言葉の領域
別に大した話じゃあないが、言葉の領域についてよく考える。言語ゲームに関する哲学的な議論はウィトゲンシュタイン先生にお任せするとして、ごくごく単純に、言葉にはどこまでのことができるかという話です。
Noteを見るような人なら御存知の通り、専ら文字による言葉のやり取りが主なインターネットは、言葉の暴力で満ち溢れている。界隈によっては見るに堪えないようなヘイトスピーチが並ぶ中で、発言者の言葉遣いが綺麗であるというだけで、何か信頼がおけるような気がしてくる。これは言葉の領域を考える上で分りやすいポイントでしょう。
で、今回私が問題にしたいのはその先。言葉の領域を考える上でわかりづらいポイントです。
言葉遣いが丁寧な人が、誰から見ても穏当で正しいと思えることを言っている。少なくとも言葉の領域では完璧だ。素晴らしい、と言いたいところなんだけれども、しかしやはりそれは言葉でしかないのだ。つまり、「丁寧な言葉遣い素晴らしいことを言っている人の素晴らしさは何によって保証されるのか?」ということです。
これだけヘイトスピーチで満ち溢れていると実感し難いことではあるものの、言葉で立派なこと、素晴らしいことを言うのは実は簡単で、そして簡単である分、実際にそれを行わずとも言葉にするだけで実践しない、ということもできる訳です。まあ別に「言葉の領域」だなんて大上段に構えずともわかり切った話ですね。
“ マルクス主義からみれば、理論は重要なものであり、その重要性は、「革命的理論なくしては革命的運動もありえない」というレーニンのことばに十分に示されている。しかし、マルクス主義が理論を重視するのは、まさしく、そしてただ、それが行動を指導できるからにほかならない。たとえ正しい理論があったとしても、空談義するだけで棚に祭り上げ、実行に移さないならば、その理論がどんなにりっぱなものでも、意味はないのである。”
(毛沢東/小野信爾訳「実践論」、小野川秀美責任編集『世界の名著64――孫文・毛沢東』中央公論社、1969年7月20日初版、358頁より引用)
毛沢東がどんな立派な理論でもそれが何らかの実践を伴わないならば無意味だと断じている通り、言葉の正しさを保証するのは、実は言葉の領域の外で行われる行動であり、実践です。さて、それでは文字と言葉が支配するインターネットのような場にあって、言葉の正しさを保証するための実践というのはどのような形で示されるべきなのでしょうか?
ヘイトスピーチをしない人々の中で、立派なことを言っているけれども言葉ほど立派ではない人々と、立派なことを言っていて言葉通り立派な人々の区別というのはどのように行われるべきなのでしょうか?
テレワークの普及でますます生活から身体性がなくなる中、長時間労働の中でそんなことを考える。
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