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36 願われる

先に望む・願う・祈るについて触れました。この順番で次第に強さが増していき、3段階目の「祈る」においてその向かう先は、大自然・大宇宙という世界もしくは概念としてはその先にある神仏と呼んでいる存在ではないかというのが書いたことのポイントです。

でも次に、人間の純粋な祈りはどこまで行っても人間の力には限界があるので、祈るという行為は横において、真逆の発想で大自然・大宇宙・神仏からこちらが願われるということも考えてみようという提案があります。

自分が生れてここにいるのは人間の世界の話においては先祖のおかげ、直接的には両親のおかげと言っても間違いではありませんが、両親はわたしを生もうと思ったわけではありません。生まれたらたまたまわたしだったのです。よく、子どもを授かったと受動態でいうのはその表れです。もちろん生まれた子供を必死に育てたのは両親や祖父母かもしれませんが、道理がわかった両親や祖父母なら「育ててあげる」という感情は持たないのではないでしょうか。「育てさせてもらう」というのが本質で、「生まれてくれてありがとう」が本来の姿だと思います。その姿にこそ子供は感謝の念を持つわけです。

C 願われる

ですからわたしが感謝の念を持つべきもう一つの存在はわたしを選んでくれた不思議であり奇跡である、大自然・大宇宙・いいかえると神仏だと考えましょうという提案にも賛同したくなります。さらに、奇跡的に選んでめでたくこの世に生れさせてくれたのならば、死んだ後も別の世に生れさせてくれることは確約されているという提案もまた、捨てがたいのではいでしょうか。

わたしが足を運んでいる仏教宗派の法話では、この逆の発想の提案を浄土門、他力と称し「願いや祈りを捧げるのではなく、仏様の側から願いを向けてもらえることが確約されていることをよろこぶ」のだと教わっています。仏になるのが仏教の道の教えで、到達点は同じでも仏になる方法は複数あるとしてそれを比較しながら、座禅を組んだり滝に打たれる修行は凡人には無理なので必要が無いとか、悟りを開こうと思っても人間にはしょせん無理だとか、他の仏になる方法に否定的な話があります。

もう何べんも聞いていますので、わたしはそこは横に置くようになりました。いま現在は、方法の違いというよりも到達点そのものが同じではないように思います。

他人のしあわせをすがるような気持ちで純粋な祈りを捧げて到達した結果と、自分を見つめて苦しい行に励んで到達した結果と、神仏から願われてここに生れまた死んでほかの世界に生れていくと思えた結果では、到達点は異なるように思います。そのどれを選ぶかは、家系に引き継がれる宗教宗派ではなく個人がいろいろ聞いて学んで自ら考えていけばいいはずです。

わたしの場合は、いろいろきいたものの中でいちばんフィットするのが家系に引き継がれた宗教宗派だったということです。背景には育ってきた子どもの頃の環境がそのまま浸みこんでいるんだと思っています。到達点は地に足が付く感じ(自己肯定感)です。一番大切なことなので、このことをこのあとも何度も触れていくことになると思います。

さて最後になりますが、神仏が人間の方向を向いて願ってくださることはあっても、祈られることはないと思います。あくまでも人間が祈る先が神仏です。そして天皇を象徴とする今の時代は天皇が神と定義されていた時代とは違って、天皇もまた民を向いてではなく神仏に祈られていると思います。その祈り方の強さや民の住む国の平和への希求の凄さが桁外れであり、そのことを知った民は天皇の姿を通して神仏を近くに感じ、安心を得るのではないでしょうか。

また前に書いたことの繰り返しになりますけれども、人間天皇が誰よりも祈り方の強さや民の平和への希求の凄さを追求されていることを、美智子皇后が圧倒されながらそばで添って来られようやく重責を次に引き継がれることで、まさに人間らしく「ことばにならない安らぎ」を覚えられたことが、神仏と天皇と人間の関係がはっきりしてくるようで、わたしに限って申せば今まで感じた天皇観の中では最高に心地よく感じています。