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収監

先日、こういうカバー曲を投稿いたしました!

たーーーくさん紹介したい内容、補いたい内容もあり、
もちろん曲の歌詞だけを切り取って受け取っていただいても十分ですが、

曲の中ですべて語ると
説明臭く&説教臭くなってしまうかなーという部分を
ここにまとめさせていただきます

読んでもらえたらこのカバー曲の歌詞に対して
少しだけ違った視点を持っていただけるかもしれません

●曲全体のテーマ

(1)
スシローぺろぺろ事件に端を発する
日本全体のモラルハザードへの憂慮

(2)
「犯罪的行為をやらかしたやつには
 正義の俺たちが追い込んで鉄槌を下そう」
「SNSの皆で団結してこいつを総力をあげて潰そう」
「コイツの人生を終わらせてやろう」みたいな
負の同調圧力への憂慮

(3)
すでに俺たちも「そっち側」かもしれないよ
という警鐘


●今回の歌詞の矛盾点?

「スシローペロリストを叩くなんてやめろよ」
という立場でありながら、バースワンでは

「道誤るガキはブン殴って躾けなきゃダメだ」
と言っている点に

そこはかとなく矛盾に近いものを自分でも感じています
これについて、自分の感じるところを説明させてください
(まず自分自身が冷静に整理するためにこれを書いています)

まず、これは皆様への問いかけなのですが

道を誤ってしまう子どもたちが増えていることに対して、
適度な「恐怖による抑止」が足りないと思いませんか?

ちゃんと厳しいことを言える大人(保護者や教員)が
少なくなっているような気がしませんか?

これは意見の分かれるところだというのは承知の上で
私見を述べさせて頂きます


●「体罰」と「しつけ」について

「教師」の力は数十年前と比べて圧倒的に弱くなりました

・価値観が多様化し、
 保護者の多様なニーズに応える必要性が
 大きくなったこと

・信用失墜行為がたびたび報道され
 (買春する校長、大麻吸う教頭、盗撮する教員…)
 教職あるいは公務員全体への不信感が増したこと

・人権意識の広がりにより
 「躾ける」ようなやり方は「体罰」「パワハラ」とされ
 職を失うリスクが大きいこと

これらを理由として、「恐怖」を与えるような
いわゆる「コワモテの生徒指導教員」というのが
もはや現場から消滅しつつあります
絶滅危惧種(EN, CR)です

そしてどうなったか

タガが外れて規則を破る子どもたちが増え
SNSには度を越した犯罪行為が日々投稿され
多様性の皮をかぶった獣たちが野に解き放たれました

本当に責任ある大人が
殴ってでもこれらを
止めなければならなかったのではないか

それは教員であってもいいし
親であってもいいし
地域であってもいい

とにかく 度を越してしまう前に
適度な恐怖を与える教育が
必要だったのではないか
と思います

もちろん

「校則違反の頭髪をした生徒の頬を
 平手で10回程度殴りバリカンで丸刈りに」
「試合中にもかかわらず部活動の生徒を平手で殴りつけ、
 さらにコートの中を追いかけ、体育館の壁に追い詰め、
 逃げられないようにして20発ほども殴り続けていた」
「うずくまって謝る男子生徒のみぞおちあたりを踏みつけ続け
 搬送先の病院で急性循環不全により死亡」

みたいなのは全て論外です
程度に関係なく、暴行は論外です
全員速やかに逮捕されてください

部活動で勝とうが負けようがそれは生徒たちの努力の結果であって
教員はそこに暴力で介入すべきではありません

校則違反には定められた正規の手順で対応すべきであって
それを暴力で分からせるべきではありません

こういった「指導力不足を暴力で覆いかぶせる」ような
クソみてーな体罰を「体罰」として
クッキリと分けて定義したうえで

それでもなお

「人の道を踏み外しそうな子どもに対して」
「責任のある大人が責任をもって与える恐怖と抑止」

すなわち「しつけ」は
この狂った時代に必要なんじゃないかと
個人的に思っているのです

そういう意味で、生徒の目から見た
いわゆる「怖い先生」というのを
俺は本当に本当に尊敬しています

自分が「正しい」自信がないと
そんな風に圧倒的な力をもって
生徒を「正しい」道に導いていく
なんてできないことです

もしかしたら皮肉めいた言い方にも聞こえてしまうかもしれませんが
本当に「正しい」先生方をすごくすごく尊敬してます

自分が「正しい」という自信は、
本当に「正しく」生きてきた人にしか
持ちえないものだと思うからです


●時代は戻らないと思う

「体罰が横行していた時代が良かった」
などと主張するつもりは毛頭ありません

人権意識の広がりというのは不可逆的なもので
これが元の時代に戻ることは(多分)ありません

多くの人が「やっぱりしつけは必要だったよね」と気づいても
教員が拳をふるうことが正当化される時代は
二度とやってこないでしょう
逮捕されますもんね

ところで

福岡・H高校で「暴行動画」流出、大炎上
生徒が教師を蹴りつけ、クラスは「爆笑」(2017年09月29日)
https://www.j-cast.com/2017/09/29309836.html?p=all

この胸ッッッ糞悪いニュースを覚えてる人いるでしょうか

「生徒が教師を蹴りつけ」ですよ、
逆じゃないので気を付けて!

つまり「力」を振るえない「弱い教員」の
立場を理解したうえで、
子どもたちがスマホで撮影しながら
教員を蹴りつけていじめているのです

これマジで… 言葉にならないくらいの気持ちを当時感じていました
本当に加害生徒たち全員をぶん殴って分からせてやりたいっすよ

「お前らは度を越えた、だが警察は呼ばない、
俺がこの拳でお前らを分からせてやる」って言いながら
一人ずつ本当にやってしまいたい

なんか昔、そういうドラマもあったみたいですね

「俺は今から、お前たちを殴る!!!!」ボコボコ~
「殴られて、痛いか?」
「殴ってる俺の拳だって、痛いんだぞ!!!!」

という感じの(観たことないので詳細はわかりません ごめんね)

フィクションだとしても、その気持ちは分からなくもないよ
たとえこれが「体罰だ」って告発されてクビになってもいい
そんな覚悟で振るう拳

これは必要な指導だった
なぜなら生徒たちが犯そうとした罪の重さは
絶対にここを逃すと一生理解できないからだ
という確信による、職を賭した指導

もちろん暴力を振るってしまっては
加害生徒たちと同レベルに堕ちてしまう

それでもなお、この福岡のケースでは実際に
やってしまってもいいくらいのレベルだと思いました

少し横道に逸れましたが

つまり言いたかったのは
そのような抑止力的な恐怖を(怒りでも暴力でなく)
示威的に扱って生徒を思いとどまらせてくれるような
そんな技術や信念を持った先生は現場から消えていき

これからの教育現場においては、さらなる
モラルハザードが深まることが懸念されます

だからこそ

論理的思考力・コミュニケーション能力・協調性
そういった諸能力を身につけ、道を踏み外さぬよう
子どもたちは自助努力していくほかないのです

痛みのない無菌室で
誰からも強く教えてもらえないから
自分自身がそれを学ばなければいけない
昔よりもよっぽど面倒で、難しい時代でしょう


●歌詞内容を少しだけ解説

前置き終わり
ようやく歌詞の内容に入ります
みんな起きてますか~~~???

>狂った時代だこの令和
>広めてる奴 ハタ迷惑
>もはや必要なのは道徳じゃねーんだ
>ブン殴らなきゃダメだ

この部分は、二種類の方面への感情を込めています

まずは一つ目、道徳の授業(小中学校)や
学校の教育活動全体を通じて行われる道徳教育(高校)
では足りないんじゃないかという状況

だからこそ、先に述べたような
恐怖による抑止が必要なんじゃねえのか
という意見

ただ、ここでは話を分かりやすくするために
「ブン殴らなきゃ」と強い言葉を使いましたが

正しい責任を持つ大人が、「そんなことは許されないんだ」
ということを強いメッセージとして伝える手段としては
拳を上げる以外にもたくさんあるので
そちらがもちろん推奨です

職を賭して殴る先生がいるのなら
それを敢えて止めることはしません
先述の通り、尊敬の眼差しで見てます

そして二つ目、
「広めてる奴 ハタ迷惑」

色んなタイプのインフルエンサーが居ますが
「●●高校の××君、△△をしてしまうwww」
「これは退学不可避wwwww」
みたいな感じでネット上に悪行をさらしてる奴

お前それ
その生徒の特性・既往歴・指導歴・家庭の状況・学校での振る舞い…
全てをすっ飛ばして、行為だけを抜き出してんじゃねえよ
って思う

それだけを抜き出してセンセーショナルに数字を稼いで
ファンネルみたいに信者や暴徒を飛ばしてけしかけて
学校に電凸させてWikipediaを荒らして

さらにそれに乗っかって糞みてーなまとめサイトが量産されて
「××君の学校名は?本名は?インスタ垢は?調べてみました」
みたいな余計な情報までさらに拡散されていく

もちろんその「行為」(What) は許されることではなくても
その行為に至った「理由」(Why) を包括的に聞き取って
そのうえで「どのように」(How) 指導を与えるかを
考えていかなければならない

自己指導能力をはぐくんでいく」ための生徒指導では
「個々の児童生徒の発達状況を踏まえた個別の指導や援助」
が大切なのです(文科省 生徒指導提要より)

それなのに、本当に余計な拡散をするせいで
生徒本人の更生の邪魔になっていく
マジでイカれた風潮です

もし広めてる奴らにひとつだけ
功罪の「功」があるとするならば

「ああ、こういうのがバズって晒されるんだね… 気を付けよう」
という生徒たちの「人のふり見て我がふり直せ」的な
学習ができる点でしょうか

いやーでも逆の方が大きいと思うなあ
「ああ、こういうのがバズって目立てるんだね!俺もやってみよ」
みたいな負の効果の方が大きいような気がする

>体罰じゃなくて躾
>コンプラ?ポリコレ?しつこい
>(俺含め)落ち着け

俺と同じ立場の人間が、
「殴らなきゃダメ」とか言っちゃダメだろ!
というお叱りを受けるかもしれないのですが
「うるせ〜〜!!!!! 知らね〜〜〜〜!!!!」
っていう気分の歌詞です

でも熱くなりすぎるのはよくない、と自制し
よしよし待ってくれ一旦みんな落ちつこ?
ていう感じです

>Guess who's goin' to jail tonight?
>あたおかすぎる界隈

「今日、逮捕されるのは誰だと思う?」

寿司をペロッてしまった子どもだろうか?
それとも彼らを
嬉々としてリンチする大人たちだろうか?
という意味です

この後の原曲は
>God gon post my bail tonight
と続き、宗教色が出る部分なのですが、
どうしても「神」についての話は後述の部分に含めたかったので
ここのhookの一部だけは日本語に変えています

>時にはODも葉っぱも
>必要なのを理解してる
>檻にブチ込まれてても
>生きてりゃ満点だと思ってる

ただし、殺人だけは満点とは言えません
殺人以外であれば、きっとやり直せると信じています

>俺は信じてないよジーザスクライスト
>だが心に留めている
>クレバーな教義がひとつある
>主曰く「安全圏から石を投げるな」

「カニエ・ウエストのカバー曲で
ジーザスクライストを信じていないっていうのは
ユーモアあるな」というありがたいツッコミを頂きました

そう、信心を人生の根幹に置くか否かと問われれば
私は決して一神教を信じることはありません

ですがそういった態度に対しても寛容なのが
キリスト教のあり方かなと思ってこのような歌詞にしてます
特定の宗教を揶揄したりする意図は決してありません
ユーモアの一部と思っていただければ幸いです


ヨハネによる福音書 第8章

イエスはオリブ山に行かれた。

朝早くまた宮にはいられると、
人々が皆みもとに集まってきたので、
イエスはすわって彼らを教えておられた。

すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、
姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、
中に立たせた上、イエスに言った、

「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
モーセは律法の中で、
こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、
あなたはどう思いますか。」

彼らがそう言ったのは、イエスをためして、
訴える口実を得るためであった。

しかし、イエスは身をかがめて、
指で地面に何か書いておられた。
彼らが問い続けるので、
イエスは身を起して彼らに言われた、

「あなたがたの中で罪のない者が、
まずこの女に石を投げつけるがよい。」

そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。

これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、
ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
https://www.wordproject.org/bibles/jp/43/8.htm


↑「安全圏から石を投げるな」(意訳)
の引用元はこちらです

この一節が、今回のカバー曲の
一番大きな主張と言えるかもしれません

一部の人たちが嬉々として罪を犯したものを叩くけれど
本当にお前は叩いて良い側か?を問いたかったのです

いやいやもちろんイルベル自身が
「神の視点を持っている」などと
言っているわけではないです!!!!

ああでも、そういうテーマの作詞でも面白かったかも?



ちなみに、この長い長い曲解説のオチですが、
俺はこっちのコピペバージョンがめっちゃ好きです
初めて見たときめっちゃ笑いました↓


イエスが歩いていると、女が石を投げられていた
イエスがなぜ彼女に石を投げているのかと聞くと、
人々はこう答えた

「彼女が罪を犯したからだ」

それを聞くとイエスは言った

「いまだかつて、心のなかでさえ
犯罪を犯したことのないものだけ石を投げなさい」

そうすると一人一人石を投げる人はいなくなり、
最終的に石を投げているのはイエスだけになった



てめーが投げんのかよ!!!!!!!!!!!!!!!!

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