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都立大ブルース


街に感謝を告げるのは、3回目だった。


1度目は留学で行ったオーストラリアのサンシャインコーストという田舎町。5ヶ月間現地の学生と寮で暮らした。海と空と、あとはカンガルーだけがある町だった。

2度目は生まれてから22年間を過ごした京都。全てが詰まった場所を、就職で手放した。


そして2020年7月、都立大での2年4ヶ月の生活が終わろうとしていた。
京都からでてきて、最初に選んだ街だった。
縁と運で出会えた、いつのまにか思い出にまみれた街だった。


東横線。なんとなく聞いたことがあった。わりとハイソめな路線だという印象。
別にこの路線や街にこだわりがあったわけではない。神谷町にオフィスがあって、通勤時間を出来る限り短くしたかった。睡眠時間がなによりも大切なのは、あの頃も今も変わらない。あとは、通勤電車もこわかった。

学芸大にある地域の不動産屋さん。そこで若い男性の店員さんから紹介された、7万3000円の1K。築32年、3点ユニット、日当たりは悪くて、オートロックなんてもちろんない。それでも中は、きれいに整えられていた。

人生ではじめて、自分で住む街を決めた瞬間だった。



都立大と名のつくこの街には、大学はなかった。昔の名残りらしく、隣駅の学芸大もおなじだった。
立派なお家が多くて、外車がとまっていた。
幼稚園の制服を着たちいさい子に、よくでくわす街だった。


駅前には最低限の設備。割高なTokyu Store。肉はハナマサで1kgのまとめ買いをした。サカナバッカは5回ぐらい入ったけど、結局買ったのは1回だけだった。

ラーメン屋は4つあった。(本当はもう少しあるのだけど、1度も行かなかった。)
なかでも武士道に、ある時期は毎週のように通い詰めた。社会人になってからの激太りの戦犯は間違いなくこいつだけど、それでもやめられなかった。

社会人になってから、1人でよく飲むようになった。鳥貴族に何回もいって、店長さんに顔を覚えられた。人数の確認をほとんどせず、カウンター席に通される。
メガハイボールは100杯以上飲んだ。鶏皮は200本以上食べた。よく考えれば、こっちも戦犯だと思う。


家は坂の上にある。だから自転車は使い物にならない。真っ暗な帰り道、静かな高級住宅街を、ある日は軽やかに、ある日はとぼとぼと、ある日はふらふらと、何百回も歩いた。

感情は吐き出されることなく、ゆっくりと街に受け止められた。街がみせる表情は、いつだって自分の内側の写し鏡だった。


休日は自由が丘まで歩く。都立大より何倍か栄えていて、住みたいとは思わないけれど、大好きな場所だった。
お花を買って無印をのぞく。土曜日の鉄板お散歩コース。


7月4日、都知事選の前日。
今日も何かを噛み締めて、いつもの坂をのぼる。
何百回も歩いたこの道を歩くのも、あと数えられるくらいだ。

何度も口ずさんだ丸の内サディスティック。歩くのにちょうどいいリズム。僕が東京ときいて思い浮かべたあの曲の世界は、ここでは味わえなかった。

でも、都立大で過ごした2年間こそが、僕にとっての東京だった。


そういえば引っ越したてのころ、安いギターを買った。新しい趣味が欲しかったのだけれど、結局まったく弾けずに、いまではインテリアと化している。

もしあのとき頑張って練習していたら、今頃アドリブでフレーズなんて弾けたりして、ちょっとエモい歌詞なんて口ずさんでいるのだろうか。


それは次回の、何年後かわからない引っ越しのときまで置いておくとして、今日は文章で書き連ねよう。

都立大ブルース。

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