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ウ 我が問う「これでいいのですか?」

天が応える「それでいいのだ!」
我が確める「これでいいんですね?」
天が応える「いやちがう、それがいいのだ!」

何年か前です。Eテレの宗教関係の番組を観ていました。確かに良く解る内容でおもしろくもありずっと聞いていたはずですが覚えていません。その最後におまけのように話されたこの問答が強烈だったからです。わたしはこれほど短く「宗教という教え」をまとめた問答を今まで聞いたことがありませんでした。

これは仕事のやり方の話ではありません。もし仕事の話なら問う相手は師匠(上司や先達)でしょう。スポーツでも勉強でもそうでしょうけど、技術や構想について師匠が「それでいいのだ!」と言ってくださった際に「これでいいんですね?」と確めたら、「そうだ」と肯定してもらえるはず。そうしてもらわないと次のステップアップは出来ないと思います。

これは生き方の話です。でも同じ生き方の話でも、師匠(上司や先達)から教わる時は「それでいいのだ!」と言ってくださった際に「これでいいんですね?」と確めたら、「そうだよそれでいいよ」と肯定してもらえるはず。コーチングといわれる心理学的な指導方法も「そうだよそれでいいよ」と認めてあげるのが鉄則でしょう。

ただ生き方を、ここでいう(どんな仏だとかどんな神だとかの教義にこだわらない大いなる力の概念としての)「天」から学ぶ時は「いいかどうかを最終決定するのは自分自身ではなく天である」という話なのです。でも「その天はつねに生き方を肯定してくれている」という、なんだか矛盾した話なのです。そしてその矛盾が、どうもわたしたちにすばらしい発想の転換を恵んでくれるんだと感じます。

この素晴らしく恵まれた場所に生れることができて最高だと、思いながらもまた不満や苦しみを持つのがわたしたち。そのくりかえし。そこで「天」に問えば「それがいいのだ」と言ってもらえる。そこでまたもう一度「これでいいんですね?」と足元を確認する。その確認をくりかえす。その時のこちら側のこころの持ち方は、無限大の世界に昇華してくようです。宗教的感性とはそういう感じ方と、深く考えて行くことの作業を通して育まれ、その結果として地に足がつく生き方に近づいていくのだと思います。

さらにいえば尊敬したくなる師匠(上司や先達)の場合は、この矛盾とも思われる天のはたらきを十分に理解し、ご自身も地に足がつく生き方をされながら「そうだよそれでいいよ」と不満や苦しみを持つわたしたちに声をかけてくださるのだと思います。

これまでにも書きましたが、自己肯定感と自己満足感はまったく別のものです。