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〈雑種(ハイブリッド)〉であること――中上健次のクレオール性 Ⅰ

第65回「群像新人評論賞」に応募して最終候補になった評論をnoteにアップしました。長いのでⅠとⅡに分けてあります。
なお、参考文献はⅡに掲載しますのでⅠでは割愛します。ご了承ください。
(扉の写真はマルチニック島にあるシェルシェール図書館で、P.シャモワゾー『テキサコ』に登場します)


1

 少し前のことだが、第157回(2017年上半期)芥川賞の選考をめぐるある騒動がネット上で起こっていたことを覚えている人は、まだ少なからずいるはずである。それは、選考委員の宮本輝が、温又柔の作品「真ん中の子どもたち」(2017年)に対して、以下のような選評を下したことから端を発する。

これは、当事者たちには深刻なアイデンティティと向き合うテーマかもしれないが、日本人の読み手にとっては対岸の火事であって、同調しにくい。なるほど、そういう問題も起こるのであろうという程度で、他人事を延々と読まされて退屈だった。

 温は両親がともに台湾人だが、本人は台湾で生れた後に3歳から日本で暮らしており、家庭は台湾語、中国語、日本語が飛び交う環境であるというが、創作は日本語で行っている。そのような温の創作テーマの一つが、〈どこにも属さない「私」〉であることは、『台湾生まれ、日本語育ち』(2015年)という著書のタイトルからも知ることができる。「週間読書人」のインタビュー(2020年9月25日号)にて温は、『台湾生まれ、日本語育ち』で「小説を書くことをとおして、自分は日本人ではない、しかし日本語で生きていると意識していく過程を辿った」と書いたことについて、「(前略)台湾人なのに中国語ができない自分を持て余しながら、一方で、日本人でもないのに日本語しかできない自分のことが受け入れがたかった」と、言語とアイデンティティの間で揺れていたことを語っている。このような言語との向き合い方を模索する温が書いた「真ん中の子どもたち」は、上海の語学学校で出会った若者の三人が、それぞれ日本、台湾、中国といった国の間で悩みながら友情を築いて行くというストーリーであり、テーマも母語と国籍との関係といった、ことばと〈私を私たらしめるもの〉の問いをめぐるものである。そのテーマに対して、宮本は選評で「日本人」(である自分と読者)には「他人事」で「退屈」だとして一蹴しているのだ。
 温又柔本人は、宮本の選評に対して「どんなに厳しい批評でも耳を傾ける覚悟はあるつもりだ」と前置きしたうえで、次のような怒りをツイッターにあげている※。

でも第157回芥川賞某選考委員の「日本人の読み手にとっては対岸の火事」「当時者にとっては深刻だろうが退屈だった」にはさすがに怒りが湧いた。こんなの、日本も日本語も、自分=日本人たちだけのものと信じて疑わないからこその反応だよね。

(@WenYuju/2017年8月12日)※
※2022年8月現在アカウントは残されているものの該当するツイートは見られない状態にある。

 ツイートでは発言者を「某選考委員」としてオブラートに包んでいるが、宮本輝であることは選評から明らかである。温が抗議のツイートを発信したことが発端となって、ネット上では宮本の選評を「差別的だ」と批判するもの、反対に「問題ないのでは」と擁護する意見、加えて温へのそれこそ差別的だととられかねない辛辣な言葉を投げるツイート等も重なって、騒動となったのだった。騒動の動向をここでいちいち拾うことはしないが、注目したいのは温のツイートにある「日本も日本語も、自分=日本人たちだけのものと信じて疑わない」の一文である。
 創作活動は40年以上にわたり、「流転の海」シリーズをはじめとする数多くの作品を生み出している宮本がトップクラスの作家であることは、誰しもが認めるところである。そのため、芥川賞選考の騒動ではステレオタイプ的に宮本の選評を〈大御所作家の傲り〉、また温の怒りを〈未熟な若手作家のあがき〉とする向きもあった。しかし、文学が書き言葉と話し言葉という〝ことば〟のみで作品を創りあげることを考えると、〈その程度〉とも言えるようなこれらの意識でこの事を治めて良いはずはない。そして宮本の選評には、日本語を取り巻くことばと国、日本語と日本文学、そして日本文学とは何か、さらに宮本が選評で述べている「日本人」とは誰を指すのか、というような様々な問題が潜んでいる。恐らく宮本は、宮本自身が考える〈日本〉に則した〈日本文学は日本人が日本語で書いたもので日本人が読むもの〉という構図に揺るぎない自信を持っているので、「対岸の火事」、「退屈」とする選評を下したのであろう。加えて、その揺るぎない自信から、昨今注目されているネイティブではない作家が日本語で書いた作品や、在日韓国・朝鮮人に代表される歴史に翻弄されたバックボーンを持つ作家らの作品、そして日本語で書かれた作品への外国人が持つ理解などにはさほど関心がない、とも感じられる。つまり、温の言う「日本も日本語も、自分=日本人たちだけのもの」として、宮本の中で日本文学が完結していると考えられるのだ。
 このような、ことばと文学、そして自身の帰属や日本という国、といったものを考える際に、振り返りたい出来事が存在する。それは約30年前、中上健次が喉から手が出るほど欲しかった谷崎潤一郎賞を、小説内で使用している〈日本語〉への違和感によって受賞できなかった件である。中上は、晩年とも言うべき1990年にドイツのフランクフルトで行われた「私は〈日本〉人なのか」(注1)と題した講演で、自身の被差別部落出身という出自と、出自にまつわる作家活動について総括ともいうべき内容を話している。「家族の中では、私一人、字の読み書きをする」という家庭環境や、「近代文学の世界、この豊かな文字の国の表記に、私たち(被差別部落民―引用者)は含まれていない」という日本文学への見解等に続き、講演の終盤に川端康成のノーベル文学賞受賞式でのスピーチにおける「美しい日本の私」の発言と文学が、「個人的な営為」であるとする近・現代の考えから対立関係性を成していることを引き合いに出しつつ、以下のように述べている。

そのラジカルな問い(前述した対立関係―引用者)と、最近の私の作品『奇蹟』『讃歌』をめぐって起こった波紋は、まさしく重なります。幾人かの日本の作家が、私の日本語の表記がおかしいと指摘するのです。誤りは編集者のチェックのサボタージュのせいだと、私に、作家の私の罪を軽減する優しい意見を述べて、慰めてくれる人もいます。/けれども、書いた私の日本語がおかしいという意見は、私には、いま現在、〈美しい日本の私〉つまり〈日本〉と〈私〉の間に越えられない距離があるのだ、と声高に指摘していると聞こえてならないのです。それは、つまり、話し言葉でない書き文字とまるで無縁の世界から、文字の世界すなわち日本語の世界へ来た私の、その日本語がおかしいと言うわけです。/その指摘は、私が文字を覚えたころをまざまざと思い出させます。不安も甦ります。たとえようのない怒りも、また甦ります。小学校に入学した当時、安物のロウ質の多いクレヨンで塗り潰そうとした空。だけど、塗っても塗っても隙間のあく空。あの妙な疎外感も甦ります。

「私は〈日本〉人なのか」

 母子家庭で働きづめだった中上の母親は、息子の通う小学校で絵を描く授業がある事を知らなかったうえ、支給された学用品の購入費を生活費に回さざるを得ないという生活状況にあった。中上は、そのような貧しい家を切り盛りする母から絵の道具を買うお金を貰ったものの安物のクレヨンしか買うことができず、画用紙にいくら緻密に色を塗ろうとしてもクレヨンの質のせいで塗りむらができて隙間があいてしまった苦い経験を、「『奇蹟』『讃歌』をめぐって起こった波紋」としている谷崎賞選考の際に受けた「疎外感」と結びつけている。当時の日本の文学界を代表するような精力的な活動をもってしても、自分自身の力ではどうしても埋められない「隙間」を、作家の武器であることばから感じたというのだ。そして、その「隙間」は、「幾人かの日本の作家」の選考委員が言ったとされる、小説にふさわしい正しい「日本語」が存在していることであり、中上の作品には彼らが定義している小説にふさわしい正しい「日本語」が使われていないため、正しい「日本語」への「越えられない距離」があるということを示している。では、正しい「日本語」とは一体何なのか。それは、講演における「書き文字とまるで無縁の世界から、文字の世界すなわち日本語の世界へ来た私」という中上の発言から、書き文字、書きことばが小説にふさわしい正しい「日本語」であり、対になる話しことば、語りのことばは小説にふさわしくない正しくない「日本語」、としているようにとれる。代表作となった『枯木灘』(1977年)以降の中上は、古典作品にみられるような語りのことばを積極的に作品に導入してきた。その語りのことばの源になったのは、母親をはじめとする周囲の大人たち、中上作品のトポスである「路地」にいた字の読み書きができない老婆(作中での呼称はオバ)らから聞いた故郷の熊野地方に伝わる伝説や昔話等であった。だから、語りのことばの否定は、選考委員から出自を否定された悔しさが滲んでいるのかも知れない。その悔しさは、敬愛してやまない大谷崎の名前が付いた賞を再三逃したことに加えての屈辱であった。
 そして、講演は次のような疑問を呈して幕を閉じている。

それで、あらためて問うしかないわけです。〈日本〉と〈私〉は、どうつながるのか。重なっているのか、切れているのか。私の書くのは〈日本〉なのか。私は〈日本〉人なのか。そう問うわけです。

「私は〈日本〉人なのか」

2

 中上作品の分水嶺として「路地」の消滅がある。
 正確には、「路地」のモデルとなった中上の出自である和歌山県新宮市にあった被差別部落の消滅のことだが、中上は終生「路地」と新宮市を含めた紀伊半島の熊野地方に拘泥し続ける。中上は、阿部勤也との対談「中世ヨーロッパ・被差別民・熊野」(1984年)(注2)において、熊野と「路地」について次のように自身の中で位置づけているとしている。

(熊野地方とはどこかという問いについて―引用者)熊野の熊野たるトポスはどなたが考えても、ありがたい神社にあるのではなく、底の抜けたような、そのまま黄泉につながっているような被差別部落にあると思う。僕の書いている〝路地〟とはその意味です。だから熊野はどこか? とたずねるのなら、それは路地のことだと覚えていてください。

「中世ヨーロッパ・被差別民・熊野」

 つまり、熊野という広範囲な地域と、熊野の中にピンポイントに存在している被差別部落を指す「路地」は一体であり、不可分な関係にあるとしている。私たちが、とある地域とその中に存在するごく小さな共同体について思考する際、それらを分けて考えることが通常であろう。しかし、中上はそうではない。〝熊野の中にある「路地」〟であり〝「路地」の中にある熊野〟という非常に複雑な、いわば〝中上的ロジック〟が両者の間に発生している。
「路地」があった地区は、同和政策によって70年代の終わりから80年初頭にかけて、風景が大きく変貌をする。差別構造を象徴するかのように街を分断していた日和山、臥龍山をはじめとする山塊群がならされ、山影の湿地帯にあった被差別部落の粗末なバラック造りの密集集落は取り壊されて、鉄筋造りの改善住宅へ建て替えられる。風景には、見る人間の感情、すなわち自己投影が込められているものだが、中上は自身を形成した「路地」の風景を残すべく、短篇作品の「藁の家」(1978年)や短篇集『熊野集』(1984年)所収の作品をはじめとする諸作品で工事の過程や、消えゆく「路地」の様子を描いている。また、小説やエッセイという文章での記録の他に、「路地」の住民への聞き取りや、写真や16ミリフィルムに当時の光景を収めるなどしたりしてその記憶をとどめようとする行動も起こす。それらの行動には、単なる私的なノスタルジーや自身の親族が同和事業に携わっていたことへのもどかしさに加えて、一目で差別・被差別が見て分かる山が消えて一律に同じような見た目の改善住宅が建ち並ぶ光景になることで、目で見えていた差別が見えなくなってしまったことへの恐れと抵抗があったのかも知れない。しかし、中上はまだ「路地」解体工事の真っ最中であった79年に、幼かった子供らと妻を伴って一年間の予定でアメリカに移り住むという行動に踏み切っている。
 79年の渡米については、中上の創作活動においてさほど重要視はされてはいない。恐らく、ビザの不備や和歌山県に購入した土地の登記の問題から約半年という短期間で日本に帰国しなければならなくなったこと、そして短期間という時間的な問題からアメリカ滞在中に新しい作品が発表されなかったことがその理由にあるのかも知れない。中上自身、渡米を「苦い記憶」(注3)としている。しかし、渡米とその直前に行われた対談は、「路地」および中上作品の分水嶺を考えるうえで非常に注目すべきものとなっている。
 雑誌「流動」79年10月号に掲載された絓秀実との対談「アメリカへ――破壊への衝動」(注4)で、中上は「路地」を「被差別部落を原基としてぼくの小説の中で構成されたもので、その小説上の路地とは現実と違い様々な物語の錯綜する場所であり、運動の場所であり、交通の場所であるような捉え方をしているわけです」と「初めて」告白し、渡米前であった現在の気持ちを「路地」からの「亡命の衝動みたいなもの」としている。そして、渡米を「亡命」とした理由として、自分が中心となって新宮の部落の住人たちの文化的向上を目指して運営をしていた部落青年文化会の組織が破綻したことに加えて、「路地そのものが、あるいは部落そのものが、行政といわれるものによって、地上から消えることになった」こともあるとしており、「断腸の想いです」と心情を吐露している。なお、「亡命の衝動みたいなもの」の内実については、帰国後に「路地が取り壊されるのを見たくないからアメリカへ行き、不安でしようがないから半年でもどってきた気がするのだった」(注5)と述懐している。
 対談では「路地」が消えることについて、中上は当事者である部落の人たちに関して「被差別部落の住人たちにはどうということはない」としているが、部落の人々は劣悪な住居環境が改善されることから「どうということはない」どころか、事業を歓迎する声が大きかったものと推察される。だが、ひとり中上は「哲学を欠いた解放行政」によって自身の拠り所を失ったことにより、「被差別部落の破壊は親和の破壊であり、マイノリティーという名の同一性の破壊でもあるわけです、つまり、行き場がない。今までもそうだったが、さらにそれに加速させられたような感じなんです」と孤立感に責め立てられる。その結果、アメリカへの「亡命」を実行するのであった。
 以上のような背景があっての渡米だが、言語の面で日本から距離を置くことを「物語を形づくる言語のレヴェルからも、アメリカへ行くと(「差別」から発する物語が―引用者)剝きだしになる。そこがもの凄く面白い」とし、対談の席で以下のように語っている。

(前略)アメリカで暮らして、日常語として絶えずアメリカ語があるけれど、それにひたって、ぼくは英語で言葉を書きたい衝動がある。それは日本に育って日本語で書いてて、そんなものが物語を攻撃なんかできっこないじゃないか、という気持ちがあるからなんですが。もっと危険に晒した方がいいんじゃないか、っていう気なんだ。

「アメリカへ――破壊への衝動」

 残念ながら、「英語で言葉を書」いた作品は日の目を見ることはなかった。この中上の発言に対して対談相手の絓は、「アメリカの中で、自ら少数民族たろうとする衝動、ドゥルーズ=ガタリが、「少数民族が広く使われている言語を用いて創造する文学」を「マイナー文学」と呼んで、カフカ論を書いていますが、中上さんの作品も、これまでもやはりそうであったわけだけれど、今の話を聞きますと、ますますマイナー文学たろうとしておられる」と語るが、絓の発言に対して中上は次のように答えている。


 言葉はぼくにとって差異の対象になる。ぼくにとって自国語はないんだという感じがあります。言葉が全く悉く収奪されてあった。今までの自分の書いている言葉が、自国語ではないんだという、日本語に対するアイデンティティーを見つけられないような部分がぼくの中に半分ほどあります。それがもっと昂じてきたわけです、そういう形でアメリカが今、見えている。

 「アメリカへ――破壊への衝動」

「自国語はない」としている中上だが、習作期からデビュー後しばらくの間の中上の作品の大半は、日本近代文学誕生以降に脈々と受け継がれてきた〈特別な「私」を語る言葉〉で書かれている。それは『枯木灘』において、主人公の秋幸の実父の浜村龍造と、母子家庭だった家の父ともいうべき異父兄の郁男への反抗といった、近代文学のセオリーが描かれていることが示すように、まだ「路地」が〈「父に反抗するという古典的な贅沢」(注6)が許された空間〉として存在していたことを示している。しかし、自身を形作った「路地」が失われたことにより、「父」への反抗という「贅沢」も許されなくなる。それは、「路地」が失われた後に書かれた〈秋幸三部作〉(注7)の最終作『地の果て 至上の時』(1983年)における秋幸と龍造の〈父子の逆転〉や、『十九歳のジェイコブ』(1986年)(注8)での〝父殺し〟が「路地」ではなく東京で行われたことを鑑みれば分かるであろう。つまり、「路地」は〝子〟であり続けられる甘やかな空間ではなくなってしまったのだ。
 半年で終わったアメリカでの暮らしについては、『熊野集』所収の作品などで軽く触れている程度で、大きく語ることはしていない。前出したようにアメリカ行きは「苦い記憶」と賦されているのだが、中上の長女である中上紀によるエッセイ「夢の船旅」(2001年)(注9)によると、昼夜逆転して繁華街で飲み歩くといったような、いわゆる〝文壇的〟生活を送っていた日本にいる時と違って、アメリカでは「家族がいちばん一緒にいた半年間だったかも知れない」とし、ドライブや釣りなどを楽しみながら「異なる環境の中で、私たち一家は寄り添い合い、語り合いながら新しいものを吸収していった」として、父とは反対に楽しく過ごした想い出を記している。しかしながら、当然、中上一家を取り巻く環境は、日本語が易々と通じないものであった。中上紀によると、父は当初は語学学校へ通っていたが、結局は「語学学校の成績とは裏腹に、アメリカや、世界各国の友だちの世界を独自に広げていき、いつの間にか英語を自由に話すようになっていた」という。つまり、語学学校で教えられるお決まりのテキストの読解や会話ではなく、日常の活きた会話を通じて〝生活で使うことのなかった言語〟である英語を習得していったということである。アメリカという異文化の空間での日常の何気ない会話による言語の取得の経験が、帰国後の新しい自分のことばを獲得へと繋がっていた、としてしまうことが非常に短絡であることは重々承知である。しかし、前出した英語で言葉を綴る「衝動」という発言も加えて、この経験が帰国後に何も活かされていないとは考えにくい。
 片や中上は、絓秀実との対談の終盤に「アメリカでは西海岸のサンタモニカに家を借りて、健康になろうと思う」、「そんな日本の文壇風なつきあい(ゴルフやマージャンや売れない作家たちの草野球といったつきあい―引用者)はよそうと思う。もう少し、今までの日本の小説家とは違う生き方、文壇人とは違う形で小説を書いていきたいし、今度の旅でそんな芽を見つけたいとも思うんだ」と語っている。この中上の決意については、その後の新宿ゴールデン街などの盛り場における数々の〝武勇伝〟を知っている者らは苦笑するしかないし、「健康」への決意がどこまでアメリカで実践されたのかを知る術はない。しかし小説については、帰国後に中上オリジナルの「物語を攻撃」する、「マイナー文学」たる「文壇人とは違う形の小説」を発言通りに書くことになる。その作品とは、短篇集『千年の愉楽』(1982年)であった。


3

 路地の中で物覚えの良さはオリュウノオバにかなうものはないと誰彼なしにそう思っていたが、オリュウノオバ自身は自分で物覚えの良い性質だとは思うた事など一度もなかった。人の祥月命日を覚え、人の子の生年月日を覚えたのは夫の礼如さんが、和尚のいなくなった浄泉寺の代りに路地の家に経をあげに行くのを日課にしていて、誰々は月の二日に祥事、誰々は何月何日が命日と、字に書いておけばよいがそれを記憶するのは字の読み書きが出来ないからで、物覚えが良くても悪くてもどうしようもない事だった。(中略)今から考えるともう人に体をいたわられるような年になっていたがその頃はまだ若く、ここに吹く風はあそこで吹いているのだろうか、あそこで自分の手で取り上げた可愛いい子どもらの声が届くのだろうかと考え、死んだ者がすぐそばに呼べば届くほどの距離に居ると知っているのに、そこにはこんなに明るいか、何もかも光に打たれて光に応じるように隈取り濃く眼にありありと立ち現われているのかとたずね、自分が息をしている事、その息のむこうに何人も死んだ者らがいて見てくれているのをはっきりと確かめたいとも思った。全てこの世に在るものが各々の音で鳴り出す甘い楽の音を今のように聴こうと思えば出来るのに、その頃はそれをよう知らず楽の音がどんなものかたずねたいとさえ思ったのだ。

(「六道の辻」『千年の愉楽』)

 以上は、『千年の愉楽』の「六道の辻」の冒頭部分である。句読点を極力省いた文体を用い、作品に登場する「路地」の語り部であるオリュウノオバの柔和で流れるような語りが幻想的な世界観を創り上げている。オリュウノオバとは、『千年の愉楽』から作品世界の最前面に登場する「路地」の唯一の産婆で、秀でた記憶力から発する豊かな口述で「路地」の歴史を語る老婆であり、時間や空間、そして死さえも飛び越えるといった精霊のような存在でもあるのだ。
『千年の愉楽』独自の世界観の誕生には、次のような背景がある。
 中上はアメリカに渡る前、ルポルタージュ『紀州 木の国・根の国物語』(1977年、以下『紀州』)の連載で紀伊半島の差別の実情をつぶさに取材しているが、「古座」の章に書かれた遊郭や同和船などの差別に関する内容と事実に違いがあると古座の住民から指摘され、改めて会合の場を設けて話を聞いたことを「古座川」の章で述べている。住民たちは「差別はない、差別らしきものもない。差別は、解消の方向に向かっている。差別解消の為、努力をしている」と説明し、中上も「あらぬ疑い」を持ってしまって「古座」の章を書いていたことを知る。しかし、中上が持った「疑い」が、行政による「指導の限界、無能力」から発していたことから、「差別事象、差別現象は存在しない。ただ構造的差別は現にある」と気付くのであった。そして「眼を閉じたくない。いや、私の眼こそ、紫の光を放て」と差別の構造に眼を向けることを宣言する。
 同じ頃、中上には一つの〈事件〉ともいえる出会いがあった。それは、オリュウノオバのモデルとなった田畑リュウとの出会いである。彼女はオリュウノオバと同様に、自身が文字の読み書きができない分、人々の祥月命日を憶えて諳んじることで、夫で僧侶の禮吉(オリュウノオバの夫で「毛坊主」の礼如さんのモデル)を支えていた。中上は、リュウが自分の目の前で故人の記憶を諳んじるのを目の当たりにした衝撃を以下のように語っている。

字を知らない人間の記憶して、なおかつ人を見る目みたいなもの/世界的な規模で新しい文学の問い直しとして、そういうものが試みられている/同じ次元に立つものだと思う/それがオリュウノオバの語りの中に入っているのではないか/確かに僕は入っていると思った。(注10)

「開かれた豊かな文学」における中上の発言

  田畑リュウの「語り」を、「世界的な規模で」の「新しい文学の問い直し」であるとしているが、恐らく中上はジュネットに代表されるような西欧的概念の「語り」の「問い直し」は範疇にはなかったに違いない。中上は〈人がモノを語る=物語〉という根本に立ち返り、〈誰が何を語るのか〉ということそのものに興味と関心があったものと思われる。そして、〈誰〉とは、「路地」のオバたちや、ルポルタージュの取材で出会った被差別部落で差別に遭ってきた女性たちであり、〈何を〉は、「人が大声で語らないこと、人が他所者には口を閉ざすこと」(注11)であった。
 柄谷行人との対談(注12)で中上は「親たちとか、家の中、自分の身の周りには、本なんか一冊もなかった。親たちは本がいらないような生活をしていた。しかもお袋なんか文盲だし、周りもみんな教育受けてないと同じみたいなものです。じゃ何があるかと言うと、語りの世界ですよね、文字を読み書きするというよりは。お袋はもともと婆さん子だったから、物語をどっさり知っていて、僕にも話して聞かせてくれる。そういう語りの言葉がいっぱいある」と、母から受けた物語の影響を話している。中上が語ったように、中上の母親や「路地」のオバたちの多くは、貧困ゆえに幼い頃から働いていたことから満足に学校に通うことができなかったため、オリュウノオバと同じく彼女たちは文字の読み書きはほとんどできない。しかし、彼女らはそのハンディキャップを払拭するかのように、〈豊かな物語〉を話すことはできた。〈豊かな物語〉とは、土地に伝わる伝承や親たちから聞いた昔話だけに収まらず、「路地」の解体工事の最中に「昔話を聞かせて欲しい」と家にズカズカと上がり込んでカセットテープを回す中上に自身の記憶や体験といったことを話すといった、オバ自身の〈物語〉も含まれている。オバらの語りは、文字に残すことがなかった、いや、文字に残そうとすることなど誰も考えもしなかった被差別者の、その中でも弱者であった女性たちの記録でもあったのだ。
 そして、前出したアメリカでの経験がそこに加わる。「それが初めての海外移住だったせいもあって表むきは来客や知りあったアメリカ人、日本人とのつきあいがありにぎやかだが、文学的に言うなら魂の凍りつくような孤独におちいる。私には気違いじみた執着、気違いじみた愛着が熊野の路地という場所にあるのに気づき、われながらうんざりする」(注13)、「アメリカにいて私の名を知らないのは当たり前の事だが、私はアメリカでなづけようのないものになっている自分をみる」(注14)としているように、ことばが通じない異国のむき出しにされた空間で、中上は消滅という〈現実〉を見ないようにしていた「路地」と、〈何者でもない自分〉というものに対峙するしかなかったのだ。
 結果として、「路地」は現在の私たちを取り巻いている「システム化された高度な世界」(注15)とは反する、文字を知らない被差別の女性たちの記憶と語りで彩られた「現在の世界像に深くかかわるために必然的に仮構された古代的あるいはアジア的な世界」(注16)という独自の空間として『千年の愉楽』に誕生する。それは、今までの男性作家による知識人の成人男性のことを書いてきた日本の近・現代文学の主流には存在しなかった、「文壇人とは違う形の小説」が誕生したということでもあった。
『千年の愉楽』は「半蔵の鳥」、「六道の辻」、「天狗の松」、「天人五衰」、「ラプラタ綺譚」、「カンナカムイの翼」の計六作品の短篇から成る。各作品を貫くのは、「路地」で生を受けた「中本の一統」と呼ばれる青年たちと、彼らが背負った宿命である。彼らは総じて女たちが放っておけないほどの男振りの良い色白の美青年であるが、早世で非業の死を遂げる。そのような「高貴にして澱んだ血」が流れるという彼らの生と死を見届ける役目を担うのが、オリュウノオバであるのだ。
 オリュウノオバは前述したように、モデルとなった田畑リュウと同じく「路地に起った悉くを知っている」(「六道の辻」)と人に言われるほどの記憶力を持つ「路地」の語り部である。一方で、「確かに世間の親らのようにオリュウノオバには人の物を盗んではいけない、人を殺めてもいけない、殺傷してもいけない、という道徳はあたうる限りない。何をやってもよい、そこにおまえが在るだけでよいといつも思った(後略)」(「六道の辻」)とし、女や麻薬や窃盗といった悪事にうつつを抜かして溺れてゆく一統の青年らの行いを否定せずに、すべてを受け入れて肯う。このオバの肯定の源にあるのは、青年らの短命の宿命を仏が、「この世から中本の一統の若衆の命を取る事で血の澱んだ中本の血につぐないをさせ」(「天人五衰」)ていると捉えていることにあり、彼らを尊い者として見ているからに他ならない。 そして、オバ自身の行いも、従来の倫理の枠からはみ出た存在としてある。自らの手で取り上げた一統の青年である達男と性的に交わるという、背徳的な行為をした時に「女がわが子を抱くように男を抱いて何が悪い。(中略)子に抱く愛のような気持が自然で許されるなら子のように男を愛して何が悪い」(「カンナカムイの翼」)と言い放つ。また、「オリュウノオバは自由だった。見ようと思えば何もかも見えたし耳にしようと思えば天からの自分を迎えにくる御人らの奏でる楽の音さえもそれがはるか彼方、輪廻の波の向うのものだったとしても聴くことは出来た」(「天人五衰」)とされていることからも、オバは「路地」の外の道徳や倫理観を退ける存在として描かれているのだ。
 以上のように、オリュウのオバが「路地」世界の全てを認容する独自な存在としてあるのはなぜなのか。それは、被差別の世界を舞台にするにあたり、従来の問題提示に多く見られるような〝差別者対被差別者〟という二項対立による差別の描写ではなく、文学作品として「路地」から差別を伝える中上の意図があったものと推察される。この中上の意図について、中上と同じように文学作品から差別の構造を告発した、カリブ海のフランス海外県小アンティル諸島、なかでもマルティニク島を中心に実ったクレオール文学との関係を交えて考察を行いたい。なぜならば、両者には被差別の歴史と、そこに関わることば(口承)という共通する要素がみられるからである。
 現在においてクレオールの概念は、音楽、映画、文学、料理など多岐にわたるジャンルでの異文化の混淆、もしくは多様性文化の象徴としてポジティブに捉えられているが、そもそもは〈新大陸(植民地)生まれの白人〉を意味する複雑な歴史を背負っている語であり、クレオールを論じるにあたってカリブ地域における塗炭の苦しみを味わった人々の歴史的背景を無視することはできない。そのため、この歴史的背景がクレオールを単なる文化の混淆とは一線を画す要因にもなっていることを、もう一度確認する必要がある。
 アンティル諸島は、コロンブスによる発見以降、サトウキビのプランテーション経営で経済が成り立っており、元々の島の住人であったカリブ人に加えて、奴隷として連れてこられたアフリカ人、南北アメリカ大陸の様々な民族、加えて十九世紀には労働移民としてインド人や中国人なども島に渡来をするようになる。島に連れて来られた有色人種の奴隷らはやがてさまざまな境遇の下、島内で子供を授かって家族・一族を形成するのであるが、誕生した子供がクレオールの語源である〈新大陸生まれの白人〉となり、後にクレオールである子供が増えることによって人種や文化の混淆が進むプロセスを経る。
『クレオールとは何か』(注17)の日本語翻訳者である西谷修よる「この本を読むために――訳者まえがき」では、「「クレオール」とはだから、ヨーロッパ文明のいわゆる歴史的暴力が作りだした(創造した? ちなみにこの語のもとになっているラテン語には「創造する」という意味がある)、そんな「新世界」につけられた呼び名だということだ」としており、奴隷制度に伴う暴力的な差別がクレオールにあることの肝要さを説く。また、カリブ史研究家であるガブリエル・アンチオープは「領有期間の長短にかかわらず、すべての植民者は、自らの固有の文化を断片的に導入しようと試みて、必ずその足跡を残しました」とし、アンティル諸島をはじめとするカリブのフランス語圏では、植民者それぞれの出自の特徴を包括した独自の文化が生み出されたとしている(注18)。単なるいち労働力に過ぎず、〈人間〉とみなされていなかった黒人の奴隷たちが〈人間〉として島で生き延びるために、自身のルーツとその土地に入ってきたあらゆる文化をミックスさせた結果としてクレオールは発生したと言えよう。
 クレオール文学が世界に広く知られるようになったのは、マルティニック島出身の作家であるパトリック・シャモワゾーとラファエル・コンフィアン、そして言語学者のジャン・ベルナベらによる共著『クレオール礼賛』(1989年)と、シャモワゾーとコンフィアンの共著『クレオールとは何か』(1992年)であった。『クレオール礼賛』の「序言(プロローグ)」の冒頭には「ヨーロッパ人でもなく、アフリカ人でもなく、アジア人でもなく、我々はクレオール人であると宣言する」とするマニフェスト(注19)が掲げられているが、彼らの発した宣言について同書の訳者である恒川邦夫は「西インド諸島を特徴づける多言語・多文化の混交状況を単なる地域の特色としてではなく、グローバル化する地球社会の近未来像として打ち出したところに、彼らの主張の新しさがある」(注20)と、その特徴を述べており、発表当時の冷戦終結後に広がった〈脱中央権力〉を掲げて急速にグローバル化を進める国際情勢と、『クレオール礼賛』のマニフェストがマッチした結果として、世界的ブームとも呼べる受け入れ方がされたのであった。
 クレオールを貫くものとして、〈自分たちは何者なのか?〉というアイデンティティの探求がある。海外県生まれの彼・彼女らの多くは、〝フランス人〟でありながらも本土民ではないという差異を抱える。その差異は地理的な事実に加えて、肌の色の違いという見た目から生じる逃れられない差異でもあり、長い間にわたって敷かれた奴隷制度が自身のルーツであることを物語る。このような差異を抱えるアンティルの人から〈果たして自分は何人なのか? 〉という揺らぎが生まれても当然であろう。そして、現地で使用されるクレオール語と、本土の言語であるフランス語という二つの言語の存在がその揺らぎに加わる。クレオール語は、植民地のことば、本国のことば、外来の移住民のことばがミックスされた混成(ピジン)語として生まれたが、言語学者のロベール・ショダンソンはクレオール語の歴史的背景から発した特殊なあり方を以下のように述べている。

(前略)すでにおわかりだろうが、クレオール語をクレオール語たらしめているのは、それが言語的に特有の構造をもつからではなく、むしろ、社会と言語との関係が決定的であるような特別な歴史を背負ったことばであることによるのである。(注21)

ロベール・ショダンソン『クレオール語』

 一方、フランス語を読めて書けるということは、昔は教育を受けた者のみが使える言語というエリートの証しとしてあった。クレオールの概念の源流である、批判的立場から自身が黒人であることを高らかに宣言した「ネグリチュード」(注22)を提唱したエメ・セゼールや、セゼールの「ネグリチュード」の限界を悟り、肯定から否定へ姿勢を変え『黒い皮膚・白い仮面』を著したフランツ・ファノンといった本土に留学をしたエリートたちは皆、文章は疑うことなくフランス語で書いていた。しかし、フランス語で著することはクレオール語の全面的な否定には繋がらない。確かに、ファノンは『黒い皮膚・白い仮面』においてクレオール語について肯定的ではない。だが、クレオール語は1970年代までローカルな話しことばに過ぎなかったため文字にするという意識がなく、小野正嗣が述べているように「「書く」といえば、「フランス語で書く」こと以外に選択肢はなかった」(注23)のであった。もっとも近年のマルティニク島では、フランス語を母語とする世代も多くなったことから、クレオール語とフランス語の使用率が逆転しているようである。
 作家たちにとっては〈どの言語で文章を綴るのか〉の選択は、自身の立ち位置を示す一大宣言でもある。先述したように、1970年代以降にクレオール語が言語学の対象になり書記法などが整うのと軌を一にして、若い作家たちを中心にしてクレオール語の復権運動が興りその表現の重要性を訴えるようになる。クレオール語へ光を当てることは紛れもなく「「どの言語で書くのか」という問いへの若いカリブ海の書き手たちからの応答」(注24)であった。
 自分たちの歴史をどのようなことばを用いて書くのか。そこから自身のアイデンティティをいかに作品に表出させるのか。共に差別の歴史を有するカリブ海の諸島を故郷とするクレオールと、日本の熊野の「路地」には地理的距離の大きな隔たりがあるものの、課せられた課題への回答はその遠さを感じさせない。
 次にお互いの関係をより考察するのだが、その前にクレオール文学と中上についての一つのエピソードがあるので記しておく。
 大江健三郎は、かつて中上にシャモワゾーの小説でゴンクール賞を受賞した『テキサコ』を勧めたことを、シャモワゾー自身との対談(2012年)(注25)の席で明らかにしている。『テキサコ』は、マリー=ソフィー・ラボリューという老婆が一族の歴史を語るという形で展開されるのだが、大江はこの老婆マリーが中上の「路地」の歴史を語るオリュウノオバと非常に似通っているうえに、語りで作品が進む展開も相通ずるものがあることに気付き、〈中上がここ最近の作品の執筆に煮詰まっているのでは〉と案じていたことから、中上に「シャモワゾーという作家が書いた小説で、あなたのオリュウノオバを思わせる人物の語りで、小説の鑑と言えるくらいうまくいっているものがある」と教え、中上も大江のことばに興味を示して「読んでみよう」と返答したという。だが、当時はまだ『テキサコ』の日本語翻訳版が出版されていなかったため中上は読むのを断った、というエピソードであった。
 しかし、この時期の中上に残された時間は、大江へ放った「翻訳じゃないのか、そんな暇はない」のことばそのままであった。大江はシャモワゾーとの対談の席で、中上との対話から2年後に中上が亡くなったことを知ったと話しているが、中上は『テキサコ』がフランスのガリマール社から出版された92年の夏に鬼籍に入っている。
 結局、クレオール文学と中上の邂逅はなされなかったが、クレオールがマルティニク島から海を飛び越えて、日本のいち作家である中上がそれとは意図せずにクレオール文学的な作品を発表していたことは、当時の世界情勢を含めて非常に興味深いものがある。
 その文学の動きは、文学史家のフランコ・モレッティが「世界文学への試論」(2000年)で示した「波」(注26)のような現象だと考えられる。モレッティは、文化圏を超えて波及した同時多発的な文学の潮流を「波」と喩え、特定不可能の場所において発生した文学の類型は、やがて世界中に「波」のように伝播するとしている。
 モレッティのいう文学の「波」の一つであるクレオール文学が、被植民地という中央の正史から距離を置かれたカリブ海の島から、遥か東の果てにある中上が『紀州』の「序章」で「まさに神武以来の敗れ続けてきた闇に沈んだ国」として位置付ける「隠国」と称した熊野に届いたことは、関心を寄せるべき文学潮流なのかも知れない。
(以降、Ⅱに続く)


注記

  1. 「私は〈日本〉人なのか」の出典は、柄谷行人、絓秀実編『中上健次発言集成6』(第三文明社、1999年)。

  2. 初出時のタイトルは「交流・交感 中世ヨーロッパ⇄熊野」(「日本読書新聞」1984年11月9日号)、出典は柄谷行人、絓秀実編『中上健次発言集成2』(第三文明社、1995年)。

  3. 『中上健次全発言Ⅱ 1978―1980』(集英社、1980年)内「後記」より。

  4. 出典は同注3の書籍より。

  5. 中上健次「蝶鳥」(1980年、『熊野集』所収)より。

  6. 江藤淳「日本と私――定住のはじまり」(1967年)より。出典は福田和也編『江藤淳コレクション2 エセー』(ちくま学芸文庫、2001年)。

  7. 〈秋幸三部作〉とは、中上自身を強く想起させる竹原秋幸が主人公の「岬」(1975年)、『枯木灘』、『地の果て 至上の時』の3作品を指す。

  8. 『十九歳のジェイコブ』は「野生時代」にて原題「焼けた眼、熱い喉」として1978年7月~79年10月号、80年2月号に連載。

  9. 出典は『夢の船旅――父中上健次と熊野』(河出書房新社、2004年)。

  10. 部落青年文化会連続講座第2回(1978年3月23日)「開かれた豊かな文学」における中上の発言。NHKのEテレ「ETV特集」で放送された「路地の声、父の声~中上健次を探して~」(2016年11月26日放送)における部落青年文化会席上での中上の発言を論者が文字に起こした。

  11. 中上健次『紀州』の「序章」より。

  12. 中上健次、柄谷行人対談「路地の消失と流亡」(「國文學 解釈と教材の研究」1991年12月号)。

  13. 中上健次「桜川」(1980年、『熊野集』所収)。

  14. 同注13。

  15. 吉本隆明「世界論」(『マス・イメージ論』福武書店、1984年)。

  16. 同注14。

  17. 『クレオールとは何か』の出典は、平凡社ライブラリー版(2004年)より。

  18. 網野善彦、G.アンチオープ、海老坂武「島・身体・歴史」(「現代思潮」1997年1月号)。

  19. 『クレオール礼賛』(恒川邦夫訳、平凡社、1997年)。

  20. 恒川邦夫「カリブ海の島々から――クレオールの挑戦」(小森陽一ほか編集『岩波講座 文学13 ネイションを超えて』岩波書店、2003年)。

  21. ロベール・ショダンソン『クレオール語』(糟谷啓介、田中克彦訳、白水社文庫クセジュ、2000年)内「結び」より。

  22. 「ネグリチュード」は、マルティニク島出身の政治家で詩人のエメ・セゼールが発表した「帰郷ノート」(1939年※原典のエディションは複数存在)において、自身がアフリカ系の黒人であることを高らかに宣言し、アフリカ系黒人の文化的価値を称揚した運動のことである。クレオール概念の先駆けとなったが、アフリカ大陸系の黒人に照準が当てられていることから、より複雑にクレオール化するアンティルでは限界を向かえる。しかし、セゼールの与えた影響は大きく、恒川邦夫『《クレオール》な詩人たちⅠ』(思潮社、2012年)内「第Ⅱ章 エメ・セゼール」では、島で行われた詩の愛好者たちが集まる大会において、参加者たちが「帰郷ノート」を次々に朗誦するのを聞き「さながら、ミサで賛美歌が歌われているようであった」と記して章内で「帰郷ノート」を「聖書(バイブル)」と記している。

  23. 小野正嗣『NHK 100分de名著 フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』2021年2月』(NHK出版、2021年)。

  24. 中村隆之『フランス語圏カリブ海文学小史 ネグリチュードからクレオール性まで』(風響社、2011年)。

  25. 大江健三郎、パトリック・シャモワゾー対談「文学の力――クレオール的未来のために」(司会:堀江敏幸、2012年11月12日、於:紀伊國屋サザンシアター)、出典は「群像」2013年2月号より。

  26. 補足になるが、沼野充義はモレッティの述べる小説における「波」について、「彼(モレッティ―引用者)は国民文学の系譜を「木」に、文化圏を越えて波及していくダイナミックな影響の運動を「波」に譬え、(中略)たとえば、ヨーロッパ近代の産物である「小説」がラテンアメリカやアジア、アフリカに波及していくのは「波」であり、モレッティはその観点から壮大な共同研究プロジェクトを進めている」としている(「世界〈文学〉とは何か?」「思想」2019年11号)。