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詩32「流砂」

※第32回詩と思想新人賞の第一次予選通過作品に残していただきました。
ありがとうございました。
作品を公開します。そっと。


流砂

展覧会に来ていた、時間があったので。こつこつ音のする靴はマナーに反していると知っているけれど申し訳ない、そっと歩く。薄暗い展示室に入ると眠りの空気が満ちていて、よく見ると監視員の女性が船を漕いでいた。恋人宛の詩のメモ帳を広げている。宗教画の展示のようだった。あらゆる時代の受胎告知。聖母子像。ゆっくり見て回る。同じモチーフでも、構図も画材も違っている。ひとつ、その聖母子像の中にわたしの生まれなかった子供を見つけた。監視員を見た、眠っている。わたしはもっと近くに寄った。

綺麗な臍をしている。

わたしの子は臍の緒を切る前にいなくなった。

小さな爪が生えている。

わたしの子は指すら分かれていなかった。

その絵が欲しくて欲しくてたまらなくなった。その絵が見える椅子に腰掛けた。わたしの愛しい子。いとしいこ。その子がいた頃わたしは月と繋がっていて、波が引くたびにお腹ごと持っていかれそうな痛みを感じた。いなくなったのは、いつだったろう。父親は、誰だった?

椅子が砂になっていく。

わたしから切り離されたものは、足の付け根から流れたものはなんだ?血の塊の記憶はなんだろう。わたしの愛しい子はそこにいる。眠りの空気が頭を霞ませる。

沈んでゆく。

監視員に助けてと言った。手を伸ばした。監視員は立ち上がったがこちらに来る様子もなく歩いて行った。お腹が光っていた。ああ、あの人は妊娠しているんだわ。思った時、全ての受胎告知のガブリエルがいっせいにこちらを向いた。

流砂の中で靴が脱げる。圧迫される。まるで産道を降りていくような。それは淡い期待。


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