変わる町と、変わらないもの。再び清水秀雄氏の故郷へ
米子市朝日町。
特に用は無いけど気になる町。それがこの地の特徴だと言える。細く舗装すらされていない道路に入口が向き、多くの店がひしめき合っている。建物も古びたものが多く、店の看板の作りもそれぞれで、統一感が無い。簡単に言えば「雑多」。この下町の様な雰囲気やどこか温かい空気に惹かれ、毎日多くの人がこの朝日町に訪れているという。数十年前まで何もない桑畑だった町が、急激な成長を遂げていた。
朝日町は食品がよく売れる。安くて質の良いものが手に入りやすいそうだ。昼間はエプロン姿の婦人が忙しなく、乾いた下駄の音を鳴らしながら進む。しかし夜になれば、パチンコや劇場が幕を開け、男の町に。昼と夜で違った姿を見せ、映画館も数多く存在するこの朝日町は、本通りを差し置いて「米子一の繁華街」と謳われている。清水秀雄氏が経営している「五百枝」も、その一角を担っていた。
それから70年経つ。
私はある場所を目指し、夜の朝日町を歩いていた。かつての映画館や劇場、さらには人通りも殆ど無く、街灯も少ない。しかしどこか温かみのあるこの町が好きで、米子を訪れた際、用も無いのにここを敢えて通行する事がある。
この朝日町の少し外れ、暗がりの細い道に「田むら」という飲食店がある。清水秀雄氏が経営していた「五百枝」の跡地で経営されており、米子市を訪れた際、私が必ず立ち寄る飲食店だ。3月28日から31日まで3泊4日。清水秀雄氏を巡る米子旅。「田むら」の暖簾を潜り、今ここに再び始まった。
すっかり変わった米子駅
カウンターが6、7席程。4人程が座れる座敷がカウンターの奥にある。入口横の階段を登れば2階にも座席がある様だが、使われているのは見た事がない。清水氏が五百枝を経営していた時と店の作りは変わらないらしい。蟹のコース料理を頂きながら、本日米子到着までの出来事を振り返っていた。
夜行バスが取れなかったので少し値段がかかったが今回は新幹線で米子に来た。夜行バスと比べて体力的に余裕を持ち、万全の状態で現地に到着出来ると思っていたが、安直な考えはまずかった。職場にすら徒歩で通っている私にとって、夜行バス以上に慣れない新幹線。想像以上に身体に負荷が掛かっていた。故に酒が身体を回るのも早い。
今回米子を訪れるのは1年振りである。その1年で米子駅は大きく変わっていた。特急やくもを降りてから改札まで、まるでデパートの中を歩いている様だった。降りる駅を間違えたのかと錯覚した程である。
「お兄さん、猫舌かい?」
女将の言葉で我に返る。
物思いに耽っていたら、蟹のスープはすっかり冷めてしまっていた。
謎の人
清水秀雄。
プロ通算103勝。明治大学4連覇の英雄。戦前の奪三振記録や逸話に関しては数多く知られている。私の投稿を日々見て頂いている方には、すっかりお馴染みだろうか。経歴や生涯に不明な点が多い。私は遠縁という事もあり、凡そ4年程前から調査を続けている。
2日目。私は皆生タクシー、杉本真吾社長の元を尋ねた。甲子園での解説を終え、米子に戻られたばかりであったが、ご対面の依頼も快諾して下さった。会社の応接室に案内して頂き、ソファに腰掛ける。
杉本氏曰く清水氏は、米子東高校OB会や後援会では名前も全く挙がらない「謎の人」であるという。清水氏のご子息も後援会等に顔を出した事は無く、誰もその行方を知らないと。そういえば、本人は米子東高校(清水氏が在籍していた時の名称は米子中)に顔を出した事は無いと語っていたのを何かで読んだ。清水氏の実績は100年以上続く米子東高校野球部の中でもトップクラス。それなのに、なぜ誰もご子息の行方を知らず、そして本人は学校にも顔を出さなかったのか。学校と本人は関係が悪かったのだろうか。
ふと、素行面が原因だろうかと考える。清水氏の素行に関しては、様々な書籍から情報を得る事が出来る。
「殺し以外は何でもやった」
「酒や天狗、女出入りと枚挙すればきりがない」
「ベンチで随分と威張った態度」
なかなか酷いものである。
「米子東と清水先輩が繋がりを切っていたとは考えにくい。米子の様な『地方』で、それまでの繋がりや人間関係に頼らず飲食店を経営していくのは不可能」と杉本氏は語る。
清水氏が五百枝を経営していたのは昭和30年から40年頃。その頃の米子東高校関係者は、五百枝に顔を出す事はあったのだろうか。例えば岡本利之氏。その頃監督を務めており、米子東高校は全盛期を迎えていた。米子中選手時代は清水氏と共にプレーしており、「私がこれは打てないと思ったのは、沢村(栄治)と清水だけ」と言わしめている。同じく共にプレーした、井上親一郎氏や成田啓二氏、木下勇氏はどうだろうか。これらの方は学校には顔を出していたという。誰も店の暖簾を潜っていないとは考えにくい。
実はまだ一度も、清水氏が飲食店を経営されていた時の話は聞けていない。次は、米子東高校のOBの方となお交流する事が出来たら良いだろう。飲食店五百枝の謎は、まだまだ残されたままだ。その後は杉本氏の車に乗せて頂き、様々な所を周った。今は言えないが、その内容についてもいつか報告出来ればと思っている。
キーマン、W氏の元を訪ねるも…
灘町という場所に、清水氏のご子息と土地の売買についてやり取りした、W氏という方がいる。この方まで辿り着いた経緯を少し書こうと思う。
以前米子市を訪れた際、清水氏の奥様が住んでいたとされている灘町を巡った。聞き込みを続けると、この様な話が聞けた。
「【清水氏の奥様】は何十年も前に、土地を売ってここからいなくなった」
土地を売って。この一言が鍵となった。
「借地ではなく土地を持っていて売ったのであると、土地の登記簿を見れば、その当時の居住所が載っているはず」
そう仰ってくれたのは萬象アカネ氏。アーキビストや著述家として活動され、清水氏の調査に協力して下さっている方だ。登記簿を調べて頂き、そこでW氏が清水氏のご子息と思われる方と土地の売買をしていると特定する事が出来た。
3日目。W氏の家の前に着いた。長い間この地に住まわれているのだろう、歴史のありそうな立派な日本家屋である。その家屋の威圧感から緊張が身体中を巡っていたが、何とか心を奮い立たせ、覚悟を決めた。
玄関から出てきたのは、一人のご老人。この方がW氏である。
【清水氏のご子息と思われる方の名前】という方を知っているか。返答は余りにも予想外のものだった。
「そんな人は知らない。分からない」
土地の売買をされていないか、などと聞いても、返答は同じだった。私がW氏に怪しまれている訳ではなかったが、ご近所の方はこちらを遠くから見ている。
W氏の声はやけに大きい。呂律も余り回っておらず、耳も少し遠かったようだ。ご子息とやり取りしているという情報はほぼ確実である。もしかすると忘れられているのかもしれない。近所の方の視線に居心地が少し悪くなった。珍しいと思われているのだろう。観光客は灘町に訪れる事は無いだろうから。
これは参ったな。ありがとうございますと挨拶して、W氏とのお話は終了した。この灘町にも街灯は少ない。18時頃だが辺りはすっかり暗くなっていた。
背中を追って
ご子息は何処にいるのか。まだ米子にいるという話も聞いたが、いくら調べても米子にご子息の名前は確認出来ない。
アプローチを変えなければならない。
今回の調査で得られた事と言えば、清水氏がOB会等でも謎の人の扱いされている事、ご子息の行方を誰も知らない事、そして飲食店を経営していた朝日町の事についてである。謎がさらに深まる事態となった。最終目標の墓参りから、足踏みする状況となる。期待して下さっていた方には申し訳無い結果となってしまった。
帰り道途中の朝日町で、ふと立ち止まってみる。「米子一の繁華街」と呼ばれた70年前と今は違う。人も街灯も少なく、商業施設は無い。しかしこのどこか温かい雰囲気に引き寄せられる私。当時もその空気に惹かれて町を訪れる人が多くいた。目には映らないが、ずっと変わらないものもあるのだろう。
目に映る景色と幻想の中で、清水氏の背中が朝日町の路地をゆっくりと歩き出す。あの人は何度この道を歩いたのだろうか。そんな事を考えながら、私は清水氏の背中を追いかける様に、再び朝日町を歩き始めた。
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