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⑪ べったんを取られたさみしい思い出

LINE で この note を紹介した友人が「内観してるんだね」と返事をくれました。内観は禅の行でしょうから難しいこと。ここでは情けない自分の恥を、事実として書いているにすぎません。でも正直に言えば10本書いたところで十分しんどいです。内観まではしてなくても、誰にも読まれてなくても、外に向かって晒すのはしんどい。そろそろ締めに向かうことにして、幼児の時の記憶を晒します。

人は幼児の時のことをいくつくらい記憶してるのでしょうか。自分は10個か20個くらいはあるかもしれませんけれども、まぁたかだかその程度です。ぬくぬくと過ごしたということでしょうか。その中で、いちばんさみしい思いをしたのは近所の年上の子供と「べったん」をして取られてしまったことです。標準語では「めんこ」というあれです。その一回以来、べったんをした記憶はありません。

このとおりさみしかったこととして爺さんになっても忘れていないわけですが、その記憶に意味を感じ始めたのはそこそこ歳をとってからです。自分の本性というか、業(ごう)というか、いわゆる負け犬根性を確認した時、その原点としての「べったん敗北」が浮かび上がったのです。その後、幼児から児童、生徒、学生、社会人にいたるまで勝負ごとは苦手でした。スポーツ、ギャンブル、セールス、つきあい、処世術などにおいて、アンチ負けず嫌いが自分の業なんだと気づきました。そしてまたそれをいいことに、ぬくぬくした暮らしを楽しんでもいました。駄目ですね。情けない話しです。

でも、はたしてそれを嘆きながら人生を終える必要があるかというとそうでもないと思うのです。勤務先のアフターシックス仏教勉強会では、いくつもの印象深いお話を聞きましたが、次もそのひとつです。「業という言葉を聞くと、みなさんは波乱に満ちた人生を送った人を思い出しませんか。業が深いという使い方をする場合はたいていそういうことでしょう。でも他人からは平凡に見える人生を送っている人にも、業という本質はそなわっています。仏教で ‵カルマ′ というのがそれです。」この勉強会でわたしが受け取ったのは、業(ごう)は自分のイメージでは性質(たち)に近いということ。その ‵たち′ をなるべく正しくとらえて ‵たち′ が活きる生き方をすべきなんだということ。他人とおなじものさしをあてて生きることは、少なくとも自分の場合はさほど重要な問題ではないということと受け止めました。内観ではありませんが、諦観とは呼んでもいいかもしれません。

ときどき「負けず嫌いに生まれ変わって、ガンガン生きたい」とか、逆に「もし生まれ変わったら、競争のないことばかりを選びたい」と思うことも無いわけではありません。でもすべて不可能です。この ‵たち′ を持ちながら競争のある場面を過ごして、敗北しながらも人との間の関係が生まれ、迷いもしてかけがえのないものに出会えました。「べったん敗北」はさみしかったけど、まんざらでもなかったと思います。これからの残された期間も情けない自分にできることを、無理なくやって暮らしていこうと思います。