った。
「じいさまが私にくれたのは、名前と、それから人形作りの方法だけだ」
 思い出す。
 人形のことを教えてくれる時だけ、怖いくらいに饒舌だったあの人。文字でさえ満足に教えてはくれなかったのに。けれどじいさまと人形の間に、私はいなかったような気がする。だから、思い出せない。祖父と、私のこと。
「それでもここまで若い私が、こうしてこの業界でここまで我が儘を通せるのは……あの人の残したもののおかげだ。……あんなひとでも、孫が可愛かったのかな」
 なにひとつ覚えていない。
 ただ、あの人の指先から吹き込まれる、人形の命。
 それだけをいつも目に、灼き付けていて。

(わたしが人形だったら、やさしてくしてくれましたか)

 部屋の隅で、そんなふうに思っていたあの日。
 けれど、その人形の魅力にとりつかれてしまったのは、祖父だけではなく。
 今ではもう、ひとつの後悔もない。
 ただ、そう、ただ。

 あのひとが、私を呼ぶ。その声だけを、思い出せないことが、少しだけかなしい。

 ほんの、少しだけ。
「……においは、どうですか?」
「は?」
 突然カメラマンの言った言葉に、私はまばたきをした。
「においです。老人って、自分自身の生活のにおいを持っているものでしょう」
 僕は覚えていませんけど。
 ご丁寧にそうつけたした。こいつは、思い出そうとしたこともないのだろう。そういう生き方も、確かにあるのだ。
 板張りの廊下。お湯を沸かす音。仏壇と、着物のにおい。ひとつひとつたどっていけば、どこかにたどり着けるような気がした。
 息を吸う。喉が冷たかった。
 ふっと視界に白いものがよぎる。
 雪が、降り始めていた。
 白い大地に白い雪が。

 ああそうだ。あの日。
 初雪が降って。
 じいさまが、外にでて。

 雪の原に足を踏み出す。数歩。
 白いせかい。

(おいで)

 私を呼ぶ声。


(おいで、雪だよ――――“はく”)


 ああ、そうだ。
 私はそうして、くるりと雪の中で不器用に回れ右をして、まっさらなそこに背中から倒れ込んだ。
 白い空と、降り積もる雪の影だけが見える。
 遠い遠いあの日、空から降る雪のにおいが、ああじいさまのにおいだと思ったのだ。


「しもやけになりますよ」


 カメラマンが同じように雪をかきわけてやってきて、私の隣に膝をついた。
「思い出したんだ」
「なにを」
「じいさまが。私をなんと呼んでいたか」
「へぇ。なんて?」
「………………“はく”と」
 カメラマンが首を傾げた。
 そうだろう。お前は知らないだろう。
 私は戸籍上の名前は同じ「かいびゃく」でも平田開白と書く。その、“はく”だ。もう、使われることもない名前だろうけれど。
 なぜなら、私はもう、開闢になってしまったから。
 それはそれ、他にどうしようもなく、どうしようもしたくないことではあるけれど。
 それでも。
 それでもわたしはまだ。
 この記憶を持っている。


「――――ねぇ、開闢」


 私を上から覗き込んで、カメラマンが改まって言った。
「なんだ」
 開闢と私のことを呼んだ、この男は私のためにならないと、通いの岡本さんは言ったっけ。幸せにはしてくれませんよ。不幸になりますよ。その男は言った。
「僕、近々スタジオをつくるんです」
「ほぉ」
 私の予言した通りになったなと、そう言った。
 けれど相手は特にそれにはなんのアクションもよこさず。
「それで、そのスタジオの隣に――」
 カメラマンはそこでなにか言いにくそうに、誤魔化すように眼鏡を上げた。
 めずらしいな。なんとなく、そう思った。
「その隣に、平田開闢のアトリエをつくろうと思ってるんですが」
 その言葉に、沈黙が下りた。私はまばたきをした。
 雪の上に手袋をした両手をついて、そうして私を覆うように覗き込んで、カメラマンはこっちを見ていた。
 いつもと変わらない口調と。いつもとかわらない無表情だった。
 けれどなんだかおかしくなって、私は少し笑った。
 不思議と少し、愉快だった。
「なんだ、お前それ、まるでプロポーズのようだぞ」
 くすくす笑ってそう言ったら、カメラマンは不機嫌そうに眉根を寄せた。
「別にいいでしょう。いろいろ手間が省けて、楽だろうし」
 手間か。そうかもしれなかった。どうせ、私はこの先も人形を作るだろうし。
 この男は写真を撮るのだろう。それが、当然のことのように思えたから。
 なるようになる。私は開闢になった。そしてこのまま、開闢であり続ける。
 不幸になると言った言葉を思い出す。
 けれど、冷めたお茶は、私には甘かった。

「……ひとつだけ、聞こう」

 私は腕を持ち上げて、手袋のない手でカメラマンの頬にほんの少し触れて、そう言った。

「お前は、私と私の人形、二つがあったら、どちらを選ぶ?」

 じいさまは。私より人形を選んだ。
 私は人形と私を並べて、私を選ぶ人間が嫌いだった。
 けれど。

 けれど私は今。なんと返されることを、望んでいるのだろう。

 カメラマンはそこでふっと目を伏せて、
「決まってるじゃないですか」
 そうして、ハッキリと答えた。


「そんなの、秘密ですよ」


 その答えに、ふっと私は思わず吹き出した。
 今度こそ、本格的に、逃げ場もなく明白に明確に、愉快だった。笑いが漏れた。
「秘密か」
「秘密ですよ」
 なんと、愉快な答えだろう。
 私は声を上げて笑った。こんな風に笑うのなんて、どれくらいぶりだろう。そう思った。笑ったら雪が頬に触れてつめたかったけれど、悪い気持ちもしなかった。頬の隣の雪を見ながら、笑っていたら。
 かしゃりと突然聞き慣れない音が、した。

「!」

 思わず固まる。カメラマンの方を見やると、さっさと立ち上がって背を向けていた。
 慌てて上半身を起こし、その背中に言う。首から提げたカメラの紐だけが見える。
「今、撮っただろう」
 カメラマンは こちらを振り返らず、ひらひらと手を振った。
「個人的な趣味ですから」
 ずいぶん悪趣味だなこの野郎。そう思ったが。
 まあいいかと、ゆっくり立ち上がって雪をはらった。
 向けられた背中から、手を伸ばされる。相手も、手袋をしていない。
 私は手を伸ばす。


 天からは雪が降る。
 つないだ手と。
 溶けていく私達。

 降り積もった雪の、しんとした、においがした。


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