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就活で使う

先に断っておくが、私はこの文章の中で新卒一括採用という制度のことを批判するつもりは毛頭ない。むしろ(自分が今後それに乗るかどうかは別として)素晴らしいシステムだと思っている。何のスキルもないただの22歳かそこらの学生をポテンシャル採用という名目のもとに雇用し、それどころか研修コストをかけて社会人という身分を与えてくれる。本当に優しいシステムだと思う。当然さまざまな問題を孕んでいることは百も承知であるし個人的に思うこともないわけではないが、私のようなチェーンの飲食店に1時間を1300円で売ることしかお金を稼ぐ手段を知らないような学生にはこれを批判する資格はないし、むしろ乗らない手はない。

私は自分が金銭的に不自由せずに暮らしてきたこととか、やりたいことをやらせてくれるタイプの親だとかかなり恵まれていると思う。就活しようと思ったときに条件のいい今の環境は決して自分の力ではないし、仮に努力してたとしてそんなものはお膳立てされてきた舞台の上での茶番だから何を言ったってポジショントークの性質は免れない。本当の意味で努力とか苦労してきた人間からすると私の経験だとか人間性は全部浅いが、その上で、私は大学に入っていろいろなことを経験してきた。大学の部活動、交換留学、アルバイト経験、学問もそんなに真剣にやってきたつもりはないのだが、こっちに来て意外と自分が今まで学んできたことには座標があると分かった。これらは就活でもアピールポイントになるそうだ。「就活で使える」経験を自覚するたびになんとも言えない気分になる。わたしのモチベーションを勝手に就活という文脈に位置づけて頂いている。

他人の行動規範を「就活」という資本主義の中に組み込むのは結構暴力的だと思う。なんか奴隷市場見てるような気分になった。この比喩は労働を奴隷に準えているわけではなく、その存在とか事実の裏にある意志とか感情とかを留保して、その存在という表面にだけに値段をつけて「取引」する感じ。マッチングアプリやったときに人間を条件で検索できることがメルカリっぽいなと思ったのを思い出した。

これは学生一人一人の内面に構っていられない企業が、それでもビジネス経験のない学生の「ポテンシャル」だとか「人格」を見出そうとしてくれている優しさだということは分かっているし、むしろ半ば当たり屋に近いことは重々承知の上でそれでも私の行動が就活で使えるという尺度で評価されているのを見るとなんとなく不快になる。
私だって就活のことを考えたことがないわけではないのだから自分の経験の戦闘力が高いことは知っている。落語研究部の寄席で集客を増やそうと広告の打ち方を変えたエピソードでガクチカを書いたりもしたし、我ながら「やるやん」と思ったりもした。けれども、就活で使おうと思って落語会を主催したわけではないし、その行動自体を行っているときに「これ就活でつかえるなあ」などとは思ったりはしていない。ただ2年間所属した部活動の集大成だから頑張りたいと思ったのだ。就活に使えることはあとあと気づいたのである。


「未来のため」と「就活のため」ということをここで明確に区別したいと思う。未来のために必要なことを逆算して取り組むのは素晴らしいことだと思う。海外で働きたいから留学に行って海外経験を積むとか、ビジネスで成功したいから起業をするだとか。夢という大それたことではなくても、未来のことは常に考え続けなくてはならない。停滞したら一気に腐る。
でも、今の存在意義を未来だけにするのはつまらない。未来の最先端は死なんだから、極端な話、死んだ方がいい。「合格おめでとう 次は東大!!」である。未来のラベルばかり見て今を犠牲にしたらキリがなくなる。今面白いと思うことをしたいし、目的が決まっているならもっと頭を使いたい。今を良くする努力は未来を良くするくらいのスタンスでいる方が健康だ。

「就活のため」を否定したいわけではない。むしろ未来と向き合うなら、避けては通れない。ただ、わざわざ言われると冷める。そんなことはみんな分かっててその上で君の話を聞きたいと思っているということと、わざわざ現在に名前を付けるのは野暮すぎるという二つの点において。
前者に関しては、以前勤務していた飲食店の面接で「時給が高いから志望しました」と言い放ったバイト志望の学生を思い出す。バイトする以上お金稼ぎに来ているのは前提だからそんなことは分かってて、その上でお前という人間と向き合おうというチャンスが与えられているのに何も考えていないことを露呈しているようなものだな、という話。
後者に関しては、皆で楽しく過ごしているだけなのに「これが青春やな」と言われると一気に冷めるのとか、自分のことを「変わってる」「尖ってる」「拗らせている」というのがなんか見てられないのと同じ。わざわざ俯瞰して人生とか社会の文脈の中に自分を位置づけて、お前という人間ではなく、そういう「役」と話しているような感じがする。

だから私の行動を勝手に就活という金儲けのシステムの中に位置づけられると、あのー、おれはそんなつもりじゃないんだが笑 と思ってしまう。おれの行動の文脈はおれが決める。結果的にそれが就活で役立ったら結果オーライやけど、お前がそれを決めてくんな って思う。おれはもっと言いたいことがある。
いままでいろんなことを冷笑主義的にこの価値観に落とし込んで単純化して思考から逃げてきた自分の無責任さも反省している。私は私の人間を見てほしいから、演じたい役から逆算してガクチカをつくりたくない。人間性という物語のためにガクチカをつくるのではなく、人間性をガクチカという物語から見出すべきだ。順番がおかしい。おれは何者やねん。

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