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瞼縫ってます

今日友人がイプセンの『人形の家』を女性の社会進出という観点から分析するという課題のために、ジェンダー論をやっている私に助けを請いに部屋に来た。私は本棚からミネルヴァ書房『よくわかるジェンダースタディーズ』を取り出して参考にしながら話をした。英語でアカデミックな概念を理解しなければならない今の生活において、本当にこの本が無かったらこの留学は今より相当苦しいものになっていたに違いないというほど今の生活に欠かせない、最早私のバイブルと言っても過言ではない一冊である(ミネルヴァ書房の「やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ」は神なのでまた別の記事で語ろうと思っています)。

この本の話をしているうちに、私がいかにジェンダー論に興味を持ったか、ジェンダー論のほかには何に興味を持っているのか、私が今まで何を学んできたのか、その他私が日本から持ってきた本とか卒論とか、ボランティアでやってる学校の話とかこのnoteの原案の話とか、とにかく私は今学問を含めて考えることがすごく面白いと思っているという話をした。つい夢中になってペラペラ話してしまったのだが、そしたらそいつが微笑んで「I like you. You are smart.」と言ってきた。


以下自分語り

小学校まで曖昧だった性差は中学に入ると「隠れたカリキュラム」によって顕著になった。突然私は顔にコンプレックスを持ち始めた。なんだか急に一重瞼が気になるようになったのである。「女」として異性に見られるという負け戦の序列から離脱しないと大変なことになると気づいた私はとわざと「ガサツ」に振る舞い始めた。離脱を決意した瞬間は結構明確に覚えているし、これが自分を守る手段であることも当時から自覚していた。
〈モテ〉の競争を棄権したのでその分勉強の競争を頑張った。おかげで「アホっぽいけど賢い」という立場を手に入れることが出来た。この戦略のおかげで変に傷つかずに済んだし、何より私は結構この立場を気に入っていた。このころ、私は分厚い一重瞼に細く切った絆創膏を食い込ませて二重瞼にする方法を発明した。

親とか教師とか同級生とかに「お前女ちゃうやろ」「女の子らしい言葉使いなさい」「女子力ないな」とか言われるたびにこいつら本気でアホちゃうかと思ってきた。これが私の生存戦略やねん。そんな普通の女子になったらおもんないやん、そうじゃない所が私の魅力やねんけどな、とか。私はいつの間にかこれを〈価値〉だと思うようになっていた。

高校に入るとジェンダーはもっと露わになる。高2のときに偶然彼氏が出来て、それまで参加しないようにしていた〈モテ〉のフィールドに引きずり込まれた。私は上瞼の絆創膏につけまつげ用ノリを塗って幅を広げることにした。
このとき、生存戦略として身に纏っただけだったはずのガサツさは、いつの間にか骨身に染み付いて今更脱げなくなっていることに気づいた。恋愛において邪魔に感じることもあったが、何となく「女の子らしく」振る舞うと負けたような気がするし、何よりなんか役を演じているような気がして気持ち悪かったので、「私は君らとは違うけどな」という〈価値〉という竹やりを武器に、思いがけず参戦した〈モテ〉の戦場で裸一貫戦っていた。気丈なつもりであったが、上瞼はかぶれて腫れあがってしまった。

大学1年生の夏、私はついに二重瞼の埋没法の手術を受けた。施術直前に看護師さんが顔周りを消毒してくれたのにも関わらず、なんだか感無量になって涙を流してしまい彼女の仕事を増やしてしまった。この日以降私は〈価値〉のことを考えなくなった。

大学に入ると「女」が社会でどのような扱いを受けているかを自覚する機会が格段に増えた。
入部した落語研究部には、「女は面白くない」と言うことを面白いと思っているような面白くない人たちがたくさんいた。今までこんな人たちは見たことがない。なにこれ。
アルバイト先では「セクハラ」を本気でコミュニケーションだと思っている人間がいた。それまで幸い良い大人ばかりに恵まれていた私の行動データベースにこれについての対応は載っておらず仕方なく曖昧な返事をしたら「もっと対応力上げなあかんで」と言われた。なんやこれ。
落語の大会に出た。『替り目』という酔っ払いが妻に管を巻くという内容の演目を演じた。結構練習して自信もあったし、実際本番のウケもかなり良かった。講評ではプロの落語家に「女の子なのに酔っ払いを恥ずかしがらずに演じられて偉い」と褒められた。その晩は悔し涙で眠れなかった。なにこの感じ。

この「なんやねん」に答えをくれたのが、偶然研究室の概論ゼミで勉強していたジェンダー論の授業で読んだ、若桑みどり『お姫様とジェンダー:アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門』であった。これはジェンダー論の基礎として授業で取り上げられていた書籍で、本当に基本的な部分を分かりやすく解説してくれていた。
初めて触れる学問としてのジェンダー論は、まさに目から鱗であった。大学生になって社会の片鱗に触れたときに抱いた謎の感情の正体を言語化し、私の手を引いて行くべき道と取るべき立場を示してくれているかのようだった。本当にこの落語の大会のときにジェンダー論に出会っていなかったら私は憤死していただろう。私は社会の構造のせいで瞼を縫ったんだ。分かってよかった。いや、良くない。私がどうにかしないと。

私は勉強が好きだ。中学時代、担当教師のおかげで社会科に非常に強い興味を持ち始めた。この興味は高校に入って日本史、倫理科目への興味となった。社会科の勉強を苦だと思ったことは一度もない。現役、浪人の二年間の受験勉強は毎日毎日本当に心の底から楽しかった。
高校のときは誰かと真剣に社会とか政治とかの話がしたかったのだが、周りに興味の近い人間はいなかった。そんなときに参加した大学のオープンキャンパスの研究室訪問で学生がお菓子を食べながら日韓関係について論じているのを見て憧れて志望校を決めた。それが今所属している研究室である。

今研究室でやっていることが本当に面白いと思っている(単位が取れるかは別😀)。シンポジウムに参加したり、北欧に留学に来たり、ヤンヨンヒの映画を見まくったり、レポート書くためにフィールドワーク行ったり。いや、本当は学問だから好きな訳ではなくて、人の考えていることを知りたいから。そして私の話を聞いてほしいから。人間関係のこととか、恋愛のこととか、自分の人格のこととか、感情のこととか、いろんな「カタい」とされていることの方が面白いと思う。それには社会に割り当てられた「男/女」の役割が本当に邪魔で、私はお前と話したいと思っているのに、あーあ、本質主義的な話をするからお前が見えなくなった。あーあ、私を抱こうとしているからお前が見えなくなった。とか。役は役割としてふさわしいセリフしか言わないから本当に面白くない。人間と話したい。あー、勉強が好きだ。勉強することで世界の解像度が上がるのが、言葉を持てるのが、自分を信じられるのが、楽しくて仕方がない。

だけど社会は女に無知でいることを求める。女という役は無知じゃないと成り立たないから。母は私と同じ大学出身の女性の同僚が「出身大学を言うと男の人は引くから、大学の中で彼氏見つけて結婚せなアカンで~」と話していたと言っていた。バーのバイトでは客に政治やら経済の話題が出たときは無知なふりをして語らせる方がいいとアドバイスされた。私に女の役を期待しないでくれよ。私と話をしてくれよ。マジで。

「I like you. You are smart.」と言われたのである。私はsmartなのか。賢いのか。うん、知ってた。実はそこが自分の一番好きなところやねん。自分の一番好きなところやねんけど、これを今まで人間的な魅力として認められたことがなさすぎて、それをまっすぐ認められて本当に。

自分の身を守るために振りかざしていた〈価値〉が本当に価値を持ったのだなという気がした。私の両瞼に埋まっている合計4本の糸はとんでもなく政治的で、私はこの政治に参加したことで自信を得たという事実と向き合っていかないといけないんやけど、でも、なんかお前が認めてくれたからなんとかなりそうかも。私賢いらしいし。

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