小説をめぐるグルグル

論文を書くにあたって、昔の文芸誌をめくることが多々ある。私の場合、60年代末から現在までが書き物の射程範囲なので、近現代文学研究からすると昔といっても〝ごく最近〟のことだったりします(ゆえに旧漢字&かな遣いは苦手だったりする)

今、90年代後半にデビューをした某作家の論文に着手していることから、そのあたりの文芸誌をパラパラめくってると「文学離れが加速!これでいいのか、今の文学?」的な内容がしばしば出てくる。

……なんだ、この既視感。これって、30年近く経った今でも言われてることで、文芸誌で鼎談や座談会で話されたりする。と思うと、なーーーんも変わっておらず、ずーーーと文学関係者は危機感をグルグルと持ち続けている、ということになる。これって、ノーベル賞を受賞した学者先生が会見で「一見結果が出ないような地味な基礎研究大事!」と口が酸っぱくなるほど言ってるのに、文科省が「早く実績出せ!(金は出さないが)」という圧をかけてくるのと似てるような気がする。いや、似てないかもしれないが、〝何も変わらない(変えられない)〟という点は似ている。でも、それって「何とかしないと!」としておきながら、実は「何もしてない」結果なのでは?と思う。

作家の桐野夏生とライターの武田砂鉄の対談「桐野夏生×武田砂鉄 「日没」を迎えて」(https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/4031)

で、桐野夏生が小説と政治的批判に代表される「社会性」が距離を持ってしまったため、政治によってぐにゃぐにゃになった日本の「幹」を文学では再生できないとしている。そのうえで、「十五年ぐらい前から、小説が人に及ぼす影響力が著しく低下したと感じています。」「小説の中にある批判精神なんて誰も関心がない。小説の受け取り方自体が変質してしまって、「田中さん」的(『日没』の登場人物ー引用者)に、ただ楽しめればいいものになっていると思うこともあります。だから、エンタメという語が堂々と大手を振って歩いているのでしょう。」と言ってる。これには、対談の冒頭で話している純文学とエンタメの対立構造が根っこにあるのだろう。私はこの対立構造「アホくさ」と思うんだけれど、大学院に入ってくる新入生にはこだわる人があとを絶たないので、根深さを感じずにはいられない。そして、同じく冒頭で〈〝社会派作家〟という言葉の不思議〉について武田砂鉄が「作家というのは常に社会派だろう」と言及しているけど、その通りだと思う。ちなみに、私は〝メッセージソング〟という言葉は〝社会派作家〟と同様に「全ての歌はメッセージだろが(怒)」と思っている。

小説から社会性を排除し、半径10メートルくらいで済ませるというと、大昔に隆盛した私小説へ回帰しているように感じるのは私だけでしょうか??何だか、ずーーっっとグルグルしているな文学は。