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春にして君を離れ

勇気とは不思議なものだ。恐ろしい怪物やら、今すぐに何かを選択しないと死ぬようなスリリングな瞬間にこそだけ必要とされる感情ではなく、現実と向き合ってそれを受け入れることも勇気なのである。

あらすじは以下の通り。

1930s?イギリスの田舎町で弁護士事務所を構える夫と仲睦まじく中年ライフを送る主人公のジョーン・スカダモアはバグダッドに暮らす末娘のバーバラが病に倒れたと聞き、急いでバグダッドに駆けつけたが、バーバラも回復して一ヶ月程度でイギリスへの帰路へ着く。その途中、密かに憧れていた学生時代の旧友ブランシュにバッタリと遭うが、その落ちぶれ具合に動揺し、逆に自分がああならなくて良かったとホッとする。だが、ブランシュには色々とジョーンの人生の色々について怪しげなことを言われ、モヤモヤとした気持ちになる。
途中、大雨のせいで汽車がなかなか予定通りにやってこず、一週間も何もない砂漠の簡易宿泊所で待ちぼうけを食らったジョーンは、ブランシュから言われたことをキッカケに自分の人生で見て見ぬふりをしてきた色々なことについて想いにふける。そして、特に夫に対しての後悔の念で一杯になり、帰宅したらすぐにこれまでのことを謝罪しようと心に決めたジョーンだったが、いざ夫に再会すると謝罪するのを止めてこれまで通りに振る舞うことに決めたのだった。

物語自体はかなり地味で、特にアガサ・クリスティの有名なミステリ小説のような殺人事件も推理劇も起きない。この小説もアガサ・クリスティのペンネームであるメアリ・ウェストマコット名義で書かれている。だが、アガサ・クリスティが得意とする人間の観察力を持って、次々と主人公ジョーンの周りで起きる出来事などが描写される。この小説も1944年に出版されたそうだが、物語の最後にはヒトラーなどの名前が登場し、読んでいるこちらはドキッとさせられる。そう、まさに第二次世界大戦が始まろうとしている不穏な情勢であるということが知らされるのである。ただ、小説の中のジョーンは、度々クリスティによっても指摘されるがイギリスの片田舎に住む井戸の蛙状態のため、その事実を直視しようともしないという対比が見て取れる。

この物語には、色々な女性が登場する。
学生時代の旧友ジョーンや、女学院の校長、ご近所レスリー、それからジョーンの娘たち。語り手であるジョーンはかなり自己満足的な信頼できない語り手であるのだが、こうした小説内に登場する彼女の周りの女性どの対比といった形でジョーンが一体どんな人物だったのかが浮かび上がってくる。

まず、学校卒業後に育ったイギリスの田舎町を離れることもなく、保守的な妻としての人生を終えようとしているジョーンとの比較として、女学校時代密に憧れていたブランシュがこの物語(ジョーンの自省)の幕切として登用する。
学生時代に皆のあこがれの的だった美人のブランシュ。彼女は学校を卒業すると、転落の一途を辿った。男好きで自由奔放すぎる性格のせいで、子供がいるのに他の男と駆け落ちしたり、それも金のない男ばかりであった。これも堅物で学校卒業後に地元を離れたこともなく、浮気もせず伝統的な母親として生きてきたジョーンとの対比的だ。

そして、夫の一時の浮気相手として登場するマーナ。だが、このマーナという人物は大して重要ではなく、後に出てくるご近所のレスリーと夫の関係性から目を背けるための隠れ蓑として登場する。

この物語の中で、ジョーンの性質というものは、ジョーンが通っていた女学校の女校長からの卒業の言葉自己中で短絡的で表層的な性格をはっきりと指摘している。

「手っ取り早いから、苦痛を回避できるからと言って、物事に皮相的な判断を加えるのは間違っています。人生は真剣に生きるためにあるので、いい加減なごまかしでお茶を濁してはいけないのです。」

このジョーンの見てくれや体裁にこだわり、内面を見ようとしないという性格は彼女の外見にも現れている。彼女の周りの人間が社会や仕事の辛さや困難に直面するたびにシワや白髪が増えていくのにつれて、彼女の見た目は40半ばでも30代のような見た目を保っている。ブランシュに会った際も年相応の見た目をしていないジョーンにブランシュが冷蔵庫にでも入っていたの?と茶化す。文字通り冷蔵庫にいたなんてことはないにしても、ジョーンは自分の周りの人物に比べて人生の苦難や責任に向き合わず、せいぜい2,30代の人生しか歩んできていないのだ。

ジョーンは一見いつも家族の危機や人生の岐路で最も現実的で保守的な意見を出して家族をそれに押し込めようとし、それを家族のためだといって自分が成し遂げたことを誇りに思っているのだが、結局はジョーン自身の体裁を守る為だったり、家族のことを真剣に考えて言っている訳ではなかったことが分かる。
そして夫との結婚生活も、途中マーナという若い女性がロドニーを好いていたことがあったというぐらいで特に問題なかったようにも思えるのだが、突然バグダッドへ向かったジョーンを汽車まで見送るもサッサと帰ろうとした夫の背中が、これまでになく生き生きしていたことや、既に死んだジョーンの両親は特に仲睦まじくもなさそうだったのに互いに愛し合っていたことを思い出し、特にメロドラマのようなことはなくとも、そのような情熱的な愛ではなかったのだと悟る。
最後に衝撃的な事実として、実は夫は近所のみすぼらしい銀行家の妻であるレスリーと愛し合っていたことに気が付いていたのにそれをずっと見ないようにしていたということが判明する。レスリーはジョーンとは全く正反対の周りを常に思いやり、辛く大変な現実もしっかりと見据えた家族思いでタフな女性だったのだが、ジョーンは最初から最後までレスリーのことを認めようとはしない。銀行家の夫が横領で逮捕された際も、一家の大黒柱として進んで働き、その夫が戻れば迎え入れてやり、だが夫が逮捕されて生活が苦しくなっても二人の息子を手放そうとしなかった。現実逃避して家族のことすらよく分かっていないジョーンとは正反対である。
レスリーが癌で亡くなったとき、ロドニーはショックで精神が参ってしまい、しばらく療養することになるのだが、役立たずの母親に代わって家族のよき理解者であったロドニーがいなくなると一気に潮の流れが変わってしまう。
「ぼく、ときどきお母さんって、誰のこともぜんぜんわかっちゃいないっ気がするんだ」
と末の息子のトニーにも言われてしまう。

「お父さまはあなたたちのために犠牲になって下さったのよーーそれが親の義務というものですーーどこの親もね、当たり前のことのように、そうした苦労をしているのよ」
「じゃあ、この機会にお礼を申し上げておきますわ、お母さま」とエイヴリルがいった。「お母さま自身の払ってくださった犠牲に対して」

このジョーンの長女であるエイヴリルはいつも皮肉たっぷりに母親に反抗しているのだが、当のジョーンはこの度で振り返るまでその長女の態度は無感情的で冷たい娘なのだと思うことで誤魔化してきた。

そして末娘のバーバラも、窮屈なジョーンのいる家庭から離れるべく初めて求婚してきた男と結婚してイラクへ行くことに決めてしまう。夫のロドニーはそれに気づいて婚期を遅らようにアドバイスしたのも聞き入れずに結婚してしまう。結果として今回の旅の始まりとなったのは、どうも愛のない結婚をしてしまったバーバラはイラクに駐在していた新妻に好んで手を出す少佐との浮気に走ってしまい、その少佐がほかの女に心変わりしたことが分かると自殺未遂をしてしまったからだった。ロドニーが心配していたようなことが起こってしまったのである。

そして夫のロドニー。ロドニーとジョーンは恋愛結婚だったものの、結婚早々に自身の夢であった農家になるという夢をジョーンに反対されてあきらめた為、男としての威厳を失ってしまったことが分かる。だが、それも表向きは家族として自転車操業なんかの生活を送るのは厳しいということを言っているが、実のところジョーンが農場が嫌いだったからなのであった。

「ぼくははっきりいっておく、エイヴラル、自分の望む仕事につけない男ーー自分の天職につけない男は、男であって男でないと。」

「なぜお父さまはーー」
「ぼくのいうことが正しいということがなぜ分かるというのか?ぼくがそう信ずるからだよ。自分の経験として知っているからだよ。」

ロドニーは何かあるたびに、ジョーンのことをpoor little Joanと呼ぶ。これは一人ぼっちのジョーンという寓話だかがあるらしく、そこから取っているようだ。独りよがりで物事の本質を見ずに、体面ばかり気にして人の気持ちも考えないジョーンのことを誰も助けようとは思っていないことにロドニーは気がついているが、妻がそれに一生気が付かなければそれも幸せなのだろうと思っているのだ。

このバグダッドへの道筋に起きた自己内省の旅はまるで、カズオ・イシグロの日の名残りのようだった。こちらは老いた老執事が自分のかつての同僚で密かに思いを寄せていたメイド長に会いに行き、再度屋敷で働かないかと誘いに行く旅なのだが、その道すがらに主人公が自分の人生に起きたことを振り返るという物語だ。こちらの方は逆に第二次世界大戦後の大英帝国としての威厳が失われたあとのイギリスが舞台であり、主人公は終始自分の過去の過ちなどを思い起こすものの、特段それについて後悔することも真に顧みることもなく終わってしまうのだが。

そしてこの日の名残りでも似たようなラストだったのだが、ジョーンはこの旅で自分が家族にしてきた仕打ちを猛省し、帰ったら夫に謝ろうと心を決めるのだが、最終的には謝罪するのは止めて今まで通りの生活を送ることにする。結局ジョーンには現実に向き合う勇気がなかったのだ。第二次世界大戦が勃発しそうな世界情勢が、またこのジョーンのこの先のあまり明るくはないであろう人生を示唆しているようでもある。

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