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実力至上主義の世界

有名なハーバード大の教授であるマイケル・サンデル氏の数ヶ月前に出版された本「実力も運のうち 能力主義は正義か?」。興味はあったが購入するには至らず、最近映画解説でよく観ていた岡田先生のyoutube動画解説でものすごく衝撃を受けたのでちょっと共有したい。

岡田先生は解説がめちゃくちゃ分かりやすくて好きなのだが、この動画の中で自分が気になったポイントをいくつか。

実力至上主義の世界では、逆に階級や人種、男女差別以上の差別が生まれる

日本では若干そういった能力至上主義に対する不安感がまだ若干強いと思うが、アメリカでは既に実力主義が大分進んでおり、そのせいもあって社会保障などの制度が進んでいない。というのは、アメリカでは例えば誰か経済的に恵まれないような人たちがいても、それは環境や生まれのせいではなく、彼らの努力が足りないと思われているからだという意見だそうだ。(70%近くの人が実力主義を支持しているらしい)ところがヨーロッパにはイギリス含めまだ階級社会が根強く、弱者へはある程度環境によるそうした弱い立場の人たちを守る制度が存在している。

日本はどちらかというと、そういった階級制度などが根強い社会からまさにアメリカのような実力主義の影響を受けて来ているというところだが、生活保護や障害者への目が最近厳しくなっているのもそういった風潮ではないだろうか。

だが、実力主義の世界では生まれた環境や遺伝子的な生まれ持った能力というものを否定するため、そういった能力がない人たちはどんどん淘汰され、そして今までは人種や性別、階級という自分では変えられない物によるものだ、という隠れ蓑があったものが取り剥がされ、実力も実はそういった変えられないものによるものなのに、それが個人の努力不足として片付けられてしまう恐ろしい世界になる、ということだ。(これがSF小説的な主題として、昔のイギリスの労働党トップであったマイケルヤングが「メリトクラシーの法則」という本でも描いている)

とある実験で、人間の努力ができる(王貞治的な、ストイックなほどの努力ができる)かどうかという能力は全ての人間が持つわけでも、育ちや環境に左右されるわけでもなく、生まれ持った遺伝子的な能力で決まるということがわかっている。また、普通に考えれば分かることだが例えば学校教育でいくら出来の悪い子に親切に熱心に教えても、体育の授業を平等に強化したとしても、前者が東大に行けるかどうか、後者が全員トップアスリートになれるのかどうかは本人の努力以前に生まれ持った遺伝子で決まってしまう。つまり運である。こうした実力主義社会では、学歴や資格、経歴がモノをいうのだが、これらはどんなに平等に国民にその機会を与えたところで全員の結果は同じにならないという時点で、格差、差別が生まれてしまう。トランプ大統領はそういった時代で低所得者層が実力主義的なエリート層に反感を持った結果生まれた大統領だったと言えるだろう。

最近FIREという言葉が流行っている。30代までにめちゃくちゃに儲けて、労働から解放されて好きなことをする、というアイディアだ。私の周りにもFIREを目指して外資に転職した後輩がいたが、個人的にFIREは一般人には現実的ではないと思いながら、なぜ皆がこれを目指すのか?というと、世の中の大半の仕事はいわゆるMac Job(誰にでも出来るような仕事)なのにその少ないパイを奪い合い、そしてこうした仕事を互いに見下し合うため、結果経済的にも貧しい若い世代が増え、こうした夢のようなアイディアに皆取りつかれるのだという。

まあこの辺はちょっと議論が違ってくるので、ちきりんさんのブログを貼って終わりにしたい。

みんなが平等、は幸せか?

ここで、ハンディキャップ主義というのが紹介された。

例えば容姿の良い女性は、とてもだらしなくてかっこ悪い服しか着てはいけない、身体的にとても優れている男性は、毎日20kgの重りをつけて過ごさなければならない、など全ての人に対して例えば優れている何かがあればそれを表に出したり、優遇しないようなハンディキャップを設けることで、全員を平等な状態に置くとする。こうしたら理論上は全員が平等にはなるが、みんなが幸せかというと、絶対そんなことにはならないだろう。

このハンディキャップ主義は割と極論だが、そうするとどんなに頑張っても実力主義のような新たな差別は生むことができても、差別解決は難しいことが分かる。

サンデル教授は本の中で、結局のところ階級差別のようなものは肯定していて、だが階級や男女や人種といったところで分断させるのではなく、それらを包括したコミュニティで彼らを交流させ、議論させることでしかそれは解決できない、と言っているらしい。

昔ジェーンオースティンのエマという、割と今になっても何度もドラマ、映画、オマージュ(有名なのはCluelessとか)が作られるオースティンの人気作品がある。主人公はかなり身の程知らず、世間知らずな貴族の娘なのだが、自分の家庭教師の女性の恋愛キューピッドに成功したことで、色んな人をくっつけたりすることに楽しみを見出すが、ある日家族ぐるみで付き合いのある少々経済的に苦しいミス・ベイツのことを手酷く傷つけてしまうことで、自分の貴族としての振る舞い方を学び、そしてレディとして成長したところで賢い叔父と結婚する、というまあかなり単調なストーリーである。この物語で私が割と衝撃を受けたのが、この貴族は貴族としての立居振舞や、貴族としての義務がありそれを守るべきである、という主義の話だったことだ。主人公は貴族、つまり大地主の娘だが母親を早くに亡くしているため、貴族としての義務というか、そう言った世間的な知識は誰からも教わらずに育ってしまう。家族ぐるみで付き合っている地元牧師の未亡人であるミスベイツのことをエマはあまり良く思っていないのだが、ある日ピクニックにいった席で思わず日頃からちょっと見下していた気持ちが出てしまい、彼女をかなり傷つけてしまい、後に結婚する親戚で親のような存在のナイトリー氏にたしなめられる。当時の貴族はただ金持ちで踏ん反り返って農民や一般市民をバカにするのではなく、彼らのことは自分の土地に住む守るべき者としての立場を明確に、そしてその義務を果たすべきであるという観念で描かれていた。(実際そうだったのかどうかは知らないが。少なくともジェーンオースティンも牧師の娘であって貴族ではないし)

そういう意味では今ある大きい政府の恩恵として、弱者や運が悪かった人たち、そしてセーフティネットとしての生活保護や支援制度はあって然るべき者であると感じる。ただ、それを差別として下に見るのではなく、あるべきものとして受け入れたり、全員がある程度同じような結果を得られるような機会はあって然るべきだと感じた。(と言いつつ、これを強制するとただの軍隊のようになりそうだが)


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