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野生と家畜、飼い慣らされる兆しについて

思い立って山際の道を延々車を走らせる。道端には稲穂よりも蕎麦の白い可憐な花が点々咲いている。

牧草地に放し飼いにされている牛が草陰に埋もれながら、ブヨや蝿を尻尾ではたきつつ日向ぼっこしていた。距離を詰めていくと、こちらに注意を向けるもの、視線を合わせず耳だけで様子を伺ってくるもの、無関心に背を向けるもの、さまざまだ。息を潜めるようにすると、むしろ緊張感を帯びてしまう。適当さを装うには、こちらから寄せてもらうよう声を掛けるような気持ちの方がいい。

距離の詰め方は人より動物にならう。魚を飼っていて思うが、不用意に近づいてビビらないときは何かがおかしい。調子を崩していることもあれば、ベタ慣れしすぎてのめしをこいてることもある。公園の池などで水面にぱくぱくと餌をねだる錦鯉を見たことがあるだろう。金魚が恒常的に水面でぱくぱくしている状態は「エア喰い」と呼ばれ、何らかの兆候として嫌われる。メリハリがあればよいので一概には言えないが、飼い慣らされることに伴う「餌くれ」アピールとエア喰いはとても似ている。

今年は北海道でヒグマの人里への出没、それに伴う事故がとても多いそうだ。80年代からはじまった保護政策と札幌都市部の緑地化計画にともない熊が数を増やし、身を寄せる場所が増えた。6月には市街地中心部へも現れたらしい。昔、動物写真家の宮崎学さんが言っていたが、人が圧のある注意を向けなくなった結果「イマドキの野生動物」はいくらでも野放図になっている。

一過性の対応ではもうどうにもできない。自然がこちらを侵すほどコンタクトゾーンを広げて来た。人に慣れた動物は、容易に距離を詰めて来る。北海道には、知床のように場をお互いに干渉せずに共有して来た地域もあるが、都市生活者は人との付き合い方の延長で動物を見ている。それではいけない。もはや眼差しを向けるのは人間ばかりではないのだから。

最近手に取ったものでこの本がよかった。
数ヶ月も冬眠する熊は起き抜けにすぐ動けるが、なぜ筋肉が衰えないのだろう?
熊は、一度腎臓で尿にしたアンモニアを多く含む水分から筋肉を合成するアミノ酸を作れるのだとか。

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