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残した余白を埋めるもの

こんばんは。id_butterです。

「考えるのではなく感じる」

最近のスランプはこれ。
あるものをどうにかすることはしてきたけれど、ないものを作り出したり、感じられないものを感じるのはむずかしい。

この体験をして、長い間遠ざけてきたスピリチュアルというものをやむなく勉強し始めて、半年以上が経った。

ちなみにこれはふられた今も続いている。(なんでだ。)
最近は、エネルギーが体の中を駆け巡ることを24時間体感している。
瞑想やら特に修行をしたわけでもないのに、この体感はこれほど短期間で身につくものなのだろうか。
体の中で起こることを解明しようと読んだ数々の本は、錬金術や性魔術、オカルトといったカテゴリーの類いばかりで、怪しいことこの上ない。

その中で、明らかなことがある。
わたしの心が色々な方面から見て、半分死んでいるという事実だ。

例えば、「チャクラ」という考え方がある。
心、ハートチャクラは第4チャクラといって、体の中心である心臓あたりに位置する。
YouTubeでチャクラ活性化動画を見ながら、体の中のエネルギーを感じる。
第一(会陰)、第二(子宮)、第三(胃)、と順番に体感を確認していけば、自分でも極端に第四であるハートチャクラだけ反応が悪いことは自覚できた。

そして、チャクラクリアリングというエネルギーワークを練習している知り合いにも、「ハートチャクラだけまさかないのか?ってくらい存在感がない」そう明言される。

スピリチュアル界隈の人はすぐにいう。
「考えるのではなく、感じるのだ」とか
「ときめく方を選べ」とか
「頭ではなく心に従って行動する」とか。

で、思考優位のわたしはここで詰まる。
だって、現実の中で思考せずに行動するって、難しくない?

例えば旅行に行きたい、と思ったとする。
そうしたら、旅行サイトにアクセスする。
日付を絞る。← ここで休暇取れるかどうか仕事の予定確認する
行き先を決める。← 休める期間内で行けそうなところを選ぶ
予算を決める。← 余剰資金の中でやりくりする
←の右側は全て思考と呼ばれる。
もちろんホテル選びでときめく場所を選ぶとか、憧れの場所に行きたいとか、気持ち先行でできる行動もあるけど、わたしは苦手だ。

どんなに気持ちが動いたとしても行動に移そうとするとき、必ず思考が動く瞬間があって、その瞬間に最初に感じた気持ちを見失ってしまう。

預金が1億円あったら、行き先も予算も気にしないで選ぶと思うけどねぇ。
実際に、スピリチュアルにはそういう方法もある。
バンジーと呼ばれる、現実を見ないで心だけに従って行動する行為。
預金が10万しかなかったとしても、転職したり全部使ってあるいは借金までしてやりたいことに挑戦する。
限界を超える。

子どもがいるということはわたしを臆病にさせる。
よくも悪くも現実を忘れることはないし、だからこそ現実を生きることを選んでいる。

頭で考えることの弊害は、今までの自分の行動パターンに固執することだ。
心に従う、の意味は無意識の力を使うということなのだ。
考えないでも歩けるのと同じように、本当はすべてできるしうまくいくはずなのだ。
そう信じることが、今までとは違うところにアクセスする方法なのだ。

ここまで書いてきて気づく。
「ハートで感じる」まま行動することは、自分を信じること、結果をすべて引き受けることで、きっと今の課題はこれなんだと。

最近noteの文章の書き方を少し変えた。
本当は変えたのではなく、変わらざるを得なくなったというのが本当のところだけれど。

はっきり自覚したのはこのとき↑だった。
今までのわたしだったら、この記事をここでUPすることはない。
もう少し奥まで突き詰めるし、最後のところに説明を加えたと思う。
けれど、このときなぜか「途中」でUPしようと思った。
それ以来、今までの感覚からすると「途中」の記事をUPするようになった。

必然だったと、後からいただいたコメントを読んで、そう思った。

今までのわたしが考える「途中」から「最後」の間にあったものは、完璧を装おうとする行為だ。
ツッコむ「隙」を残しておけば、攻撃されるかもしれないとどこかで疑っていたのだ。

けれど、わたしは「途中」のまま記事をUPするようになった。

かわいそうと思われてもだいじょうぶだし、心配されれば素直に嬉しい。
以前のわたしは、誰かに「かわいそう」と言われるのがきらいだったけれど、今はそうでもない。
前は「心配」を素直に受け取れない相手がいたりしたし、隙を見せれば攻撃されるかもという恐怖を抱えていた。
今は心配されたら嬉しいと素直に思う。
だから、文章を「かわいそう」なまま終わらせられるようになった。
読んだすべての誰かは優しいコメントしか書くはずがない、とはいかないまでも、攻撃される気は全然しない。

以前のわたしは「途中」から「最後」の間にある余白には禍しか呼び込まれないとなぜか固く信じていたのだ。
「かわいそう」なのはお前が原因だろう、とか「ふられたのはお前がババァだから当然だろ」とか言われることが怖かった。
けど、そう責める人は外にいたのではなくわたしの中にいたのだ。
だから、かわいそうなままで文章を終わらせることができなくて、なんとか完璧に見えるよう取り繕って、綺麗に着地させてから記事をUPしてきた。
実際に起こってから時間が経って消化していないと書けなかった。

実際に、記事に優しいコメントをいただいた。
そのひとつひとつが、本当にほんとうにうれしくてありがたい。
読んでいただいて、いいねとかコメントとかアクションをくれるなんて、感謝でしかない。

ちゃんとしないで残しておいた余白を委ねること、その余白は安らぎとか平穏とか祝福とかを連れてきた。
こんな風にnoteにお世話になっているのはわたしくらいかもしれないと思う。noteという優しい場所だから成立するような気がする。

noteの多大なるご協力はいただいたけれども、今のわたしは記事を読んでくださったどなたかを信じていて、それはたぶん自分を徐々に信じられるようになってきたということかもしれないと思っていたりする。

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