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最高の幽霊に逢った話―劇団四季ゴーストアンドレディ観劇

台風1号が日本に接近し暴風雨の吹き荒ぶなか、竹芝の劇団四季 劇場「秋」にて公演されたていたゴーストアンドレディを見に行ってきた。

ゴリッッッゴリに泣いた。号泣した。まーーー良くて良くて。
ので、ネタバレを含めて思うままに書いてしまおうと思う。

冒頭3分で見せつけられる劇団四季の凄さ

原作履修済の方ならおそらく誰しもが開演3分で「なるほど!!!」と唸ったことだろう。
原作は幽霊グレイが黒博物館の学芸員(キュレーター)に昔語りをすることで、ナイチンゲールとグレイに何があったのかを読者に見せる構成だった。

「それで!? その後どうなったのですか?」
「まぁ待てよ、語ってやるから落ち着け」

という掛け合いが、ストーリーを整理したり、説明や補足になったり、怒涛の戦いの中のひと呼吸になるわけである。

原作中、幾度も出てくるこの掛け合いが大変に味があって面白い。キュレーターへの受け答えでグレイのキュートさを存分に知ることができるし、幽霊がどういう存在なのか(ティーカップ程度なら持てるけど飲んでる素振りをしているだけでお茶は飲めていない、など)を知るためのいい幕間にもなっている。

さらにいえば、原作は伝記を読むような重厚な話で、しかも“連載漫画”だ。いいところで、1週間、2週間……と続きを待つのが当たり前。ともすればその間に冷静になってしまったり、重厚さに少し疲れを感じてしまうこともある。
そんな、ひと呼吸ついた読者の良き先導役として
「続きを聞かせて!」
「まぁ、なんてひどい!」
と前のめりに聞き続ける人情味のあるキュレーターが、読者を物語の中へ引っ張り続けるのだ。


その大切なキュレーターさんが、配役を見る限り全カット、存在しない構成のようだった。

キュレーターとグレイの掛け合いまで舞台(脚本)に入れていたら尺が足りないであろうし、観客の視点が分散されてしまう懸念も排除したのだと思う。かなり太い枝葉を切ってでも『ゴースト と レディ』という根幹に絞っているのかなと推測していた。

では『ゴースト と キュレーター』が成していた部分、昔語りの構成や幽霊という存在の定義、黒博物館があることで成立するラスト、それらをどう観せるのだろうか――。

そんな懸念を一瞬で吹き飛ばしたあの一言。

「あんたら、俺が見えてるのか?」

もう、総毛立った。
やぁぁぁぁーーーーー!
なーーーーーーるほど!
なるほど、巻き込みにきた!!
と思った。

見えてるなら拍手を、と促された時の割れんばかりの拍手の何割かは、間違いなく私と同じように「なるほど!!」という絶賛がこもっていたはずだ。

エグいくらいうまいな、と思った。

飄々としたグレイというキャラクター性、見えないはずの幽霊だという設定、さらにはキュレーターとグレイが語らうための『黒博物館』という舞台装置、それらを一瞬で観客に飲み込ませた、震えるような瞬間だった。
たとえ舞台が戦場だろうと船の上だろうと大雪原だろうと、いま私が座っているここが、この場所が、グレイが話しかけてきたあの瞬間、黒博物館になったのだ。

開幕3分。あの拍手でもう「ブラボー!」と誰かが言い出しても不思議じゃなかった。
懸念が消えた。
腑に落ちた。
いや、これは、これを、
『心をつかまれた』
というのだ。
それくらい圧巻の幕開けだった。

生霊を廃した英断

キュレーターどうするの問題以上に大きな懸念だった『生霊』。原作は、人の持つ醜い本心が、目に見えない怪物のような姿で人間の背後に潜んでいる、ナイチンゲールにはそれが見えている、という世界。
その生霊システムを潔く大胆に全カット。悪しき心の醜さと大きさを影で表現する手法を取った。

正直に言えば、劇団四季がどう生霊を観せるのかはすごく興味があったのでやや残念でもあった。でもわかる。だってやり始めたらジョジョのスタンド対決みたいなことが始まってナイチンゲールの奮闘(=生涯)に割く時間を削る必要が出るかもだし、なにより

バトル要素はグレイvsデオンに絞ろう

という意図かもしれない。

このあたりは、実写ドラマ化された【岸辺露伴は動かない】等もそうだよね。物語の核ともいえるスタンド(特殊能力が人型になって背後に具現化される)を出現させないで成功を収めた例などからも、生霊カットは英断だと思う。見たかったけど。魅せる技術の高さゆえに見たかったけど!

私は「カイトの背中に浮かぶように繋がったネフェルピトーのテレプシコーラみたいにやるんじゃないかな!な!」
と思ってたんだけどなかった。しつこい。



見えないものを魅せる2時間半

こんなにあれこれ好きに書いてるけど、実は劇団四季観劇は、リトルマーメイド、ライオンキングに続いて人生で3度目、しかも7~8年ぶり、観劇ド素人だ。

普段観に行くのは落語。舞台装置とかない。座布団、扇子、手ぬぐい。
演目によっては歌うこともあるが、さすがに踊る人は少ない(おそろしいことに、いないわけではない)。ある意味 舞台装置たっぷりのミュージカルとは対極にあるようなものに親しみを覚えながらここまできたのだ。

だからもう、めっっっちゃくちゃ、すごかった。

おそらく何度も観覧して“四季慣れ”なさっている方々が、帰り際に
「イリュージョみが強かったねぇ~」
などと仰っているのを聞いた。

そう。イリュージョみバカ強なのだ。

観劇ド素人の私は、すべてに「えぇっ!」「うわぁ!」と声が出るほど楽しんだ。
だって、壁からグレイがふわっと出てくるのである。

(以下しばらくそのイリュージョンに関してが続く。四季の観劇に慣れた方がもしここにたどり着いて読んでくださっていたとしたら、何も知らないとここでこんなに驚くのか、と微笑んで下さったら幸いです)

室内を表現した壁面のセット。たぶんスリットか何かが入っていて、そこから普通にグレイが出てきたのだと思うんだけど、役者さんの身体をちょうどうまく覆うような量のスモークがほんの一瞬焚かれ、そのスモークのおかげで出たり入ったりの瞬間がちょっと霞む。
その、ほんの0.5秒くらいの霞みの発生が、グレイを本当に壁をすり抜けて出てきたように見せるのだ。

ふわっと!
ポッと!

合わせてグレイが
\\ポンッ//
と。

多すぎず少なすぎず、ほんっっとうにちょうどいい感じでグレイの姿を一瞬包む。
居なかった壁からパッと出てくるのよ、ドアが開いたわけでもないのに!
なんそれ!
うま!!

ぽつんと置かれた背もたれ付きの大きな椅子。
誰もいなかったのに、ひとりでにくるんと回った、と思ったらグレイが座ってる。

えっ

グレイが座ってる!?(2度言う)

椅子までスタスタ歩いてきたわけじゃない。居なかったのに、1回転だか半回転だかしたら、そこにグレイが!
座ってる!
いつ来たの!?
どうやって!?
と声を上げそうになる。

要となる敵役幽霊のデオン、命のやりとりを求めて彷徨いナイチンゲールのもとまで辿り着き、高らかに笑いながらその場を突風になって通り過ぎるシーン。
姿は見えず声だけがする。
決闘の予感に血が湧くような激情、その高揚を隠しもせず腹の底から笑うような声。
その声を乗せた風。
室内に突然吹いた強い風のせいで、誰も触っていないデスクの上の本のページが荒々しくめくれ上がる。傍の羽ペンが風を受けて激しく回る。

どーーーやってんの!笑

声「みつけたぞ、ふはははは!  アーッハッハッハ!」
本「バサバサバサバサーーッッ!  」
ペン「クルクルクルクルーーッッ!」


そんっっな絶妙な!
風吹かせりゃいいってもんじゃない、その激しい笑いにピッッッタリな一瞬の突風。
姿が見えないから
「うわぁ!  なんか別の幽霊きた!  激しいやつ!」
と、原作を知らなくともおそらく分かったと思う。細やかすぎる、うますぎる……!!
(と、イリュージョン視点で書いているけど、ここに書いた通りデオンの底にある仄暗さと激情、最高でした……!)

もうひとつ。なんといっても、ざ・たっちでも驚くような

「「  幽体離脱ぅ~  」」

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ほんとにどうやってるんですか?笑
うますぎませんか。

今まさに死にゆく兵士がベッドに横たわっている。そして臨終。
立ち合ったナイチンゲールが身体にかかっていたシーツを顔まで上げて、優しく全身を包む。
ひとの、ひとの身体がそこにある、シーツのこんもりの下に。
そのシーツのこんもりをそよとも崩さず、今寝てたひとが、そこから

スーーーーー………………

っと出てくるのだ。

お、

おーばーけーだー!!!!(錯乱)


別人がシーツに隠れてたとかじゃない。
ボブなんて確か、逝きかけて戻ってきてまた入ったぞ!?
どーやったんボブ!!!笑

書いても書いても書ききれない。
この感動は何もこの幽霊や魂のようなものの演出に限った話ではない。
華やかな劇場に見えていた舞台を、今にも朽ちそうな病院に見せる。
舞台いっぱいに広げられた白い布ひとつでしっかりと吹雪の雪原に見える(これも圧巻だった)。
『見えないはずのものの見せ方』に、どれだけ心血を注いでいるのだろうか。光、スモーク、プロジェクションマッピング的なものも細かく当てている?のかな、柱1本だけに当たるように見せ方を変えている、くらい細かくこだわっているように見えた。モザイク絵の数マスにだけ特殊加工を当てるようなものだと思う。

最高峰の演出って、こんなにも凄いのか。

プロ中のプロたちが磨きに磨いた技術、工夫がダイヤモンドダストのようにキラキラと舞っている、空気すべてに技術が行き渡っている、そんな心地で見ていた。


解釈を具現化する演技力


対して、歌や演技に関しては、何か言うことも憚られる気持ちだ。
あの舞台に立っていた役者さんたちは、私が無知なだけで全員が大スターなのだ。
失礼にあたるかもしれない、ファンの方もしこれを見てたら、気に障ったらごめんなさいと思いつつ、フローについて印象を。

原作のフローレンス・ナイチンゲールのイメージに対して、こうして生身で動き歌うフローは思った以上に深かった。
なんというか、軽さがない(表現が悪くてすみません、めちゃくちゃすごいなと思った、という話です)。

軽やかに歌い踊り笑顔を見せ、人を励ます柔らかいフローなんだけど、地の底と根付いているような深み。
お嬢様らしさ、聖者、聖母らしさ、みたいなものを削ぎ落として信念の塊にした感じ。悲壮感さえ滲む、覚悟の人、という印象だった。

なにがすごいって、これってもしかして、
それを「声」とか「佇まい」でやってる……!?
という印象に私は驚愕したのだ。

原作のフローの特徴はなんといっても瞳、目の力の強さだと思う。その目力を声で演じているような。腹の底から声を出す、なんてよく聞くが、それよりもっと深い、フローの信念から出ている声のように思った。

映画やドラマ、アニメなど、フォーカスできる映像作品とはこういうところが違うのかと衝撃を受けた。どうしても舞台は瞳をどアップでは見せられない(いや四季ならやれる?とさえ思うが)。
目の中のギアスのマークを見せつけるように、星野アイの両目を継いだルビーとアクアの片目ずつに星が宿る様を見せるように(なんの話)
アップにできればそりゃ説得力が出るだろう。
それが出来ないことをまるで逆手にとるように、目力の演技を声で、佇まいで表現しているように思った。

そんなフローを見て、なるほどこれが原作者 藤田和日郎先生の談話にあった「別物」としての『ゴースト&レディ』なのか、と感じた。

だから語弊を恐れず言う。
私の中で原作のグレイと劇団四季のグレイは同一人物に思える神がかった上手さだった。心の通わせ方など、もちろん原作とは違うんだけど、

原作のグレイもこんなふうにしたかもな……

と思えるのだ。

でもフローは、原作のフローと劇団四季のフローは別人だと思った。
魅せる部分、武器を変えてきたフロー。
その、
四季のフローレンスの説得力!
こっちのフローもとんでもないぞ!!
と思わされる。
これがプロの解釈か!
その解釈を演じる力なのか……と、震えるような思いで食い入ったのだ。

おわりに― something to someone

他にも挙げたいことは山のように出てくるのだけど、いい加減この拙い感想文も締めようと思う。4000字越えた。長すぎ。

このnoteのアカウントは、実は5年くらい前に作ったものだ。自分が何かを書くこともなく、当時なにかの記事を読むために一時的に作っただけのものだった。今回の観劇の感想を残しておきたくて、古い記憶からパスワード等を引っ張り出してきた(覚えとけ)。

過去に劇団四季のミュージカルは見に来たことがあったけど、今回どうしても自分の感動を残しておきたいと思うほど、劇団四季ゴーストアンドレディは、まったく新しい世界を私に教えてくれた作品だった。人生のご褒美になったと感じるほどの新体験だった。

無駄なことも多く書いた、拙く、青臭い(ちょっと無理ある?笑)感想になったけど、言葉にすることでまるでさっき見てきた帰り際のような気持ちでいる。自分で書いておきながら、読み返してまたきっと同じように過去の自分と共感し、感動を味わい直せるだろう。

観劇から実に1週間が経っている。毎日毎日ああでもないこうでもないと思いながら、自分のために書いた感想文。
それでももし、もしも、どなたかがここまでお読み下さっているとして。

ここまで読んで下さった貴方様の大切なお時間を、こうしてひとときお借りできたことは、あの星のようなランタンにこの身を包まれるほどの喜びです。

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