ここにいるよ

「発達障害」という言葉の「障害」の部分だけを見て、何か過大なショックを受ける人がいる。
発達障害を学ぶゼミの終わりに、同じ参加者さんから言われたことがある。
「障害って言葉、キツくないですか?」

でも言葉にはいつも、意味以上の意味は無い。
診断基準は「困り」だ。
本人が困っているかどうかがまずはいちばんの診断基準で、困りながらも名前のせいで放置するなら、そこにもなにか困りはあるんだろうと思う。

なんで勉強できないんだろうね、とよく言われた。「成績悪いけど、ノートは取れないけど、私は勉強が嫌いなんじゃない」と思っていた。現に勉強は楽しく、学びは今に至るまで続いている。

これまでは教師が「なぜやらない」を教育されず、考えつかず、知識を求めることもせず、パニックを起こして子どもにきれても許された時代に育てられた。
その立派な背中で、教師たちが障害への分断を見せてきた。人は育てられたように育つ。自分や他人の困りを認めてやらない姿勢は、そういう育ちの可能性としては大いにあると思っている。

現代は知識も広まり、ネットは常に手の内にある。
「ちゃんと困る」だけで、繋がりのとっかかりになりやすくなる。
宿題をできない、日々の生活のことができない、「できない」を「困り」と繋げられるかどうかが、二次障害含めその後の人生に大きく関わるというのも広く知られた。

子どもの場合には、かんしゃくがそのサインという。
「ウチの子も、なんか(障害)あるのかな」
返答を選びたい時、関係性が役に立ってくれる。

困りを誰かが気づいてくれるか、自分で気づいてあげられるか、「なんかあんのかな」と気づいたときはどう声を掛けるべきか、掛けないべきか、それまでの関係性があれば選択肢が少し増える。

幸いにも「困り」には先人がいて、研究者もいて、解決方法もいくらかある。
繋げ方を知ってる人として、何気なくそこにいて繋がり続けることが意味を持つんだと信じたい。

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