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[掌編小説]隣の猫

(読了目安5分/約3,230字)


 「最近の若者は本を読まないくせに小説を書こうとする」と嘆く作家は大勢いる。もちろん「最近の若者」の中でも大変な読書家はいるのだけれど、確かに私は本を読まない。

 ほとんど本を読まない私の場合、本を読むときには必ず「さあ、読むぞ」と気合いを入れ直すのだ。気合いが入らなければ、すんなりと本を手に取ることができないのだ。幼い頃から活字に触れあっておくことが如何に大切だったのかと今になって思い知らされている。

 だが、思い知らされたからといって本がすらすらと読めるようになるわけではない。私は著名な作家たちが憤慨する、典型的な「最近の若者」なのである。そして案の定、ネタに困るのである。

 どうしたものかと、テレビのチャンネルを回してみたり、飾ってあったぬいぐるみを向かい合わせに置いてみたりと、ドラマを探しながら家の中をうろうろと不審者のように歩き回るのだが、物語は動き出しそうにもない。

 きょろきょろと辺りを見渡しながらゴミ袋の口を閉じ、ドラマドラマと呟きながら勝手口から外へ出る。すると隣家の塀のちょうど腰のあたりからだろうか、一条の西日が我が家の細い裏道へと差し込んでいた。

 塀に空いた小さな穴へと何気なく手を伸ばすと、まるでその穴からたぐり寄せているように古い記憶が鮮やかによみがえってきた。

     *  *  *

 家の西側にあたる勝手口は、ほとんどいつも薄暗い。

 南北に延びる細い通りは、人一人がギリギリ渡れる幅のコンクリートが打ってあり、その横には蓋のない排水溝、隣家との境界となる高く作られた塀が延びている。

 東をわが家の壁、西を境界塀で塞がれ、上空を長く突き出した庇で遮られているため、たいていどの時間帯でも薄暗いのだ。

 幼い頃はその道を通るのが恐ろしく、必ず誰かの後ろにくっついて行ったものだが、小学校の高学年にもなると、さすがに暗いだけでは怖いとは思わなくなっていた。

 忙しそうに台所で働く母親に頼まれ、生ゴミを入れたゴミ袋を勝手口から捨てに行ったとき、隣家の塀のちょうど肩のあたりからだろうか、我が家の暗い細道に明褐色の光が注ぎ込んできていた。

 普段手伝わされないように逃げていたのでまったく知らなかったのだが、コンクリート製のブロックとブロックの間に、足の小指の爪ほどの小さな穴があるのだ。塀を作ったときにセメントの詰め方が甘かったのか、それともできあがった後に自然の何かが穿ったのか、原因はまったくわからない。

 光の漏れている穴は目の高さよりは少し低めで、排水溝に落ちないように気をつけながら、塀に両手をついて私は穴へと目を近づけた。小さく細長い穴だったからか、のぞき込むと望遠鏡のように向こう側の風景がはっきりと切り取られて目に映った。

 ちょうどその穴に収まるように、こちら側を向いて前足を伸ばして座った、白と黒の毛をした猫。金色の虹彩に映える黒い瞳と目が合ったとき、驚きのあまり私はとっさに仰け反った。

 倒れそうになった身体のバランスを取り戻すと、全身にどっと汗をかいたのを覚えている。特に何も考えずに人の家を覗き、それを猫に見られてしまったのだ。私は後ろめたさからすぐに家の中へと逃げ込んだ。

 居間へ帰ると、私は力が抜けたようにそのまま座り込んでしまった。そして一瞬だけ見えた光景を思い出そうとした。塀の向こう側には、庭を挟んで隣の家の縁側があるはずだ。目の高さが同じくらいだったのだから、その縁側の上に座っていたのだろう。私はあの冷たく金色に光る目を思い出し、身を震わせた。


 その頃は季節柄、夜になると猫の鳴き声が聞こえた。

 私はその声が到底猫の鳴き声だとは思えず、近所に赤ん坊が捨てられたのではないかと不安になった。そのことを母に伝えると、

 「あれは猫よ。たださかりがついてるだけじゃないの」

 とさして気にもならない様子で教えてくれた。

 確かに言われてみると、猫の鳴き声のようにも聞こえてくる。だが、ただ鳴いているのとは違い、何かを訴えるように、怒っているように、喉が嗄れそうなほど鳴き叫んでいるのだ。

 私は穴から見えた猫の目を思い出して鳥肌が立った。当時は「さかり」の意味をよくわかっていなかったからだろう。私があのとき覗いていたことを、あの猫が他の猫に伝えているのではないかと不安になったのだ。

 その日から私は近所で猫を見かけると、この猫は私のことを知っているかもしれないと思い、隠れるようにしてその場を離れた。家の裏にある細長く暗い道も出来るだけ通らないように生活し、通らなければいけないときは、威圧するように迫る隣の塀から目を逸らすようにして歩いた。

 それからすぐ、私は不可解な事実を聞くことになった。

 「猫?○○さん、ペットなんて飼ってたかしら?」

 話が隣の家のことになったときに、私はあの猫について尋ねたのだ。だが、母は唸りながらコーヒーをすすった。

 私は近所の方々の顔をよく覚えておらず、家族構成や人によっては名字さえも把握していない。町内会などへ出席するのは母で、持ち前の明るさから近所の情報に精通していた。

 さらに母は無類の動物好きで、散歩中の犬でも見つければ、必ず頭を撫でに駆け寄って行くほどだ。それほどの動物好きが隣のペットの存在を知らないなど考えられなかった。それに縁側で座ってくつろいでいたのが野良猫だとは到底思えない。

 母はずっと黙っていたが、コーヒーが無くなる頃に、顔を上げて私と目を合わせた。

 「そうそう。隣の奥さん、たしか動物アレルギーだって聞いたことがあるわ」

 その話を聞いた夜から、私は何夜か連続して穴を覗く夢を見た。覗いた先には毎回猫の顔のアップがあり、蔑むように冷めた金色の目に押し返され、全身汗だくで飛び上がるように目が覚めた。

 現実に覗いてみれば、何かが変わったかもしれない。しかしそんな勇気など持ち合わせておらず、ただ毎晩、夢を見ませんようにと願いながら床についていた。


 悪夢にうなされ、どうにかならないものかと悩んでいたとき、

 「ちょっと、回覧板渡してくるから」

 と言って家を出ようとしていた母に、私は慌ててついていくことにした。穴から覗くよりも正面から向かい合った方が怖くない上に、一人ではないのだ。

 母がインターホンを押して待っている間、私は手入れの行き届いた庭を鑑賞するように見せかけながら猫の姿を探した。辺りを見回しながら慎重に庭の中へと入ると、例の猫を見つけた。

 穴から覗いて見えた時と同じ場所に、同じように前足をピンとのばして座っている。金色の目を塀の方へ向けて微動だにしない。私はその猫に近づき、つるりとした陶器製の頭をそっと撫でた。ほぼ等身大の猫の置物だった。

 「あら、猫好きなの?」

 と、いつのまにか後ろにいたおばさんに声をかけられ、私は驚いて叫びそうになったのを堪えながら、言葉を濁した。

 「私ねぇ、猫が大好きなんだけど、アレルギーがあるらしくって鼻水が止まらなくなっちゃうのよ。そのことを娘たちが知ってるもんだから、よく猫グッズを送ってくれてね。今じゃ、うちもなかなかの猫屋敷なのよ」

 大きな向日葵の描かれた真っ赤なTシャツを着たおばさんは、豪快に口を開けて笑った。

     *  *  *

 今、穴を覗いてもあの白と黒の陶器の猫が見えるのだろうかと、私は興味をそそられた。しばらく立ち止まって、ジーンズを照らす小さな橙色の光を見つめていたが、やがて心の中でこっそりと謝った。左右を確認すると、小さな穴の両脇に手をついてゆっくりと腰を屈める。

 その途端、おばさんの怒鳴り声が響いた。癇癪持ちなのか、ときどき我が家の中まで聞こえてくる、あの声だった。

 私は思わず仰け反り何とかバランスを取り戻すと、思わず吹き出しそうになるのを必死で堪えた。そして、光の漏れている穴に砂利を詰めると、家の勝手口の扉をくぐり、そっと閉めた。

#猫と創作

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