おらこんな村いやだ(映画大好きポンポさんを観た)

映画大好きポンポさんを鑑賞した。というかだいぶ前に鑑賞して下書きのまましばらく描きかけで放置していた。

所謂映画映画(映画を題材にした映画)ということで「鎌田行進曲」とか「ワンスアポンタイムインハリウッド」的なものなのかなーぐらいのものかと思っていたら、だいぶ違う印象を持った。

題材自体は好みのものでこれだけで基礎点が入っちゃうぐらいのものだがそれでも受け入れられずノットフォーミーどころかステイアウェイな結果になった。

前述したワンスアポン〜などの映画映画において自分が好きなところの一つは、表現を通じて如何に自己を確立していくか、が描かれている点だ。
その過程を追っていくうちに自己を奮い立たす勇気が湧いた気になる。(これは映画映画に限った話ではないが、相性がいいのかこの筋書きはこのジャンルに多い気がする)

この映画にはそれがない、要は自分が期待していたものと違ったわけでノットフォーミーなのだ。

耳に優しい逆選民主義(「目が死んでる」で助手に抜擢されるなら候補は星の数ほどいるんじゃないか?!)
とそれを際立たせるため作られた人物配置
これは最初から疑わしい主張を証明するためだけに作られた歪な環境なのだ。
大学の研究室だったら教授に突っ込まれるぞ。

またわずかな苦難を乗り越えるシーンは「どうしてそうなる」が連続する噴飯物でシラけるばかり(泣けば許されると思ってんじゃねえ!)
挙句そこから「作品作りにかける狂気を描いた」となっているのがたまらない。

ここには葛藤も決断も代償もほとんど存在しない。
脈拍のない成功体験だけがスクリーンに映し出されていく。
これは快楽を得るためにシャブを決めて手っ取り早く気持ち良くなるようなもので、ひとときの快楽ののちに残るものは何もないのではないのではないだろうか。

少なくともこれを見て同じように集団で制作したことのある人間は、苦労を軽んじられたと感じると思う。(フィクションなんだからで済ます方もいると思うが、俺はできなかった)
一人たりとも共感のとっかかりを得ることができなかった。
総じて俺も社会不適合気味だけどあいつと一緒にされたくないね。
そう、一緒にされたくないのだ、オラこんな村嫌だ。

グダグダ書いたが、最終的に怒りすら覚えたのは、業界の片隅でボンクラプランナーとして燻っている自分が、どっかのボンクラがあれよあれよという間に都合よくする成功する様をわざわざ金払って見に行った事実に怒っているのだろう。
あれでよけりゃ誰も苦労しねえよ、ケッ
ともあれ単に私の被害妄想と人間の不出来によるものでございます。六根清浄。

さて、そんな中でもふと琴線に触れたことがある。
ポンポさんが自説を展開する中で掲げた「自分の世界を持つ」という点だ。
人は単体の知識ではなく、知識を咀嚼して組み合わせてそれぞれ自分の中に世界を構築していく。これは偏見とも見ることもアイデンティティーとも見るともできるわけだが、生きてく上で大なり小なりみんなが持ち合わせている。

そこで、自分の中にある、妄想や性癖や趣味で煮しめた世界が、ソーシャルの波の中で雲散霧消して行っていないか、今の自分はそう思えてならないでいる。

ソーシャルとはSNSだけでなく他人との関わり合いも全部ひっくるめての意味だ。

自慢するようなことではないがかつて中坊の頃の自分は夏休みやることがなく毎日万代書店で漫画の立ち読みを繰り返す毎日だった。
もし何か作品を作れることがあれば、あの頃の自分のような童貞中坊たちに刺さるものを作れるようになりたい。

話が逸れたが、その時に身につけた世界が、歳を食って寂しくなって不安になってきたのか、流行りの作品だのツイッターに流れる話題作だの誰それが見ている作品だのを追おうとして疲弊していくうちに少しづつ風化して行っているように感じる。

そりゃあ話題に登ってる奴は追ってった方がいいし、面白いものも当然ある。しかしそれは理屈です(富野節)
それよりもそれに駆られて自らの心のありようが変わってしまっていることの方が問題なのだ。

世に出ている作品は決して変わりはしない。自分が変わっているのだ。

だから、一旦は自分が好きなものについて、自分の持つ固有のベクトルについて見直すべきなんだろう。

ということをポンポさんを見終わって一月経った後に気付いたわけです。

纏めると
例え嫌いな映画でも、ワンシーンくらいは足跡を残すのだなあ、という事と
谷口ジロー氏の「神々の山嶺」を読み返してます。

読もう!「神々の山嶺」!

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