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[短編小説]えがお、ひとつぶ

電車が走り出した。

ぎりぎり、間に合ってよかった。この電車を逃すと30分待つ羽目になるから、危なかった。
空いてる席を見つけて、座った途端に無意識にため息が出た。

もうすぐ社会人になって3年が経つ。いっぱい働いて、会社のために頑張ろうと意気込んでいた3年前の自分は一体どこに行ったのだろう。
今の僕は、残業続きの毎日に、うんざりしている。太陽がまだかろうじて出ているこの時間に帰れるのは、何日ぶりだろうか。

どこかに遊びに行った帰りと思しき女の子とその母親らしき女性の姿を見て、今日が日曜日であることに気づいた。曜日なんかどうでもよくなるくらいに、毎日毎日働いている。心底、疲れていた。

電車が駅を1つ通過した。

もう一度ため息をついて、窓の外を見るともなく見ていると、静かな車内の空気を切り裂くような高い笑い声が聞こえてきた。声の方を見ると、先程の女の子が騒いでいた。隣の女性があたふたしながら「静かにしてっ」と声をかけているが、女の子は一瞬静かになったあと、またすぐ騒がしくなる。

正直イライラした。女性は周りに「すいません」と謝りながら何度も女の子に注意を繰り返している。なんでもっと強く怒らないのだろう。しかし、ここでそのイライラをその2人にぶつけることは、できなかった。そんな勇気もないし。今の時代、そんなことしたらネットで叩かれて終わり。

イライラすればするだけ、自分が疲れていくのがわかって、窓の外にもう一度目をやった。聴覚と意識は車内に向いていたから、大して効果はなかったけど、それには気づかないふりをした。

電車は、僕が降りる2駅前まで来ていた。

女の子の声はようやく落ち着いたようだった。疲れたのだろうか、と思い目をやると、女の子とばっちり目が合った。僕はすぐに逸らしたが、その子はずっとこちらを見ているようだった。一体なんなんだ。新たなイライラが湧き上がってくるのを感じ、また目を窓の外に向けた。窓に映る女の子は、やはりこちらを見ていた。

少々滑舌の悪い車掌の放送が、僕が降りる1つ前の駅にそろそろ着くことを伝えた。

すると、女性が女の子の手を引いて立ち上がった。僕は、やっと降りてくれる…とため息をついた。女性はドアの方に歩き出そうとしたが、女の子はそれには従わずに、なぜか僕の方へと来ようとしていた。女性が「ほら、こっちだよ」と手を軽く動かしたが、女の子はそれを振りほどいてついに僕の目の前に立った。

女の子は背負っている小さなピンクのリュックの中をごそごそと探した後、何かを取り出し、小さな手に握りしめて僕に差し出してきた。受け取れ、ということだろうか。断ると面倒だということは今までの経験上わかりきっているので、受け取った。

僕の手に乗せられたのは、赤色が綺麗な、個包装の小さな丸い飴だった。

「それ、おにいちゃんにあげる。りんごあじ!」
と元気にその子は言った。
「…なんで?」と聞くと、
「おにいちゃん、とってもつかれたおかおしてるから。いつもおうちで、おかえりのぎゅーするまえの、ぱぱとおんなじおかお。だから、みーちゃんのあめたべてげんきだして!!あ、みーちゃんってのはね、あたしのおなまえ!!」
と満面の笑みで答えてくれた。

胸がじんわり温かくなるのを感じた。こんなに無邪気で優しい子に対して、イライラしていた自分はすごくダメな大人だ。

僕がなにも答えないから、女性が慌てた様子で「すみません!」と謝ってきた。僕も慌てて、「こちらこそすいません」と言った。そして、目線を下げて、「ありがとうね、みーちゃん」と言った。するとみーちゃんはまたにっこり笑った。

電車が止まり、ドアが開いた。

女性はみーちゃんの手を引き、こちらにぺこぺこと頭をさげながら電車から降りていった。

ドアが閉まり、風景が動き出す。いまだに頭をぺこぺこしている女性の隣で、みーちゃんは大きく手を振っている。僕も女性に頭を下げつつみーちゃんに手を振った。

僕は次の駅で降りた。

改札を出て飴を口に含むと、りんごの味とみーちゃんの優しさが、緩やかに甘くとろけて、僕の心を満たしていった。

まるで魔法のように、疲れが取れていった。

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