主体たる命たちⒾ
信用?信頼?
直前の記事では哲学を高めるべく捉懇へ着地した。
哲学しない人たちが日本の地に毎日入ってきてる!
これを危機と捉えるか好機と捉えるか‥如何です?
今回の記事はこんな展開でまいりたいと思います。
上記文をAI搭載チャットはどう評価するだろうか?
一般常識にない文に✘ダメ出し✘ するのでないか?
則ちAI機器の類いは能弁思想下で運営されている!
私は訥弁の卑弥呼と呼んで雄弁の側に配している!
能弁に毒されると過去に囚われて未来を語れない。
卑弥呼は訥弁(≒ 過去)に囚われただろうか? 否々。
哲学しない人たちをそのまま放っておくか?否々。
AIに及ばない能弁の者を増やしつづけては駄目だ!
現在を捨てるか?未来を捨てるか?だから捉懇だ!
捉懇は現在重視の真の宗教哲学の場にちがいない!
いつも主体者( ≒人間) と共にある真は心地が良い!
独裁者に似てる? 独裁者の日々は居心地が悪いぞ!
偉ぶってる奴とは速やかに縁を切るのがベターだ!
良くしようと決めたなら一生かけて見守っていく!
それは大変な作業であっても見捨ててはならない!
しかもその作業を独りでこなすのは並大抵でない!
だからこそ真の切磋琢磨には意味があるのだろう!
主体者・人間に真が具わるとき爆発的に力が出る!
この爆発の威力にいちばん吃驚するのは当人かも!
一気に成長していく醍醐味を両者ともに味わえる!
当然といえば当然だが、醍醐味は当人だけが知る!
この記事を信用するのもいい、信頼するのもいい!
口真似ぐらいAIでなくて能弁の使い手でもできる!
紙芝居屋のおっちゃんは飴を無理強いしないだろ?
本気の哲学の徒は無償で近づいてくるのでないか!?
今回はこの辺りで!次回もよろしくね。🙇(筆名.ぞっこん)
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