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それぞれの意味

小説
テーマ『生命線』

 肌と肌を通して、彼女の身体の熱を感じる。心臓が一定のリズムで鼓動して、きっと彼女の身体のなかではきちんとした生命維持活動が行われているのだろう。彼女は生きている。不意に胸元にむず痒いぐらいの刺激を感じた。布団をあげて見てみると、彼女がそこに指で丸く円を描いていた。何周もぐるぐると同じ軌跡をたどっている。

「何をしているの?」

 僕がきくと、彼女はいたずらをしていることがばれた子供のようにあどけなく笑った。

「ほら、言うでしょう。雨垂れ石を穿つって。こうして何度も同じところをずっとなぞっていれば、私がいたことがあなたに刻み込まれるんじゃないかって思って」

「そんなことしなくても」

 言いかけたけれど、そのあとの言葉を口に出すのが恥ずかしくなったから、僕はそこで言葉を区切った。彼女は僕が何を言おうとしていたのかにたぶん気づいていて、一瞬だけ満足そうな表情を浮かべた。

「私はあなたがいてくれるから、生きていられるよ」

 彼女はそう言ってから、その返答を待たずに僕の胸元から指を離して目を閉じて眠りについた。それを見てから僕も目を閉じた。

 彼女とはじめて出会ったのは、大学に入学してからすぐに行われた新入生歓迎コンパだった。体育系のサークルで、僕はそのサークルに指先ほどの興味もなかった。おそらくそれはそこに訪れたほとんどの人も同じで、大多数の目的はこれから先の大学生活でひとりで孤独に過ごさないよう友人を探すためであった。とはいえ大学生活でずっと行動を共にしていたのは入部したサークルにいた同期ぐらいで、その新入生歓迎コンパで知り合った人のうち今でも親交があるのは彼女だけだった。

 今では店名も場所もさだかではない繁華街の奥まったところにある地下の居酒屋を貸し切って行われたそれは、この上ないほど退屈な飲み会だった。会場は広く、いくつものテーブルが並び、椅子はなかった。より多くの人を会場に入れるために立食で行ったらしい。

 その新歓では参加している人の名前がわかりやすいようにと胸元にガムテープを貼って、そこに自分が呼ばれたい愛称をマーカーで記すことになっていた。それは新入生か在校生かを判断するためでもあった。新入生は黄色、在校生は水色のガムテープ。はじめに適当にあてがわれたテーブルを囲む新入生の胸元には、「山さん」「ノリ」「ぱーやん」「しーちゃん」などと書かれていた。男性側は今まで呼ばれてきた愛称で、女性側は自分の下の名前をそのまま書いていることが多かった。僕は取り立てて呼ばれたい愛称がなかったので名字をそのまま書いていたのだけど、そのような状況のなかでは浮いてしまっていた。自意識の強さを露呈してしまっているようで羞恥の念が胸を占めていた。

 ぱーやんと呼んでもらいたい男性は、頭の上にウィッグをそのまま乗せているような不自然な金髪をしていて、身振り手振り激しく自分の愛称の由来について語っていた。ここにいる人たちは全員初対面なはずなのに、「ぱーやん、まじ面白いって」とまるで旧来の友人かのように接していて、その空気感にどうも具合が悪くなりそうだった。ぱーやんの由来については覚えていない。説明する必要がないほど陳腐で、笑いどころがまったくわからず、周りに合わせて必死に作り笑顔をすることに苦労したということだけが記憶にある。

 そうしてはじまった新歓は同じ空気感を維持したまま、続いていった。酒の味を覚えてまもないであろう新入生のひとりがカクテルを飲んでいる内気な別の新入生のことを馬鹿にして笑っていたり、ぱっちりとした目をした色白の綺麗な女性の周りに派手な男性たちが輪をなしていたり、退屈さも具合の悪さも解消されることはなく、ますますひどくなっていくばかりだった。作り笑顔をしすぎて、表情筋が痛むのを感じて、離れたところに移動して一息つこうと会場の隅のほうを見回すと、女性がひとりで酒を飲んでいた。長く鋭い黒髪に、飾り気のない服を着ている。目線を下にして、空中に彼女にしか見えない何かをじっと見つめているふうだった。その表情は酔いが回って休憩しているというふうには見えず、時間が過ぎるのをただ待っているといった様子だ。彼女のその様相が気になって、僕はグラスを片手に彼女に近づいた。

「退屈?」

 僕は彼女のそばに近寄ってきいた。彼女は僕を見るけれど、たちの悪いナンパに引っかかったときのような怪訝な目を僕に向け、そして胸元の名前を確認した。そしてくすりと笑った。

「そうだね。はやく家に帰ってユーチューブでくだらない動画でも見たい気分だよ」

 彼女の名前を確認するために胸元を見ると、彼女の名字が達筆で書かれていた。女性でそこに名字を書いている人をはじめて見たから、ますます彼女のことが気になった。

「どうせ面白くないものだってわかっているのにどうして来たの?」

 彼女は人が集まっているところを指さして、その指から伸びた見えない線を追っていくと先ほどのたくさんの男に囲まれている女性がいた。

「友達と一緒に来たの。誘われて。でもすぐにあんな感じで、あそこにいるのは耐えられないからこうして時間が過ぎるのを待っているの」

 彼女は心底うんざりするような口調で言って、それを補強するように深いため息をついた。

「君もそんなに楽しんでなさそうだけど」

 と彼女がきいた。

「そうだね。でもこういう場で友人を作らないと大学生活を円滑に過ごせないってインターネットで見たから」

「成果はあったの?」

「これならずっとひとりでいいなって思えた」

 彼女は小鳥のような笑い方をして「それは来てよかったね」と言った。

 僕らが会場の片隅で話していると新歓コンパがお開きとなり、このまま二次会でカラオケに行くと幹事であろう先輩が声高々に言った。僕らは顔を見合わせて、眉をひそめた顔を見合わせて、お互いが同じ表情をしていることに笑った。そして群衆のなかをするりと抜けて、別の店で飲み直した。


 こうして僕らは知り合って、僕と彼女はたまに遊びに出かけるようになった。ただ酒を飲んだり、買い物をしたり、あてもなく散歩をしてどうでもいいことを話し合ったりした。普通の友人同士が普遍的に行う行動だろう。しかし彼女はいつも変なことばかり言っていたように思う。買い物に行くときに、今日は一言も声を発さないようにしようと提案したり、学んでいる人を見たことがない言語を勉強してふたりで会話をしようだとか、そのようなことばかりを言っていた。最初のうちは戸惑っていたけれど、次第に慣れて、彼女が何を提案してもよく考えないまま承諾するようになった。
 そして彼女には高校生のときから付き合っている彼氏がいるらしかった。同じ大学ではない、とだけきいていたけれど、彼女の会話の節々から僕らよりもずっと年上の男性と付き合っているのだと察することができた。

 ある夏の通学中、大学の最寄り駅で彼女と会った。一緒に歩きはじめると彼女はいつも通り話していたけれど、不意に黙って立ち止まった。どうしたのかと思っていると、すすり泣くような音がきこえてきた。僕はあわてて彼女のそばによって動向をうかがうけれど一向に泣き止む気配がなかったので、彼女をすぐ近くの公園に連れていった。
 幸い、公園には誰もおらず、ベンチにふたりで腰掛けて彼女が泣き止むのを待った。見上げると雲ひとつなくて、太陽が煌々としているから汗がとめどなく流れてきていたことを覚えている。

「実は、彼氏と別れて」

 しばらくしてから彼女は話しはじめた。きくところによると、昨日の夜に付き合っていた男性から急に別れを告げられたということだった。それがあまりに一方的すぎて、まったく整理がつかないらしい。僕は彼女がこのようなありふれた悩みで泣いていることが意外だった。彼女に泣き止んで欲しくて僕は慰めの言葉を言い続けたけれど、それは誰にでも言えるようなことばかりで、自分の低俗さに嫌気がさしていた。
 僕の言葉が効いたのか、それとも時間が経って落ち着いたのか彼女の涙は止まった。もうこれから大学に行く気分にはなれず、その日はふたりで夏の日差しのなか、生い茂る草木を見て過ごした。


 それ以来、彼女は希死念慮をあらわすようになった。たびたび僕へ「死にたい」という願望や「泣いている」「悲しい」といった現状報告のラインが届いた。僕はそのたびに彼女の家へ行き、彼女を慰めて落ち着かせた。不思議と面倒だとは思わなかった。次第に彼女の希死念慮はその顔をのぞかせることが少なくなっていき、一過性のものだったのかと安心した。そうして気がつくと僕らはどちらから提案したわけでもないけれど、交際をはじめていた。

「あなたがいたから生きていられるよ」

「私にとって、あなたがいることが生きていく意味なのかもしれない」

 彼女はよくそのようなことを言った。僕はそう言われるたびにむずがゆくなった。そして、決してそんなことはないと思ってもいた。きっと彼女は僕がいなくても立ち直っていたのだろう、と。しかし同時に、彼女には僕が一緒にいてあげなければいけないという使命感のようなものがあった。付き合いはじめたけれど、することは以前と変わらず、酒を飲んだり、買い物に行ったり、彼女の変わった提案にのったりするという日々が続いた。僕の大学生活はそうした生活のまま三年経過した。

 彼女に一緒に出かけようと提案のラインを送ると、「気分じゃない」と返ってきた。そういえばこの頃、彼女からの誘いが来なくなっている。そしてこちらから誘うと、断られたり、既読のまま返信がこないことが多くなっていると思った。一緒にいるときも、どこか素っ気ないような心地がしていて、ずっとスマホを見ていたりもした。もしかしたら彼女はまた気分が塞ぎ気味になっているのではないかと心配して、その旨をメッセージで送ったけれど、返ってくることはなかった。

「別れましょう」

 彼女から喫茶店に行こうと誘われて、ウェイトレスがアイスコーヒーをテーブルに置いて去っていくとすぐに別れを切りだされた。
 僕は何を言われているのかわからずに、何も言葉を発することができなくなってしまった。彼女はそのような僕を見て、懇々と理由を述べた。彼女が言うには、これから時間を将来のために使っていきたいということだった。留学とかも考えていて、そうなるともっと語学の方面に力を入れたほうがよくて、今のままだと時間が足りないと。僕は彼女の言っている内容がわかったけれど、意味を理解することができなかった。僕は混乱したままに彼女にすがったけれど、彼女は僕をつめたく突き放したままいなくなってしまった。彼女はアイスコーヒーに手をつけることもなく、ふたつ並んだグラスにはいくつもの水滴が浮かんでいた。


 僕は彼女からの別れを整理することはできなかった。「あなたがいるから生きていられる」とまで言っていたのに、どうして簡単に離れようとするのだろうか。その言葉が僕のなかで呪いのように渦巻いて、食事も睡眠もまともにとれず、身体が重たく感じて、大学にも行くことができないような生活を送った。しばらくそうして過ごしていたけれど、何とか無理矢理にでも気持ちを整理させようと、自分に言いきかせた。彼女に夢があるのだとするのならば、僕にそれを止める権利はない。僕はもっと彼女の将来のことを応援してあげなければいけない。もっと人間前向きに生きていかなければいけない。そう考えると気持ちがいくらか軽くなって、僕は日常生活に復帰して、大学とアルバイト先と家が頂点の三角形の辺を渡り歩いた。

 あるとき街中で、彼女が知らない男性と腕を組んで歩いているのを見かけた。その男性は小綺麗なスーツを着ていて、僕よりもだいぶ年上のように思えた。彼女が男性に笑顔を向けて話している。その光景を見ていると動悸が激しくなった。胸から得体の知れないものが飛び出してきそうなほど強い動悸だった。僕は彼女に見つからないように影に隠れてやり過ごすことにしてうずくまった。確証はないけれど予感していた。きっとあの人は彼女が前に付き合っていた男性だろう。将来の夢だとか留学だとか語学だとかはすべてデタラメで、単純によりを戻すために僕を振っただけだった。僕は立ち上がる気力が湧き上がらないまま、同じ体勢でずっと動悸をこらえた。その動悸に耐えているのは苦しかったけれど、それは次第に怒りへと変わっていった。都合よく自分を利用した彼女に対しての怒りが僕の胸のなかをしめている。
 この怒りをどうにかしなければいけない。復讐しよう。それがこれからの僕の生きる意味だ。

著:早尾(https://twitter.com/haya_toma

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