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21 時間はいったいいつから始まったのか、空はいったいどこまで続いてるのか

自分自身の頭を整理する作業において、最も重要(かなめ)になるポイントがあります。

高度な物理学で説明されているビッグバンとかいう世界は不勉強だし、いまさらこんな疑問を持つのは愚かに思われるかもしれません。でも、子どもの頃からいまに至るまで、時間はいったいいつから始まったのか、空はいったいどこまで続いてるのかを説明しなさいと言われても説明できないし、ビッグバンとは・・と説明されても私は納得したくないのです。

説明とか納得とかしないほうが、自分には意味があるように思えますが、違うでしょうか。納得できないこの時間と空間の中に「今」があって「ここ」があって、何よりもそこに自分が居る。そう考えるほうが自分の存在に有難さを感じます。もしかすると、我が強すぎますか。

ところで、次のような説明を聞いたり読んだりしたことがありました。
「あなたの両親は何人いらっしゃいますか?」 「二人です」
「次に、お爺さんとお婆さんは何人ですか?」 「四人です」
「そして、ひいお爺さんとひいお婆さんは?」 「八人です」
「では、25代前のご先祖は何人でしょう?」 「・・??」
「三千三百五十五万四千四百三十二人です!」 「はぁ・・」

日本人の人口の「四人に一人がオレの先祖?」と思ってしまうこのお話し。
スマホの電卓で2の25乗を計算すると、33,55,44,32って仲良く数字が並ぶのが面白く「多くのご先祖の一人でも欠けるとあなたは生まれていないということです。だからそのいのちを大切にしましょう。」と言う風に、説いていきます。疑うことが全くできない説得であり、道徳教育的にはかなり重要な視点でしょう。

でもここで書きたいのは、次の視点です。

2の25乗を計算をするより
「地球上に莫大な種類の生物が居て、その中に莫大な数の人類が居て、あなたがその一人です。」
と言われたほうがもっともっと奇跡だと感じるし、だからこその有難さを感じます。

「客観的に私を計算するのではなく、奇跡の中にこの私が居ること」
「こういうことを考えているこの主体は、ほかの誰でもなく奇跡が作ったこの私」
という疑う部分の全くない事実のほうに、ほんとうの意味があると思います。

ほかにはこのような考えの方は・・と思い出すのですが、お茶の間でも人気の予備校名物講師は若い頃に宗教的感性を磨かれた結果として「今でしょ」という声が心の底から湧いているらしいと、京都のお寺で聞きました。今後わたしも触れることになりますが、仏(ほとけ)という存在(もしくは概念)を考える時には、ここに書いた奇跡を抜きにして理解しないほうが良いと思います。

お坊さんのお話の中には「このほとけさまは母親のような・・」とか「ひとの行為をほとけさまのはたらきの説明」として類似事例としてあげられることも多いのですが、その事例は仏教のお話として話さなくても素晴らしいお話として成立するので、お坊さんのお話を聞き馴染んでいない方にとっては、宗教をこじつけていると聞こえているのではないかと思います。

「そのひとが何となくほとけさん(と言われるであろう方)みたいな行為をされた」とは思われるかもしれませんが、そもそも世の中には居ないほとけさんに意味を感じない方々にとっては、わたしが感じるような重要な話として受け容れられないだろうと思います。

理系志向のわたしは12年X4周期のあいだは、仏教も宗教もまったく関心がありませんでした。
そして12年X5周期目に入るころに、子どもの頃から持っていた「時間と空に関する疑問」が、「奇跡の中に居るのがこのわたしである」ことと結びついたことによって、世の中には居ない存在(もしくは概念)の設定に意味を感じ始めたのです。