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ノルウェーで出川哲郎のファンになったよ

英語を使う環境に来て3週間弱経った。無事に友達もできて毎晩のようにだれかの部屋に集まって晩ごはんを食べたり映画を見たり話したりして過ごしている。友達は大体台湾人、香港人、ベトナム人、韓国人、オランダ人、ドイツ人などなど。知り合いに日本人があまりいないので、強制的に英語を使う環境に身を置いている。初めは何の話をしているのか分からないこともあったが、だんだんみんなが何を話しているのか分かるようになってきた。今まで大して英語を「使って」こなかった人間としては実践的な経験に新鮮な喜びを見出す日々であるが、その反面、思うように意思疎通が出来ないことに常に疎外感や悲しみも感じ続けている。

なぜか大体アジア人が料理を作る。私は味噌汁をこしらえた。
オスロには思ったよりアジアン食料品店が多く、異国の地でも文化を貫くエネルギーと人間らしさに感謝している。

英語が出来ないと思う。言いたいことは死ぬほどあるし、常に考えてはいるのだが、英語が出来ない。英語が出来なさ過ぎて情けなくなってフラットメイトの前で泣いてしまった。なぜこんなに英語が出来ないのか。言葉の引き出しはめちゃくちゃあってそこに私の欲しい言葉があることは分かっているのに、ぐちゃぐちゃに放り込まれていたり鍵がかかっていたりしてうまく取り出せない。文法に気を取られて結局言いたいことにたどり着けずに会話が終了してしまう。速すぎて何を言ってんのか分からなくて適当に相槌してたら気まずい感じになっている。
その反面、悲しいくらいに英文は読めるし文章も書ける。TOEIC出る単特急金のフレーズに掲載されているあらゆる単語の日本語の意味を即座に答えることも出来る。選択肢の切り方も知っている。よく考えてみたら今まで死ぬほど英語を勉強してきた。なのに英語が出来ない。だんだん腹が立ってきた。どうしろというのか。

そもそも何をもってして英語が「出来る」と言っているのだろうか。日常生活が行える状態だろうか。アカデミックな、またはビジネスにおいて議論が出来る状態だろうか。

ベトナム人の友人が作ってくれた料理
無知ゆえに「フォーはタイ料理か?」と聞いたらキレられた。ごめん

英語を「投げる」こと

つい昨日、授業の中の議題について近くの席に座っている人と話す時間があり、後ろに座っていた学生とペアになった。面識はなかったが、どうやら日本人のようで、会話を始めようとした途端とんでもなく流暢な、素晴らしい発音の英語が鉄の雨のごとくすさまじい量で飛んできた。目を白黒させながらも応答しようとしたのだが、量と圧で押しつぶされ、結局ほとんど会話が出来なかった。

昔イッテQで、カナダかどこかで、河北麻友子と出川哲郎が街中にいる人に出題されたクイズの正解を尋ね、どちらが早く正解にたどり着けるか対決をするという企画を見たことを思い出した。帰国子女の流暢な英語に対して「出川イングリッシュ」は初め苦戦を強いられるものの、ボディランゲージ、擬音、知っている語彙と積極性を駆使して興味を掴んだ結果、最終的には出川哲郎の勝利に終わった。河北麻友子の圧勝に終わると思っていた私は非常に感嘆したことを覚えている。

自分の大学の英語の授業でもこのように英語を「投げつけ」られたことを思い出した。肩も強いしスピードも速い。でもキャッチャーはその球を捉えられない。強肩ピッチャーはそれに気づかず球を投げ続ける。大暴投。

結局はコミュニケーション力だと思う。どれだけ発音が良くて即座に文章を編めて語彙を集めることが出来ても、コミュニケーションが出来なければ言葉の価値がない。
コミュニケーションは自分の混沌を切り出して体系化して出力することで、その手段の一つとして言語がある。私は普段脳内の混沌を日本語という母語たる言語を使って切り出しているが、いまは英語で切り出す訓練をしている。
言語以外の切り出し方もある。音楽、絵画、彫刻、映像、身体表現…だからあらゆる芸術はコミュニケーションだと思う。以前重度身体障碍者福祉施設にフィールドワークに行った際に、職員は発話のない利用者の意志を目や表情、身体の変化などから理解していると知った。自分の中の混沌、つまり意志を何らかの手段で出力する。これがコミュニケーションだと思う。

何が言いたいかというと、語学力以前にコミュ力の問題なのである。言語はコミュニケーションの手段に過ぎないということである。力の誇示やコミュニケーションの殻を模倣するのではなく、実の詰まったコミュニケーションをしないといけない。どれだけ相手に自分の混沌を理解させようという情熱があるのか、どれだけ相手の完璧ではない言語という生物を飲み込もうという誠意があるのか。間を埋めるだけの空虚な音の投げ合いはChatGPTに任せられるから、当事者全員が最大公約数のように最善を尽くすという暗黙の了解を人間のコミュニケーションの前提にしないといけない。

NEO TOKYOなる日本のものが売っている雑貨店にて。絶対違法やんこれ

「正しさ」を追究すること

言語はコミュニケーションの一手段に過ぎないという立場に立つと、言語たる英語が「出来る」という状態は英語でコミュニケーションが出来る、つまり、英語で人間の意志を理解できる状態だと言える。リーディングは人間の活字化された意志を理解することだし、リスニングは人間の発話として出力された意志を理解すること。逆にライティングは自分の混沌を活字にすることだし、スピーキングは自分の混沌を発話にすることだ。こうやって「語学力」は数字化される。このシステムで点取り競争に何千万円もかかっている私はオスロ大学の求める語学基準を獲得し、国立大学法人大阪大学の代表として無事に交換留学にくることが出来ましたとさ。めでたしめでたし

……では済まなかったのだ!!!!!!!!!!恐ろしいことに、現にいま英語でのコミュニケーションに悪戦苦闘している。点数を取れたのに!
IELTSのテクニックとか文法的正しさとかパラフレーズとか、そういうことをこれまで訓練してきたけど、本当に人と会話するには表情の機微とか雰囲気とか、話し手・受け手の双方が手がかりから相手の意志を推測してそれに応じた適切なコミュニケーションの方法を模索する方が「正しさ」よりよっぽど大事ということにようやく気付いた。問題はこれが「四技能」で数値化されないことだ。有機的につながっているものを無理矢理切ったところ本質が抜け落ちてしまった。アフリカの直線の国境みたいな感じ。

だから、私が理解しているか確かめずに英語を投げつける流暢な学生も、相手の言っていることが理解できないのにそれを伝えずにわかったふりをする私も、河北麻友子も(少なくともその場面においては)英語が出来る(た)とは言えない。その反面、出川哲郎は英語が出来る。なんなん、哲ちゃん最高やん。

結局相手の目的を汲まないと話は始まらないのだ。なぜ英語が必要なのか。買い物がしたいのか仲良くなりたいのかアカデミックな事柄を話したいのか、ビジネスに必要なのか。なんにせよその目的を俯瞰した上で英語が「出来る」ようにならねばならない。小手先の言い訳や力の誇示や「正しさ」や数字にかまけている場合ではないのである。人生はもっと忙しい。

Student pubなるものが大学に設置されている。大学内で比較的安く酒が飲める。このほかにも大学内で娯楽が公式に提供されている。これが日本の大学との一番の違いである。大阪大学生活協同組合もアルコールを提供してくれないだろうか。

文法より自信

昨日オランダ人の友人が「文法は本当にどうでも良い。I walking yesterday. 全然意味わかる。何の問題もない」と言っていたことに本当になんか、呪いが解けるような気がした。今までそんな些細なことにずっと足を取られてきたのか。文法が絶対ではないなら、言いたいことを真っ先に言える。言いたいことがSVOCのどこに当てはまるとかそういうことはコミュニケーションの中でデザインすればいい(無論、スクランブル英文法・語法や河合塾英文法サブテキストが無駄であったという話では決してない。もしその蓄積が無かったらもっと無惨に今を過ごしていただろうと思うとゾッとする)。

割と有名なこの川﨑宗則の動画にここ数日本当に勇気を与えられている。川﨑は質問された英語を完全に理解しているわけではないし、会話が成り立っていない場面も多い。でも結局レポーターが求めているのは川﨑のファンサービスで、彼もその目的を汲んで言葉を話している。まさにコミュニケーション。そして何よりも、彼は英語を褒められても謙遜しないのである。私は今までどれだけ謙遜してきただろう。そのたびに言霊のように自分の首を絞めていたのかもしれない。私は知らず知らずのうちに語学を自分の価値と勘違いしていたのではないか。川﨑の英語は流暢ではないが、野球のプロだ。私の英語も流暢ではないが、それが私の価値ではない。

彼の英語は非常につたないし、文法もめちゃくちゃで、何が言いたいのか分からない所もある。が、表情、語気、随所に「OK?」とか「You know」だとかを挟んだりして会話の当事者として対等な立場で試験管に自分の言葉を理解させようという意志がすさまじい。本当にエネルギーを感じる。映像を見ているだけなのにこの人に興味が持てる(個人的には4:53のI my teacherが好き)。この素晴らしさが点数に反映されないのが語学能力試験の欠陥とも言えるが、なんにせよ自信にあふれている。出川も川﨑もこの人も。

そう、私は自信がないのだ。もっと素晴らしい人間なのに、言語力という鏡に勝手に自分を投影している。だから考えを改めようと思う。英語でうまくコミュニケーションが取れなくて自分を責めるのはやめる。英語褒められて謙遜するのを辞める。私に向こうの英語を理解し、逆に相手が理解できるように話す努力が必要なように、向こうにも私のBroken Englishを理解し、私が理解できるように話す義務がある。

よく考えればただたまたまコミュニケーションの手段として言語を選択しているだけに過ぎないのに、会話の当事者として対等な立場にあるにも関わらず勝手に自滅して勝手に悲しくなるのは失礼だ。文法に気を取られて言いたいことが言えないのは本当に相手が理解できるように話す努力を怠っている。本当に必要なのはこいつに私の言ってることを分からせてやるという根性。だから、英語が本当の意味で出来るようになるには人間性を磨かないといけない。

今日はなんかフラットメイトといつもよりスムーズに会話が出来たと思う。これは当然英語に限ったことではない話で、母語から離れて言葉を客観視して初めて自覚的になった。


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