見出し画像

シェア、って言葉が実はあまり好きじゃない

こんばんは。id_butterです。

最近、ワークショップとかで最後によく言われる。
「感想や気づきをシェアしてください。」

以前は、開催者の方への感謝をこめて一言を添えるくらい、と思ってがんばって必ず「シェア」していた。
けれど、今は場の温度に応じて、「シェア」しないことが増えた。
これは、スピリチュアルという無形の見えないものにお金を払うことに抵抗がなくなったことと関係している。

つまり、無料で「シェア」を要求されている、と感じられた時は何も言わないようにする。
開催者の作ってくれた場への感謝が上回る時は、もちろん進んで「シェア」に参加する。そういう場は、みんなが同じ熱量で「シェア」していて、それぞれが出した「シェア」が掛け算となって、何かを創り出すのだ。

そうじゃない時の「シェア」は奪われるような気がするのだ、何かを。

そうじゃないとき、というのは例えばプライベートな体験の「シェア」を要求されるときなど、「シェア」という軽さ以上のものを求められる時だ。
そういうとき、求める側は一切「シェア」をしないのもお約束。

これは、「シェア」という名を借りた体験泥棒ではないかと思う。

わたしは、スピリチュアルという無形の見えないものにお金を払うようになった。
価値観が変わったのだと思う。
スピリチュアル分野の売り物は、大体体験そのものや、体験から得た技術だったりする。

その価値は、わからない人にとって測りようもない。
ましてや、金銭に換算することは難しいから、本人の言い値になる。
事前に高いか安いかを判断するのには、リテラシーが必要になる。
そのひとの書く文章や作るホームページから、判断する。

スピリチュアルは、自分で開拓して得たものほど価値がある。
自分で開拓したものだから、オリジナリティに溢れている。
本に書いてある知識とかはそのまま役に立たない。
自分で試行錯誤して得たものだけが財産になる。
痛みも悲しみも濾過されて結晶になってそのひとの形になる。
同じスキルを身につけたとしても、同じものはできない。

こういうものに触れたときに、感動する。
ひとは神様のギフト、そう実感する。

だから、「シェア」泥棒は重犯罪だと思って、腹が立ってしまう。
どこでも言えないので、noteでこっそり本音を吐露してみた。


サポート嬉しいです!新しい記事執筆のためシュタイナーの本購入に使わせていただきます。