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カ 選ぶ必要が無い

これまで仏教講座・講義で事実や理屈を学ぶことと、法話でありがたさを味わうことの違い、次に講座・講義でもありがたさを味わうことがあったことに触れました。「仏教が説く真実や真理は、表裏一体として安心をもたらす」と追記しました。それは以下のような経験からです。

門信徒団体の研修会で「お念仏のみ教え  法然聖人と親鸞聖人」という講演を聞かせていただいたことがありました。僧侶でもあるご講師の大学の先生との事前打合せで「講義」か「法話」のどちらにするかを検討し、このときは「講義」を選択いただきました。

広く一般的に知られていることはお二人の聖人が師弟関係で、ともに鎌倉時代の浄土系仏教のしであり、法然聖人は浄土宗、親鸞聖人は浄土真宗ということでしょう。そして新聞報道を介して知ることには、この二つの宗派のあいだでご両人の紹介のしかたなどに若干の相違があり、高校日本史の教科書には双方の宗派から意見が出て調整を必要としたことがあったようです。私たちの研修会では、まずそこは正確に理解しようという意図がありました。研修会を報告した機関誌に、次のように要約されています。

「浄土三派の系譜、浄土宗鎮西派大本山増上寺と五重相伝の簡単な説明をされた後、この講演の中心テーマであるお念仏の領解と帰命の解釈の違いを学ぶことで、浄土三派中でも『浄土真宗と他派での帰命の意味の大きな違い』を学び、それに伴う『浄土真宗におけるお念仏の位置づけを理解』させていただくことができました。」

私が記憶しているのは、法然聖人は広い解釈の浄土教を開かれてその3人のお弟子さんが、各々の解釈で法然聖人の教えを分解され3つの支流ができた。2つが浄土宗鎮西派・浄土宗西山派であり、1つが浄土真宗である。浄土真宗は、南無阿弥陀仏というお念仏はあくまでも阿弥陀仏の側で言葉になって我々人間の側に届けられるので、我々人間側がお念仏を唱えようとせずとも、お念仏は聞こえてくる。そのことに感謝の気持ちで答えて、初めてこちらもお念仏をするということです。

講義は「どちらが良いとか悪いとかではなく、3人のお弟子さんが各々の解釈で法然聖人の教えを継承された事実」を解説いただき、親鸞聖人においては「お念仏が我々人間の側に届けられるということは、こちらが選ぶ必要が無いということです」と表現されました。過去に、浄土宗は他力で浄土真宗は絶対他力だという解説を聞いたことはありましたが、この「選ぶ必要が無い」という言葉はその時初めて聞きました。そしてその言葉を、法話をお話しいただかなくても「有難いことこの上ない」と感じたのです。

たまたま昨日インターネットで聞いていた時に布教師さんが「親鸞聖人はどこか外にお念仏があってそれを教えとして歩まれたのではなく、お念仏を(自分を補うものとして)必要とされた」という表現をなさいました。ということは「必要な栄養素として自然に取り入れたら、それがたまたまお念仏だった」って解釈してもいいのかと思いました。

わたしは決して浄土真宗しか受け入れないとは思っていません。親鸞聖人が法然聖人をどれだけ慕っておられたかは理解しています。何人もの浄土宗の僧侶さんにもお会いしたことがあって、法然聖人の教えもお聞かせいただき、信頼しています。ただ自分の個人的な背景として、受け継いだ大阪や備後の血がおそらく、選ぶ必要が無いお念仏を必要な栄養素としていたと味わっていたいと思います。

なまんだぶ なまんだぶ