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同じ類の人々。

 今朝、少しずつ溜まっていた不燃ごみを出した。それからプラスチックの資源ごみも。それだけのことで、気持ちがすっきりする。

 昨日話した内容を思い出す。考えすぎて、熟考しすぎる人がいる。同じ場所で、するりと望みを口にしてそれを叶えたり、他者に守られたりする人がいる。どちらが秀でていて、もう片方がそうではないということではないけれど、熟考している側は、置いて行かれたような気持になったり、周りに何もしていない人と見られていると感じたりする。平気で望みを口にした側は、もちろん気づかない。

 こういう経験、私にもあったなぁと思い出した。本人にとっても、周りからの見え方としても、絶対に望みを口にできる方がいいに決まっている。だけど、熟考タイプは今までの人間関係において、ひとつのものを分けた時におのずと大きい方を差し出すような生き方をしてきているので、いきなり望みを口にするなんてハードルが高すぎる。
 損しているな、生きづらいな、なんてことを思いながら暮らす。私にもまだ残っている。大きな組織から離れてあまり感じることはなくなってきたけれど、前提として自分の望みは叶わないみたいなものが、まだまだこべりついているな、と気づいてハッとすることがある。
 だから昨日話した内容は、数年前の自分の話を聞いているようだった。一度それを感じてしまうと、同じ場所で頑張るのがちょっと難しくなることもあったな。

 思っていることを、容易に口にできる人が羨ましい。私のような人間は、大切な場面になればなるほど、「これを今言ったらどうなるだろう。」と考えてしまう。本人は、ただちょっと困って考え込んでいるだけなのだけれど、妙な落ち着きを纏っているものだから、何も思っていないとか意思のない人とか思われてしまう。
 少しずつ望みを口にする練習をしていくことで、私はそれを克服しつつあるのだけれど、練習すればいいのだと気づくまでは何をどうしていいのか分からなかった。

 人それぞれ、特性がある。こういうケースは、あまり人に話しても理解されにくいというのが実感。けどたまに少し話しただけで「あぁ、この人もこっち側の人だ。」と思うことがある。それまでの生きてきた場所が違っても、そういう人とは、知り合って間もなくても話が尽きない。このままの自分でも、大丈夫かもしれないと思える。

 昨日はそういう人とはちゃんと出会えるようになっていると、また実感できた一日になった。私の周りにいる、そういう何人かの人は、「生きづらいなぁ」とへらへら笑って言いながらも、まず、自分の足で立とうとしている印象。私もそう。だから、そうやすやすと手を差し伸べては失礼だという気にすらなる。相手に敬意を表しつつ、何かあれば支え合うというスタンスでいたい。相手との関係性には、名前がなくてもいいなんてことも思う。家族でもいいし、友人でもパートナーでもいいと思う。
 ちなみに、私は猫ともそういう関係性を保ちたいと思っている。今のところ、私は心地よい距離感で支えあえていると感じている。
 
 何をしてもらったとか、何を言ってもらったとか、そういうのはいらないんだ。もちろんそういうことで嬉しくなることは事実だけれど、一緒にいる理由にはしないでおく。

 


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