劇場版レヴュースタァライトって何だったの?にこたえたい【劇場版ネタバレ解説・考察】

 劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライトって何だったんだろう...ということをできるだけわかりやすく語りつつ、後半ではいろんな視点から深堀りしていきます。最高の体験を、もっと最高にしたいなって思います。そういう感じのノリと動機で書きます。
 そうはいっても私は決してこの作品について全部理解しているわけではないし、作品を批評したり、他の解釈と対決する意志は持っていません。ある程度「わかったつもり」で作品を消化する観客の一人なのです。そんな立場で、一人の観客の一つの解釈として自分が今持つものを整理して届けたい!のです。
 そして大切なのが、
別にこんな記事読まなくてもいいです!
ということです。レヴュースタァライトを見て何かとてつもない激情を感じた、やばかった、よくわかんなかったけど最高な気持ちでこれを大切にしたい!と思っていているならそれはそれで最高だしなんなら考察もやりたい人だけやって読みたい人が読んでくれるといいなって思います。


この記事の目的と読んでほしい人(太字だけよんでくれたらいいです)

 この記事には二つの目的があります。一つ目は「劇場版レヴュースタァライトみたけど結局あれってなんだったんだ?」「演出は面白かったけど何やってるのか、物語がよくわからなかった」という方に向けて、レヴュースタァライトはこういうお話で、舞台少女たちはこういうことをやりたかったんじゃないかな、という僕なりの答えや考えを提示することです。
 劇場版をはじめてみたとき、正直私も同じ感想でした。とっても面白いものを見た気がするけど、よくわからなくて自分に何が伝わったのか、自分が何を見ていたのかわからなくなってとてももやもやしました。それが何だったのかを知りたくて何度か観劇した今、もやもやしてる方や、演出はよかったけど物語がなくて面白くないな、って思ってる人に「こういう視点から見ると、物語としても面白いしいろんな意味が込められてるんだよ!」って言いたいのです。大切なのでもう一回言います。

別にもやもやしてなかったら読まなくてもいいです。

 そういう動機なので、できるだけ読みやすく、前提の知識や他の考察などを読んだことがなくても読みやすいように書くつもりです。あと固くならないように時折感情も挟もうかなって...エンディングのカーテンコール感大好き......

 もう一つの目的はレヴュースタァライトが好きで今もあれこれ考えたりするのが好きな人たちと一緒に「私はこう思っていますよ~」ってことを考えたいな、というものです。深堀りになっちゃうのでこれはパートをわけて書こうと思います。
 裏を返せばそういう風にあれこれ考えてる方にとってははじめのほうは退屈かもしれないので「ここから深堀りあります!」ってところは記事の中ほどにでかでかと書きますのでそこから読んでくださってもかまいません。

1.劇場版におけるレヴューとは何だったのか
彼女たちはなぜレヴューに参加したのか

要約:劇場版のレヴューはアニメ版のオーディションとは違い、キラめきをぶつけあう舞台ではない。それは彼女たち自身が自分として飛び込んだ、舞台人として生きるために必要なレヴューだった。彼女たちは、「舞台少女の死(現状に満足/執着して停滞してしまうこと)」を乗り越えて人生を歩みだすためにレヴューに参加した。そこでライバルを通して自らを見つめなおすことで生まれ変わり、人生の次のステージへと上る。

 まずはざっとあらすじから。冒頭に華恋とひかりの別れの舞台が描かれ、ひかりが「貫いて見せなさいよ あんたのキラめきで」と言い華恋の切っ先を素手で握りしめて流血します。次に九九組の各進路相談が描かれ、中でも華恋は進路希望調査書を白紙で提出し、ひかりは自主退学しロンドンへ行ったことが明かされます。次に101回聖翔祭に向けての舞台創造科による思いが明かされる決起集会が描かれ、唐突に野菜キリンが登場し<皆殺しのレヴュー>によってワイルドスクリーンバロックが開幕します。時折華恋(とひかり)の過去編を挟みつつ、全員がレヴューによって自身/ライバルを見つめなおし、ワイルドスクリーンバロックは華恋とひかりによる砂漠でのレヴュー<最後のセリフ>で幕を閉じます。


 まずは<皆殺しのレヴュー>を振り返ることで、劇場版のレヴューが何であり、彼女たちはなぜレヴューに参加したのかを明かしていきます。その後に各レヴューを振り返ることで、各々にとってのワイルドスクリーンバロックが何であったかを語ります。

 <皆殺しのレヴュー>は大場ななvs双葉、香子、純那、真矢、クロ、まひるという構造のレヴューでした。1対6ですね。<皆殺し>とある通り、ななは6人を相手取り蹂躙します。レヴュー中にななは「これはオーディションに非ず」「だから、オーディションじゃないってば」と言っていました。その言葉通り、劇場版のレヴューはどれもオーディションではなく、だれが一番キラめいているかを争うアニメ版とは全く違うものでした。では、劇場版のレヴューは何なのか。皆殺しのレヴュー後に語られます。それは大場ななが再演の果てに見た「舞台少女の死」を彼女たちが乗り越えるために参加するレヴューなのです。「舞台少女の死」は、劇中ではそのまま少女たちの亡骸という表現で描かれますが、実際には”現状に満足/執着して次のステップに進めなくなっている様子”といった意味合いです。

 (まだ<皆殺しのレヴュー>の話です)アニメ版から「再生産」という言葉がキーワードになっていますが、まさにこの再生産をするための舞台が劇場版の各レヴューなのです。なぜそういえるのか。まず大場ななここでが歌う劇中歌『wi(l)d screen baroque』の歌詞から考えてみます。

「キラめきがどうした 退屈だその程度か 口ほどにもないな」
「降りても舞台だ」

といった言葉が出てきますね。最初の歌詞から、ワイルドスクリーンバロック(劇場版で行われるレヴューの総称)はキラめきを競うなんてそんな小さなスケールではないということが示唆されていますね(次章でも触れます)。二番めの歌詞が重要です。「降りても舞台だ」には、今立っている舞台(つまり、九九組があの時にいる、舞台少女としての、人としての立ち位置)の外も彼女たちにとっては舞台であり、そこから進み続けていくことが絶対的に必要なんだ、という意味が含まれています。
 また、野菜キリンが登場する瞬間の挿入曲のタイトルは「世界は私たちの...」というものです。間違いなくその後に続くのは「舞台」でしょう。また、アニメ最終回で流れた『舞台少女心得』でも「世界は私たちの大きな舞台だから」という歌詞がありました。ワイルドスクリーンバロックは、そういった意味で舞台(世界そのもの)で繰り広げられる舞台人(彼女たち自身)を描く物語なのです。
 「同じ舞台は二度となく、次の舞台は再生産される」というアニメ版から引き続いたテーマがありました。劇場版では”舞台”という言葉は世界そのものという意味で主に用いられます。(アニメ版でもそのような意味は含まれていたと思いますが、劇場版ではよりその意味が強い印象があります。)「降りても舞台だ」というのは、舞台少女がかつていた立ち位置(舞台)から降りたつもりであっても、今いる立ち位置だって世界という舞台なんだ!という大場ななのメッセージなのです。これは、アニメ版でオーディションでトップスタァになれなかったことを悔やんでそれに執着したり、自分が本当にしたいことから逃げていた九九組に突き付けたメッセージです。「列車は必ず次の駅へ。では舞台は?私たちは? 私たちもう 死んでるよ」というななの言葉も、執着を乗り越えられない彼女たちをなじっていますね。そしてあの場の6人が「私たちはもう 舞台の上」と宣言してトマトをかじり、それを契機としてそれぞれの舞台へと挑むのです。トマトをかじるという行動はそれの象徴です(3章で詳しく語ります)。そこで彼女たちはレヴューに自ら参加し、己の強さや思いをぶつけ合う野性的な舞台に立つのです。
 彼女たちが新国立第一劇場「ぜんぜん着かへんやん 次の駅」これはまさに、列車(舞台少女たち)が次の駅(次に立つ舞台)に踏み出せていないことを象徴しているのではないかな、と思います。 この段落初めに書いたセリフ「ぜんぜん着かへんやん 次の駅」は新国立歌劇団へ向かう列車内でレヴュー前に香子が言ったものです。これはまさに、列車(舞台少女たち)が次の駅(次に立つ舞台)に踏み出せていないことを象徴しているのではないかな、と思います。 皆殺しのレヴュー関連のお話はここまでにしておきます。一つ一つレヴューを振り返っていきたい方はこちらにまじみゃさまの詳細な考察と感想がありますのでご覧ください。ほんとにとっても素晴らしいです。 皆殺しのレヴュー関連のお話はここまでにしておきます。一つ一つレヴューを振り返っていきたい方はこちらにまじみゃさまの詳細な考察と感想がありますのでご覧ください。ほんとにとっても素晴らしいです。
 この段落初めに書いたセリフ「ぜんぜん着かへんやん 次の駅」は新国立歌劇団へ向かう列車内でレヴュー前に香子が言ったものです。これはまさに、列車(舞台少女たち)が次の駅(次に立つ舞台)に踏み出せていないことを象徴しているのではないかな、と思います。
 皆殺しのレヴュー関連のお話はここまでにしておきます。一つ一つレヴューを振り返っていきたい方はこちらにまじみゃさまの詳細な考察と感想がありますのでご覧ください。ほんとにとっても素晴らしいです。

劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト内容についての考察と感想

私の記事では「で、結局全体的になんだったの?」ってことをメインに扱いたいので各レヴューについては少しだけ扱います。(思ったより長くなりましたすいません)


 石動香子と花柳双葉の<恨みのレヴュー>は幼いころからずっと一緒だった二人が本音をぶつけ合うことでそれからの人生でしばらく道を分かつきっかけになります。双葉が「ずるい!ずるいずるいずるい!」と、最初で最後の我儘を口にすることで、これまでの「一番になる香子を隣でずっと見守る」という役回りから、自分一人でこれから舞台に立つという決意が固まり、香子はそんな双葉を一度手放す決意ができるようになるのですね。結局自分からデコトラで飛び降りようとする香子を見捨てられず双葉は助けてしまうし、そのまま落ちて将来の約束をするところに関しては変わらない二人という感じがします。ここでは傍若無人な香子とそれについていく双葉という関係性から、違う舞台(香子は日舞、双葉は新国立)を目指しつつ意識するライバルとしてお互いが生まれ変わるのです。双葉が香子にバイクの鍵を渡して、最初で最後の我儘として鍵を渡してまた会う約束まで果たしているところが最高ですね。「離れはしないと(帰るまで)ずっと待っていてと」という歌詞が響きます。


 神楽ひかりと露崎まひるの<共演のレヴュー>では、華恋からキラめきを貰うことに執着してそれでしかキラめきを見られなかったまひるが己のその弱さを乗り越え、ひかりに本音を晒してもらうための演技をします。そしてひかりは華恋から逃げていたことを明かし、ひかりもずっと演じてて怖かったとひかりに明かします。ここでこの二人が初めて対等な関係として立ちます。まひるは「キラめく舞台が大好きだから」「夢咲く舞台に輝けわたし」と言えるようになっていて、華恋に執着する自分からみて大きく成長しています。あんなに怖い表情もできますしね。マジで怖かった。レヴュー曲でも「ライバルだから分かち合えるの」と、ひかりを嫉妬の対象としてではなく競演するライバルとしてみています。ひかりはデカミスターホワイトの上で華恋から逃げていたことを明かすまで、舞台に立てていなかったのです。そんなひかりを舞台(つまり、自分をアップデートしながら理想に向かって生きる場所)へ引っ張り上げるためにあのレヴューではまひるが怖い役を“演じた”のです。

 一度華恋とひかりの過去編についても触れておきましょう。2006年、華恋を新国立第一歌劇団の『スタァライト』に連れて行ったひかりは、その舞台を見て感動しますが、その舞台に立つことに恐怖を覚えます。回想シーンでは幼少期華恋とひかりが、高校生の華恋がひかり(目を閉じている)抱き抱えているシーンがありました。そこでひかりは「きれい だけど...」と言い淀んでいましたが、華恋が「行こう 二人でスタァになるの!」とひかりの手を引くと、舞台上で華恋に抱きかかえられ目を閉じていたひかりの目が開きます。これは、舞台に立つことが「怖い」ことだと思い舞台少女として未だ生を受けていなかったひかりが、華恋に手を引かれることで舞台少女として生まれるということです。
参考:ぽんずさんのふせったー「スタァライトと宗教の話します」(※ここで私自身が納得したので参考としてあげさせていただいていますが、ご本人は「考察」として書かれているのではなく「感想」として書かれています。)
 そして東京タワーで運命のチケット(髪飾り)を交換して、アニメへとつながるわけですね。


 <狩りのレヴュー>について。大場ななは、舞台人としての夢を先送りにする星見純那への失望を語ります。追いかけっこの後、大場ななは星見純那に対して「主役になれずとも君は眩しかった」と過去形で言い放ち、純那に自害を促します。ここにも、今の純那は全く眩しくないというななの失望が窺えます。純那は泣き出して様々な偉人の言葉を引用して自分を慰めますが、「自分の言葉で語ること」の大切さに気づきます。そして自害を促されたななの刀を使って、もう一振りを持つななと再び対決します。ななは純那に「輝く星の眩しさにもう何も見えないくせに!」と叫びますが、純那はそれに対し「何も見えなくなっているのはあなたの方よ!」と返します。ななはそんな純那を見て「私の知ってる純那ちゃんじゃない!」と動揺しますが、これに対して純那は「私は眩しい主役、星見純那だ!」と言い放ち、レヴューに勝利します。そして最後は背中合わせに歩き出してそれぞれへの舞台に向かうわけですね。今度はななが泣き出して純那は「泣いちゃった」と微笑ましく呟きます。そして次の舞台で会うことを約束するのです。濃すぎ。
 ここで大場ななは”純那ちゃん“、つまり大場ななの知る、決して諦めず努力する過去の眩しい純那に執着していました。だからこそ、「今はまだまだだけど、」と言い訳を重ねている今の純那に対して深く失望していたのです。過去の星見純那の眩しさにやられて何も見えなくなっていたのですね。ななは99回聖翔祭の再演を繰り返ていることにも見られるように、過去に執着してしまうようですね。それを純那にも発揮してしまったのでしょう。純那が成長して自分の言葉で語り、そして貪欲に舞台上の“主役”を目指す“星見純那”になっていることに気づかされることでその執着の無意味さを知り、純那とは違う場所にある“次の舞台”へ立つ一歩を踏み出すのです。
 対して星見純那は、舞台人として舞台上で最高のパフォーマンスをして主役になるんだ!という貪欲さが足りなく、映画冒頭でも、愛城華恋と『エルドラド』を演じている途中で素に戻ってしまい呆気に取られる様が描かれていますね。舞台への情熱が足りないということなのでしょう。進学先が大学なのも、純那の「今はまだ舞台で主役にならなくてもいい」という意思があったり、それがななにとって不快だったのかもしれません。<狩りのレヴュー>を通して純那は「(自分が今立つ世界において)私は眩しい主役、星見純那だ!」という自覚や覚悟ができ、大場ななと対等の、自分自身の道を歩む舞台人として生まれ変わることができたのです。濃すぎ。長すぎ。ごめんなさい。


 <魂のレヴュー>では悪魔役の西條クロディーヌと最高の舞台人役の天童真矢が戦います。真矢は、「神の器」として、何の役でも演じることができるからっぽの器(なぜか鳥型)が魂だと言い、クロに「ライバルの”役”を演じてくれた」ことに感謝を述べて一度勝利します。しかし、クロは口に隠していた金色のボタンでよみがえります。真矢はクロに「覆すのかッ!舞台の理をッ!」と怒り、二人は高所にある大きな舞台で剣を交えます。そこでクロの強さや美しさを知った真矢は自分の人間としての、嫉妬や羨望や欲求を含んだ魂をクロに曝け出し、クロに「今のアンタがいちばんかわいいっ!」と言われた時も「私はいつだってかわいいッ!」と言い返し、また「貴方だけが私をむき出しにする」と発するなど、クロを対等な、そして唯一のライバルとして認めます。アニメ版までは次席のクロが主席の真矢を追いかける、という構図でしたがここで初めてライバルとして同じ目線に立つのですね。このレヴュー(と曲)は特に語りたいことが多いので別記事でたくさん語ります。

 <最後のセリフ>を演じるのは愛城華恋と神楽ひかりです。砂漠に立つ東京タワーに上った華恋はそこにいたひかりと会って「私にとって 舞台はひかりちゃん」と言い、ひかりこそが唯一華恋が舞台少女として舞台に立ち続ける理由だと語ります。すでに<競演のレヴュー>で舞台に立つ意味を見出し、華恋と向き合うことを選んだひかりはトマトを半分食らい、もう半分は地面に落ちていました。一方、華恋の背後にはかじられていない丸いトマトが落ちています(詳しくは後述)。観客の方を向き「客席って こんなに近かったんだ」など、舞台に立つことの恐怖を語ります。ひかりは華恋に舞台人として、今の執着に囚われずに次の舞台に立ってほしかった(自分をアップデートし続けより良い舞台を常に目指してほしかった)ため、『運命の舞台』を信じて歩んできた華恋を突き放します。すると、華恋の後ろにあったトマトがはじけ飛び、華恋は文字通り一度死んでしまいます。この理由は華恋のセリフやトマトの様子(後述)から読み解くことができます。華恋はこの東京タワーで死ぬ前に「私にとって 舞台はひかりちゃん」と語り、ひかりに近づこうとしていました。しかしそれをひかり本人によって否定された華恋は、立つべき舞台(世界)がなくなってしまい、自身の居場所がなくなって死んでしまったのですね。
 ひかりはこれに深く悲しみます。しかし、華恋が舞台人として舞台に立ち続けることの意味や世界に生き続ける意味を再発見してくれることを信じたひかりは華恋の亡骸に「舞台で待ってる」と話しかけ、奈落から落とします。華恋の死体はポジションゼロの形をした棺桶に入り、マッドマックスのような見た目の列車に乗ります。そこで華恋は過去の全て(の光景)を文字通りエンジンによって焼き尽くし、再び東京タワーの脚から列車で駆け上がります。華恋が「アタシ再生産」を背景にして棺桶からレヴュー服でよみがえると、口上とともにひかりと対峙します。ここの背景にでかでかと<レヴュースタァライト>と電飾看板があったことが印象的です。そうして過去を燃やし「アタシ再生産」を果たした華恋の胸をひかりは突き刺して「貫いてみせなさいよ アンタのキラめきで」と、映画冒頭と同じことを言います。華恋は自分の中に確かに在った、ライバルとしてひかりを見たいという心と向き合い「私、ひかりに負けたくない」と、自分の本心に驚きつつも口にします。かれんの身体からはきらめいた大量のポジゼロが吹き出し、東京タワーの上部が発射され、砂漠にあるはちゃめちゃにデカいポジションゼロにぶっ刺さってレヴューは終わります。文字起こしするとめちゃめちゃですね。華恋の身体からポジゼロが吹き出したのは、ここで華恋が新しいキラめきを見出したということだと思います。東京タワーがぶっ飛んでぶっ刺さったのは「ワイルドスクリーンバロックの終わり」ということなのでしょうか(わかりません...)。これを見ながら他の舞台少女も上掛けを外し、空に放り投げます。もう自分の世界という舞台に立つ彼女たちには、もう上掛けはいらないのでしょうね。砂漠に立つ華恋は、胸元のT字型の傷を残したまま「演じ切っちゃった...レヴュースタァライトを」「私 世界でいちばん空っぽかも」とひかりに伝えます。このセリフは、レヴュースタァライトという作品そのものをまさに”演じ切った”華恋が、再生産にあたって自分の舞台として全ての基盤においていたひかりを手放したことによるものでしょう。ひかりはそれに「だったら探しに行きなさいよ 次の舞台を」と答えます。これは「レヴュースタァライトという物語を演じ切った(ひかりに執着しない華恋として生まれ変わった)なら、その次に何をするかを決めなさい」というメッセ―ジでしょう(そしてこれが「最後のセリフ」なのかな、と思います)。華恋の「うん!」という返事の後には九九組のその後をチラ見せするエンディングが流れます。そして「この瞬間、今この時」(うろ覚え)というテロップとともに華恋がオーディションを受け「愛城華恋 みんなを スタァライト しちゃいます!」と聞こえ、列車が走っていく音とともに終幕です。
 これは華恋がその後も次の舞台を目指し続けて生きていることの証明としてのシーンであり、列車の音は九九組がその後も進み続けていることの比喩なのでしょう。

 ここまで映画のあらすじに沿って振り返りました。長かった~ごめんなさい。全てに共通するのは、みんながレヴュー相手と「ライバルとして(相手をライバルと認めることで)生まれ変わる」ということですね。相手との関係を見直すことを通して自身を見つめなおし、再生産しているのです。
 この関係性と描写を古川監督は「ヤンキー漫画」と振り返っています。これを読んだとき「確かに~!そう思って振り返ったらそんな感じかも~!」とめちゃめちゃ納得しました。
Febri「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト 監督・古川和宏インタビュー③

 ここに、天堂真矢だけがなぜ<皆殺しのレヴュー>で大場ななと渡り合いまともに会話をすることができて、それなのに再生産を必要としていたのか、という問いがあります。これは友人に相談して納得したことなのですが、「真矢は次の舞台を常に目指して進化し続ける意識があったものの、自分がその目標を立てて達成することに対しての疑問を抱かなかったから」なのではないかという結論になりました。つまり、真矢は世界としての舞台に立つ一人の人間として「どのように自分が舞台に立っているか」を理解しようとしていなかったということですね。

 古川監督へのインタビュー記事の1,2はここに貼っておきますね。読むと理解が広がったり深まったり楽しいです。

https://febri.jp/topics/starlight_director_interview_1/
https://febri.jp/topics/starlight_director_interwiew_2/

2.wi(l)d screen baroqueって何だったのか

 第1章では、九九組がレヴューを通じて何をしていたか、何を目的として何を達成したのかを解説しました。また、重要なシーンについては考察を挟みつつ振り返りました。ここでは曲名やテーマになっているwi(l)d screen baroqueがどういう意味を持っていたのかを、由来と作品世界における意味にわけて語っていきます。この章からはわりと短いです。
「美しきマドモワゼルそこに野生はあるのか」

トマトに込められた意味

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ロンド形式と再演について(余談)




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