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もう一度、ボールを握りたい

この選手の生涯を「悲劇」と纏めてしまう事こそ、ある意味残酷なのかもしれない。
1934年の日米野球。日本チームは全国各地でアメリカチームと計16試合を戦った。草薙球場での沢村栄治の快投は現在でも語り草だが、健闘虚しく結局日本チームは全敗に終わる。
日本とアメリカの力の差は歴然であった。アメリカは16試合で計47本の本塁打。一方日本は僅か3本しか本塁打を打てなかった。アメリカに「baby」と揶揄されるのも無理はない。
日本チームの本塁打3本。放った選手は、井野川利春、ジミー堀尾、そして新富卯三郎。
井野川、ジミー堀尾は当時としては大柄な選手。後に職業野球でも活躍する二人である。一方の新富、身長163cm。小柄であったが、持ち前の全身を使ったフルスイングで、多くのファンを魅了していた。
新富卯三郎。小倉工業で5度甲子園に出場し、卒業後は門司鉄道局に。1934年に大日本東京野球倶楽部の結成に参加し、第一次アメリカ遠征にも帯同した。陽気な人柄で、チームでもムードメーカー的な存在であったという。
新富達は劣悪な環境に耐えながら、アメリカ遠征を好成績で終える。そういった苦労も報われ、1936年遂に職業野球が始まった。
しかしそこに新富の姿は無かった。新富は職業野球の始まりを見届ける事無く、直前に出征したのだ。
1939年2月、除隊。母校の小倉工業でコーチを勤めていたが、10月27日に満を持して職業野球の門を叩く。巨人ではなく、阪急に入団した。
その年はシーズン終盤での入団であったため、代打を中心に6試合の出場に留まったが、翌年は一塁のレギュラーに定着した。
しかし打率.153に終わる。持ち前の打撃はかつての輝きを大きく損失していた。いくら新富でも、4年間のブランクは余りにも大きかった。
翌1941年は外野でレギュラーに。大日本東京野球倶楽部時代は外野手でプレーしていた新富。外野から見える景色がかつての記憶を呼び戻し、新富は以前の輝きを取り戻した。
リーグ12位の打率.232、本塁打3本。打率は中島喬、山田伝に次ぐチーム3位。二塁打、三塁打、本塁打の部門はいずれもチームトップの成績で、新富は主軸の座を確立し、チームの2位躍進に大きく貢献した。さらに新富は、秋期リーグでは打率.325を記録し、首位打者を獲得。11月10日シーズン終盤、後楽園球場での大洋戦では、浅岡三郎からマルチ本塁打を放つなど5打点と大暴れ。来年は更なる記録を残す事が出来るだろうと、周囲の期待も大きかった。
しかし新富はこのシーズンを最後にまた出征してしまう。そして結果的に二度と還ってくる事は無かったのである。
出征して暫く経ったある日のビルマ。山奥から牛の鳴き声がしたと聞き、新富の部隊は食料調達のためにそこを目指して出発する。7人程で一列になって歩いていたという。食料調達と言えど、気を抜くわけにはいかない。足音を殺しながら、ゆっくりと歩き続ける。
突然、鼓膜を突き破るかの様な爆音が、地鳴りと共に響いた。一人の隊員の下半身が一瞬で吹き飛んでおり、地面に倒れていた。それが新富であった。新富は地雷を踏んでしまったのだ。新富は、前から4、5番目を歩いていたというが、それでも地雷を踏んでしまうというのは余りにも運が無かった。
隊員に背負われ、運ばれる新富。運ばれながら、ずっと独り言の様に、こう呟いていたという。
「残念だ」
出血多量、遠退く意識の中で、新富は何を観ていただろうか。その日の内に息を引き取った。
これが、1945年8月1日の出来事。終戦まで僅か2週間であった。
終戦後、新富の部隊は帰国。
「あの。主人は本当に戦死したのでしょうか」
新富の妻の言葉に、隊員達は目を合わせる事が出来ず、ただ頷くしかなかった。
この選手の生涯を「悲劇」と纏めてしまう事こそ、ある意味残酷なのかもしれない。
新富は、戦地でよく仲間達にこう漏らしていたそうだ。
「もう一度、ボールを握りたい」
その想いは、ビルマの大地に儚く散ったのであった。

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