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【掌編小説】金魚鉢#シロクマ文芸部

(読了目安4分/約3050字+α)

 金魚鉢の向こうからのぞくあの子に、私はどう見えたのだろう。ほんの一瞬だけ目を合わせ微笑んだあの子の笑顔を吹き消すように、私は煙草の煙を大きく吐いた。


 あの子が邪魔だった。自分一人だって生きていくのがやっとだというのに、私が寝たい時も、遊びたい時も、風呂に入っている時も、当然のように泣いた。男には子どもを大切にしろと拒否られて、女には離乳食になるまで酒と煙草を止めろと命令される。チルする時間はあの子の寝てる時だけ。それもチルってるんじゃなくてただの寝落ち。

「大丈夫よ。自分の子は何よりも可愛いの。この子のためなら何でもできるって思えるわよ。ああ早く会いたいわねぇ」

 小太りの看護師長は、エイリアンの卵みたいに膨らんだ私の腹を撫でながら、自信満々に笑う。私は適当なあいづちを返しながら、この子の名前を決めた。ひらがなで、みち。未知の生物の、みち。

 みちは破水してから三十時間で産まれた。死にそうなくらい痛くて、体力が限界で、こういう地獄もあるかもしれないと思うほどだった。針の山地獄、釜茹で地獄、子産み地獄。でも本当の地獄は産んだ後だ。

 みちの父親はわからない。時期的に三人候補がいて、一番気弱な男にカミングアウトした。その男は、認知すると約束したが産まれる直前にバックレた。子どもを産んだ後に押し掛けた男のアパートには、すでに別の人が暮らしていて、聞いていた勤め先にはそんな男は勤めていなかった。

 もともと勤めていた派遣先は建前上寿退社になっていて、子持ちを雇う可能性はゼロ。保育園に入れる金も無いし、子持ちはパートすらできない。減っていく一方の貯金に焦る私に、平然と下の世話をさせるみち。寝るまで抱き上げろと脅迫するみち。乳首が痛いのに母乳を要求するみち。エイリアンは私の腹に寄生して、産まれては母体を下僕として生育させる。

 病院はエイリアンの配下で、下僕に細かな指示を与える。オムツは濡れたらすぐに換えろ、快適な室温の部屋で過ごさせろ、欲しがるだけ授乳をしろ、窒息に気をつけろ、予防接種を受けさせろ、周囲に危険物を置くな、朝の光を浴びさせろ、スキンシップを、愛情を。


 逃げるように子連れで帰った実家の玄関では、母が仏頂面で出迎えた。

「アンタの子? 名前は?」
「みち」

 それだけ聞くと私を迎え入れた。


 四年ぶりの実家では、妹のりおがソファで寝そべっていた。みちを見ると起き上がり、抱かせろ抱かせろとせがんでくる。私の腕から奪い取ると、途端に泣き出した。遠慮のない全力の泣き声に、りおが思わず顔をしかめる。それでも根気強く揺らしているが一向に泣き止む気配はなかった。

「下手くそ」

 母はりおの手から乱暴に奪い取ると、横抱きにしてみちと目を合わせて笑いかける。みちは一瞬だけ不安そうな顔をするが、すぐにきゃっきゃと笑いだす。

「つまんねー」

 りおは舌打ちをするとソファに寝転がり、スマホをいじり出す。

「こちとらガキ四匹育ててんだ。当然だろ」

 母はりおを鼻で笑った。

 私は四姉妹の三番目だ。姉のえみとあきは結婚してうまくいっているらしい。りおは実家に今でも寄生中だ。

 四匹育てたといっても、掃除洗濯料理はえみとあきがしていた。りおが生まれた時は、確かに少し母親っぽいこともしていた記憶があるが、離乳食が始まるとほとんど家にはいなかった。店でバカな男の相手をしてむしり取った金の一部を、えみに生活費として渡すだけ。母は昔から、男のグチに酒と香水の匂いを乗せて私たちに撒き散らすだけ。

 パチンコで勝った日は、戦利品の駄菓子を食卓テーブルに撒いた。私たちはその餌に群がり、早い者勝ちで捕り合う。母は四匹の飼い主だった。

「なあ、来月みちの予防接種があるんだけど、お金貸してくれない」

 私は楽しそうにみちをあやす母に訊ねる。母はふと動きを止め、子どもを差し出し、ん、と顎で指す。私が受け取ると、食卓テーブルに座り、吸いかけの煙草に手をかけた。

「お前らはそんなんやってねぇけど育ってんだろ。子どもなんて放っといても勝手に育つんだよ。ムダだよムダ」

 煙草の煙と一緒に言葉を吐き出す。煙草の灰を食卓テーブルの上にあった金魚鉢へ落とす。

「それ、金魚鉢?」
「ああ、でかくてちょうどいいだろ」

 母は得意げに笑う。爪でコンコンと叩くと厚いガラスが鈍い音を立てる。

 中二の時、りおと行った夏祭りで金魚すくいをした。赤くて小さな金魚。少なくとも四匹はいた。家に持って帰ると、たまたま家にいた母がこの金魚鉢を出してくれたのを覚えている。

 祭りの翌日には金魚の餌を買ってもらい、二人で餌を順番にあげていた。一週間で餌を忘れがちになり、金魚の数はいつのまにか減っていた。金魚は共食いをするとあきが教えてくれた。

 三匹になった時に、慌てて餌を撒いた。朝に晩に撒いてもあまり食べなくなり、気づけば二匹になった。最後の一匹が腹を上にして浮かんでいたのは、飼いだしてから二か月くらいだったと思う。

 付き合っていた男にその話をしたら、金魚は飼うのが大変なのだと教えてくれた。金魚鉢で飼うなら二日に一度は鉢の中を綺麗にしないといけないらしい。餌が足りないと共食いをするが、それだけではない。体の大きさに差があると、小さい金魚は大きい金魚に食べられる。弱っていると強い金魚に食べられる。死体はすぐに食べられる。私は二度と飼わないと笑い、赤い唇で男にキスをした。


 日が暮れると母は店へ行く。今は小さなスナックをしているらしい。母が出て行くとすぐに、りおは着替えて化粧をして何も言わずに出て行った。

 私は居間にバスタオルを敷いてみちを寝かせる。照明を消しソファで横になると、すぐにみちが泣き出した。私は横になったまま家中に響く騒音を聞く。

 身体を起こすと少しめまいがした。さっきよりも家の中が暗い気がする。横になったばかりだと思っていたが、少しは寝ていたのかもしれない。

 照明をつけてみちを抱き起す。いくらあやしても泣き止まない。オムツも乾いている。いくらおっぱいを近づけても腕で押し返し、顔を背ける。

 アパートであやしていたときよりも、ずっと声が大きく響く。部屋が広ければ大きな声で泣いていいとか考えるのだろうか。腕が怠すぎて少し台に座らせようとすると、気配を察知してさらに声が大きくなる。泣き声と耳鳴りを聞きながら、私は台所と食卓と居間をただひたすら歩き回る。

 食卓テーブルの上にある金魚鉢。私はそれを片手で掴み、テーブルの上に灰をぶちまけた。ボトボトと吸い殻がテーブルを転がり、広いテーブルは途端に灰色に染まる。細かな粉が宙に舞う。

 一向に泣き止まないみちの頭に金魚鉢を被せた。するとみちは一瞬だけ泣き止み、ガラス越しに目を合わせ微笑んだ。金魚鉢を被るみちは宇宙飛行士みたいで、ああ、エイリアンっぽくていいじゃん、と満足する。

 すぐに金魚鉢の中は呼気と煙草の灰で薄灰色に曇る。みちは再び泣き始めるが、泣き声がガラスに覆われて、比べ物にならないくらい静かだった。泣くのを止め、ぐったりと身体から力が抜けたみちを、そっとバスタオルの上に戻す。

 煙草に火をつけて思い切り吸い込む。この一、二年で一番美味しい。テーブルの上に灰を落として、バスタオルの上で眠るあの子を眺める。目を閉じて静かに眠るあの子は可愛かった。

 私はギリギリまで吸った煙草をテーブルに押しつけて消すと、照明を消してソファに横になる。好きなだけ眠れる夜を抱きしめる。



どうも。幽霊部員です。3月ぶりです。退部してないつもりです。許して。

テーマは「金魚鉢」。

昨今では金魚鉢の中にお花を飾ったりするアレンジもあるみたいです。

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