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【掌編小説】エキストラ

(読了目安5分/約4,100字+α)


 耳鳴り。頭痛。眩暈。吐き気。

 もともと体が丈夫であった俺にはわからないが、今の状態を言い表すにはそういった言葉が近いのではないかと、黒ずんだ天井を眺めながらぼんやりと考えていた。

 とにかく頭の中が煩い。モーター音のような低い騒音である。

 認めたくないが原因はわかっている。孵化だ。

 俺はベッドから起き上がると2週間ぶりにカーテンを開ける。窓ガラスのサッシには、以前、隙間が出来ないようにガムテープを張り、そのままだ。白っぽく汚れ見えにくいガラス越しに道路を眺めるが、当然ながら歩いている人など誰もいない。車もいないし、どうせ地下鉄も止まっているのだろう。これがかの東京だとは、笑える。

 昨日の夜からそのままにしてあった、解凍した食べ残しのピザを手に取りかじりかけたが、止める。こうやって摂取したカロリーがすべてあいつの栄養になると思うと食欲が失せた。それよりは胃腸薬でも下剤でも飲んでやりたい。それで発育阻害とかになって未発達の中途半端な生き物にでもなればいい。

 足元でクシャクシャになっていたTシャツを着ると、無精髭をなでながら住み慣れたアパートを出た。もうこの部屋には帰ってくることはないだろう。そして誰かが入ることもない。

 建物から出たところで携帯も持っていないことに気がついたが、必要もない。

 日常ではあり得ない、閑散とした麻布の車道を横切る。中央線をブーツのつま先で軽くたたくと、久しぶりに朝の冷え切った空気を肺に充満させる。

 空気中にはヤツの飛ばした卵が飛散しており、体内で孵化し人間の内臓を食らい成長するという。そんな情報さえなければ、森林浴でもしているかのような爽快な気分だ。人も車も音楽もない奇妙な静寂の中、唯一の音声源は俺の頭の中の騒音だけだった。

 目に映ったドラッグストアに進行方向を定めると歩を進めた。せっかくだ。初志は貫くことにしよう。

 電力が止まって何日になるだろうか。当然、自動ドアは反応しない。中を覗くと、電気がついていないためよくわからないが、人はいない。いや、別にいたところで大して問題ではない。

 俺はドアから少し離れると、軽く屈伸をして息を吐く。そして再び息を吸うと思い切りガラスを蹴る。

 ガラスは映画のワンシーンのように蹴破った足の上に降りかかる。

 少し後ろにバランスを崩しつつも口笛を吹く。

 ガラスを蹴破る経験なんてそうすることはない。軽い昂揚感を落ち着けるように頭を掻くと、中へと踏み込む。

 警報は鳴らない。鳴ったとしても駆けつける警備員なんていない。

 店内は荒れていた。棚棚に並んでいたであろうものはほとんど床に散乱し、足の踏み場が無い。

 例のモノがテレビやネットで取り上げられた直後、国中がパニックに陥った。初日は買いだめをする人々が長蛇の列を作っていたが、3日後には暴動と強盗に変わっていた。俺みたいに、適当な薬で撃退できると信じてドラッグストアにも押し入ったのかもしれない。

 押し倒された棚の下から生ぬるいミネラルウォーターと適当な胃腸薬を見つけると、その場で数粒取り出し口の中へと放り込む。ついでに他の薬も飲んでみようかと思ったが、風邪薬など無駄に栄養素の入ったものが大半なので他のコーナーを歩く。

 よくよく考えてみればドラッグストアで体に悪いものなんて売っているはずはない。しかたなくペットボトルを捨て、割れた入り口のガラスを踏みしめた。

 行く当てもなく、ただ普段は通ることのなかった道を選んでいた。

 何年ぶりにか空を仰ぐ。鉛色のどんよりとした雲が、今にも落ちそうに漂っていた。その雲と俺の間を大きな黒い影が横切る。宿主は襲われないとかいう情報は正しいらしい。街中を一人歩く食料に見向きもしない。

 俺は身をよじるようにしながら、声をたてて笑う。自分の部屋で缶詰になっていた今までが嘘のようだった。

 死ぬまでに与えられた数時間の自由だ。満喫しないわけにはいかない。だが実際与えられてみると何をしていいのかわからなかった。

 物心ついたときには小学校に通っていて、それから親の言うとおり中学、高校、大学を出て、内定をくれた企業に就職。今まで散々指示されて義務に流されてきて、今更自由だといわれてもどうしようもないじゃないか。

 ベルトコンベアーに乗って出来上がる俺たちに、自由なんてものは手持ち無沙汰だ。何かの弾みでその流れからはじき出されたら、もう一度戻ろうとするだろう。だが、一度通り過ぎたその場所に戻ることはできないし、その場所以外に、目の前を流れるベルトコンベアーには、乗れる隙間はもう現れない。



 どのように歩いたのかは、もはや覚えていない。気がつけば、木に寄りかかっていた。見回してみればなんてことはない。芝公園だ。そんなに歩いたわけではないようだ。

 木々の間から背の高いビルがのぞいている。周囲には普段は健康のためにジョギングをしている人を何人か見つけるのだが、今はだだっ広いだけ。当然だ。今、健康のためにできることはといえば、家から出ないことなのだ。

 しかし、意外にも先客はいた。サラリーマンだ。自分のカバンを胸に抱くようにして持ち、背中を丸めてベンチに腰掛けていた。

 俺は声を立てないように笑った。それはリストラされ家にもいられなかった父親のようだったからだ。

 感染し、家族に迷惑をかけないように出てきたのか、家族に追い出されたのか。息をしているのかいないのか、微動だにしないその男を、向かいのベンチに腰をかけ観察していた。スーツにはしわがよっていて、すでに長い時間座っていた様子だ。

 公園にサラリーマン。日常的な光景だった。

 大抵、どこの公園のベンチにもリストラされたサラリーマンの一人や二人が小さくなって座り、夕方になると何事もなかったように家へと帰る。いつかはバレるのに自分の口からは白状できない、情けない人種だ。

 木々が風を受けそよぐ。くすぐったいような音が俺を囲んでいた。NHKの教育番組でしか聞くことのなかった音だった。この汚い世界には勿体ないほど澄んでいた。

 そういえば頭の中の音が止んでいる。ネットに流布した話を信じれば、俺の残り時間がほとんどない、ということになる。

 その時間でしたいこと。俺の頭に浮かんだのは、元凶に会いにいくことだった。近寄るなと言われたところに、あれはいるのだろう。どうせこのまま不条理に死ぬのなら、その原因くらい見ておいてもいいだろう。

 両膝に手をつき、反動で立ち上がる。その途端、風のせいなのかサラリーマンの体は横へと倒れた。重たそうな音はせず、ただ丸めた画用紙が倒れるのに似ていた。別に不思議なことではない。彼は宿主だったのだ。

 俺はあたりを見回し、目的の建物を探した。ここからはちょうど死角になるらしい。あるであろう方向には雑居ビルが立ち並び、景観を損ねていた。

 歩きながらいろいろなことを考えた。昔のこと、今の自分のこと、会社のこと、家族のこと、学生時代の友人のこと、半年前に別れた彼女のこと。

 俺の人生にはいくつもの分かれ道があって、そのうちの7割は正しい方を選んだと思う。もちろん、そのとき反対を選んだからといって、今の生活が変わっていたとは限らない。だが変わる可能性はあった。

 別にこの暮らしが満足できなかったわけじゃない。そうだ、不満なのは今、なのだろう。俺の今は選択肢無しで突然やってきた。いや、細かく言えばあったが、それは死を選択することを先延ばしにするという選択だった。それも宿主としての死だ。

 東京がパニックに陥ってから10日以上は経つ。結構延ばしてきた方だろう。だが国が、警察が、どこかの正義のヒーローが、化け物に打ち勝つ未来はまだ来ない。特殊兵器とかが開発されて人間が生き延びる未来があるのだとしたら、俺はこの状況の悲惨さを伝える可哀そうなモブキャラの一人だ。

 淀んだ雲を貫くようにそびえる、赤い鉄骨が見えてきた頃には、他の人の姿が見え始めた。数人だが年齢は様々だった。

 立ち止まっていた俺のすぐ横を中学生くらいの女が行き過ぎる。右足の次に左足を出すというルールだけを守って、体を不自然に揺らしながら前進していった。

 全員の不透明な瞳は東京タワーの真下中央を捉えている。そこにいたあいつは、俺の予想をはるかに超えていた。

 大きい。そしてある種の威厳を放っていた。

 半透明にも見える腹部には緋色の縞が幾重にもあり、胸部は太陽の光が反射するほどの漆黒だ。頭部にある大あごは通常よりも発達し、優美とまでいえる曲線を描いている。そして、何よりも目を惹くのが翅だった。少し動かすたびに虹色に輝き、目を逸らすのを拒みたくなるほどの美しさだった。


 ……美しい?

 あのグロテスクな化け物のどこが美しい?

 威厳などあるものか。これは、恐怖だ。

 それでも化け物へと近づく自分の足を止められなかった。

 俺の脚は骨折を無視して歩いているような歪な歩き方をしていた。俺の意思に反して動く足のせいで、上半身が必要以上に揺れる。

 突然、俺の前を歩いていた女子中学生が地面に膝をつく。そして背を丸めると、彼女の小さな体はその中央から二つに割れた。そこから小刻みに震える蜂の頭部が現れる。

 羽化していく化け物を見ながら、俺は腹からこみ上げる笑いを我慢しようとはしなかった。

 そうだ。俺たちはもう化け物なのだ。

 タワーに巣くう女王に会いに来たのは、すでに俺の意思ではなかったのかもしれない。

 寄生した化け物は俺のすべてを食料にするんじゃなかったのか?

 どうして脳を食べない?

 発育が阻害され中途半端な生き物になってもいいのか?

 ああ、だが所詮俺の脳だ。食べたところでお前が進歩するわけでもないだろう。逆に食べなくて正解だったかもしれないな。

 俺はついに足を交互に出すことさえもできなくなる。何もない地面でつまずき、両膝と右手をつく。そこからはもう血がにじむこともなければ、痛みもない。

 次第に暗くなっていく視界で最後に見たのは、冷ややかに見つめる女王の瞳だった。

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小野不由美の十二国記シリーズで出てくるキャラクターが、「その数字の意味が分かっているのか?それは物の数じゃない、人の命の数だ」というようなセリフがあります。(うろ覚えなので正確ではないです)

感染者数とか重傷者数とか死者数とか、色々な数字を毎日耳にしますが、人の数なんだよなぁと、時々思います。

今回の話は、映画で言えばエンドクレジットの最後の方に出てくる、読み切れないレベルで名前が羅列されている人。または「〇〇市の皆様」とひとくくりにされる人のイメージです。彼らも人の数。その数だけ人生があり、家族も思い出もあり、懸命に生きている人たち。

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