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「モールの想像力」展(@高島屋資料館TOKYO)感想文

大学の図書館の本を片っ端からパラパラめくっていた中に、2005年に出版された東京という都市の表象を論じた本(書名忘れました)があった。
その中で、千葉県船橋市にある日本初の米国型(車で来る客がメインとした大駐車場がある)ショッピングモール「ららぽーとTOKYO-BAY」について、
「おしゃれ過ぎずでもカジュアル過ぎない人たちが集う場所」(大意)
と微妙にdisる表現がされていて、何となく納得するとともに約20年の時間の経過を感じずにはいられなかった。
今や、郊外型ショッピングモールの方がいわゆる「大衆」の〈リアルな消費の場〉としてあるので、当時はモールがここまで台頭することは予想されなかったためにdisられてるように思えてしまった。
その足で日本橋高島屋内にある「高島屋資料館TOKYO」で開催されている「モールの想像力――ショッピングモールはユートピアだ」を見に行く。

https://www.takashimaya.co.jp/shiryokan/tokyo/exhibition/#next

展示はショッピングモール表象の歴史と意味について、3万字にもおよぶ膨大なテキストと映画、マンガ、小説……といった具体的な作品を例にあげて解説が展示されている。
これが無料で見れるとは嬉しい驚きだけれども、そのはず。
一回見ただけでは全てを把握しきれない。
そのため数回は行かなくてはならない、という巧い造りになってる。
(ついでに高島屋や日本橋のお店で買い物をすればなお良し、という感じ)
会場で頂戴した展示の説明資料では次のように書かれている。

これまでの文化批評の文脈では、モールは社会を均質化し、古くからの風景を脱色させてしまう存在として批判の対象とされてきたことが多いように思います。しかし、私たちは、今日においてモールはむしろカルチャーを育む土壌であり、文化的象徴でさえあるという別の側面に着目したいと考えています。

高島屋史料館TOKYO 館長 飯田新吉氏の言葉

やはり、ショッピングモールは時を経て、その意味を変えてきていた。週末のショッピングモールは老若男女問わず集まる場となり、当然、新しい文化として受け入れられる存在となったのだった。

その展示中で、ジョージ・A・ロメロの「ゾンビ」について言及(最重要ショッピングモール映画)されていたけれども、自分にとって映画のショッピングモールといえば「ブルース・ブラザース」である。
交通違反で幾度も切符を切られたブルース・ブラザーズの弟エルウッド(ダン・エンクロイド)が、逮捕されるまいと払い下げのおんぼろパトカーで逃げて、追いかける警官とカーチェイスを繰り広げるのが郊外の巨大ショッピングモールなのだ。
同乗する兄のジェイク(ジョン・ベルーシ)の「ここにはなんでもあるぞ」のセリフ(←エルウッドのセリフかも)をあざ笑うように、二人の乗った車は次々とモールの店舗に突っ込んでディスプレイや商品をなぎ倒して行く。
そして追いかける警官のパトカーも、同様に店舗を破壊しまくる。
結局ブルース・ブラザーズは逃げ切るのだが、この警官から「逃げ切った」ことがシカゴの街を舞台にしたラストの大カーチェイス(時代的にCGなしの一発勝負!)に繋がってくる。
ということなのだけれども、
エルウッドとジェイクがなぜショッピングモールに逃げたのか?
そしてそれを車で破壊しまくることの意味とは?
と考えた時、この展示から一つの答えを得た。
それは、恐らく、
「均質化する日常をぶっ壊すための表現」
だったのだのでは、ということだ。
映画の公開は1980年。
日本はまだ70年代の貧しさが残っていたものの、ようやく〈金持ちの国〉への階段を上り始めようとする時。
私はアメリカ文化史には疎いので、この辺を突くと何か出てくるのかも知れない。
そもそもこの映画、コメディー・ミュージカルなんで歌やダンスが素晴らしいんだけど、人種差別や文化批判がてんこ盛り!
第一、黒人の音楽であるブルースを白人の二人(ジェイク&エルウッド)がやる、という「ズレ」が根本にある。
そこに、白人音楽のカントリーが敵対する
そこだけ取っても、色々なことが思考できそうだ。

さて、船橋のららぽーとについて書いたけど、私は船橋出身なのでららぽーとには色々思い出があるし、今も船橋在住なので行きます。
開業当時は9歳(!)
オープニングには「聖子ちゃんが来る!」ということで姉が父と一緒に見に行った(当時、江戸川を越えて船橋に一流芸能人が来るなど夢のまた夢であったのだ)けど、あまりの人の多さに主催者側が「危険」と判断してイベントが中止になったという騒動もありました。
前身の「船橋ヘルスセンター」は当時人気絶頂だった「8時だよ!全員集合」の公開収録の場で、姉が応募ハガキを出したんで100%見に行けるもんだと思っていたことも懐かしい思い出、なことを最後に書いておきます。
(これもモールの想像力の一端なのかも)