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向こうにあるもの

小説
テーマ『スクリーンセーバ』

 見に行きたいね、と話していたのに行きそびれた映画がプライムビデオで配信がはじまったから、僕の家で一緒に見ることになった。彼女は昼前には来たけれど、やり残した仕事があるからとノートパソコンをリュックサックから取り出して、まずはそれを片付けてしまいたいと言った。彼女はソファに体育座りのような格好で座り、膝にパソコンを置いて、素早いタイピングをしていた。その体勢でよく集中できるものだと感心した。

 僕は取り立ててすることがなかったので、彼女の邪魔にならないようになるべく距離を空けたところに椅子を置いて文庫本を読んでいた。窓からは柔和な日差しが差し込んでいる。部屋の中は優しい光と小気味のいいタイピング音に包まれていて、完成された空間のように漠然であるが思えた。

 しばらくすると彼女は銀行に振り込みに行かなければいけない、と足早に部屋から出ていった。彼女は出ていく間際、僕に申し訳ないような表情を見せ、これが終わったら見られるから、と言った。テーブルの上にノートパソコンが開かれたまま置いてあった。僕のいる場所からは背面の欠けたリンゴのマークが見える。彼女がいなくなってからしばらく本を読んでいたけれど、飲んでいた麦茶が空になっていたので台所まで行こうと立ち上がった。

 視界の片隅に彼女のノートパソコンのディスプレイが見えた。僕はそのまま台所に進もうと思ったけれど、何か胸に引っかかるものがあって、またディスプレイに目をやった。するとディスプレイ上には先ほど僕が捉えたものは表示されておらず、代わりに真っ黒の背景に白い文字と欠けたリンゴのマークが表示されていた。この一瞬の隙にスクリーンセーバーが開始したのだろうか。もしかしたら何か気になるものが映っていたような気がしただけで、はじめからスクリーンセーバーが映っていたのかもしれない。

 僕は台所に行き、タンブラーに麦茶を注いだ。気にしないようにしていたけれど、どうしても彼女のノートパソコンのディスプレイのことが気になって仕方がなかった。これだけ胸にしこりを感じるのであれば、確かに何かを見たのだ。それがスクリーンセーバーでかき消されてしまっているんだ。

 僕は考えた。おそらくトラックパッドに軽く触れたり、キーボードをタッチするだけでスクリーンセーバーは解除される。それをするだけで胸中のしこりは取れるのだろうけれど、スクリーンセーバーが再び開始しなかったら、僕が彼女のノートパソコンを勝手に操作したということに気づいてしまうかもしれない。もしスクリーンセーバーが再度開始するようであれば問題はないのだろうけれど、近所の銀行から僕の家までの距離を考えると時間的に微妙だった。

 どうせ大したものを見たわけではない。そう自分に言い聞かせて、僕は椅子に座り直し、また文庫本を開いた。文字を目で追っていくけれど、まったく頭に入ってこない。単語の意味は理解できる。しかし文章になると途端にわからなくなった。単語と単語がそれぞれ独立して、組み上がらずに頭の中を泳いでいる。しこりが段々と膨らんでいく。それは明確な質量を持っているかのようにさえ感じた。

 僕は決心した。彼女のノートパソコンを覗かせてもらおう。きっと彼女が帰ってくる前にまたスクリーンセーバーが開始する。そうだ、何か用事を頼んでおいで時間稼ぎをしたらいいかもしれない。そもそもノートパソコンを閉じてしまえばいいのではないか。彼女の設定はわからないけれど、おそらくスリープに入るだろう。わざわざそうするなんて怪しい気もするから適当に理由を見繕わなければいけない。どうにでもなる気がしてきた。

 僕は彼女のノートパソコンの前まで生き、白い文字と欠けたリンゴを見た。彼女に聞こえるはずもないのに物音を立てないぐらいのゆっくりとした動作で手を伸ばす。そしてトラックパッドに触れる。

 画面は瞬時に切り替わり、デスクトップが表示された。そこにはテキストエディタのウィンドウが浮かんでいて、こう書かれていた。

「やっぱり君は見るんだね」

 僕は全身を針で刺されたように固まってしまった。これはたぶん僕に向けられたメッセージだ。やっぱり、とはどういうことだろうか。確かに彼女のスマートフォンを何回か勝手に覗いたりしたことはあるけれど、ノートパソコンを見ようとしたのははじめてだった。彼女は僕のことを試していたのだろうか。僕をどういう人間だと思っていたのだろう。

 身動きが取れなくなって固まっていると、玄関の方向からドアノブを回す音が聞こえた。

著:早尾(https://twitter.com/haya_toma


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