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手の温み

小説
テーマ『悲劇』

 長いあいだ列車に揺られて目的の駅に降りると、昼間だというのに駅前には人の姿が見当たらなかった。人のいなくなった地方の街の宿命のような寂寞が詰まっている。地図アプリで祖父母の家までの道順を確認して、表示された道順の通りに歩いていく。
 母親から祖母の認知症がひどくなっていて何度も同じことばかりを話すと聞かされていた。僕が祖母に会ったのは三年前の大晦日が最後で、記憶のなかの彼女はまだ意識もはっきりしていて、集まった親族のために、たくさんの品数の料理を作っていたが、最近ではもう普通の料理を作ることすらもままならないらしい。
 祖母は水彩画を描くことが好きで、子供の頃はよく一緒に絵を描いた。もっぱら家のなかで並んで描いていたのだけど、日によっては外に出て山や川などの風景を眺めながら描いていた。祖母の描く水彩画は淡い色合いのバランスがとても綺麗だった。今では絵も描かないらしい。僕は地元から離れたところで就職して帰省する機会がほとんどなかったから、そうした実情も母親から聞くぐらいであった。
 駅前通りには若者が遊べるようなところはなく、スーパーマーケットや個人が経営する飲食店ぐらいしかなかった。そのわりには住宅はそれなりに多く、このあたりの人たちは休日はどのように過ごしているのか少し気になった。
 夏の日差しに照らされて、時折汗を袖で拭いながら歩いていくと、三十分ほどかかってようやく祖父母の家に辿りついた。呼び鈴を鳴らすと、祖父の声がきこえたから、来訪の旨を伝える。
「久しぶりだな。よく来たな」と祖父は笑いながら言った。祖父は少し痩せたような気がするけれど、まだまだ元気そうだった。
 僕は買ってきたお土産を祖父に渡した。スポンジ生地の、中にクリームが入った製菓だった。祖父はそれを受け取ると、「ばあちゃんが喜ぶわ」と言いながら受け取った。今日は祖父母の家に泊まっていく予定だったので、道中で買ってきた三人分の晩御飯用の弁当も渡した。
 リビングに入ると、祖母がソファーに座ってテレビを見ていた。腰が曲がっていて、記憶のなかよりも小さくなっているように見える。テレビからは昼の情報番組が流れていて、若手芸人がスタジオで何か飯を食べてリアクションをとっていた。祖母は振り向くと、僕の顔をまじまじと見つめた。そして何か言おうとしてるけれど、まごまごとしたまま何も言わなかった。それを見た祖父が、祖母に「ほら、孫の俊樹だよ」と渡し船を出した。
「ああ、俊樹ちゃん。いらっしゃい」と祖母は言った。
「久しぶり。元気そうだね」と言いながらも祖母が僕の名前を忘れていることに締めつけられるような思いになった。しかし、もしかしたら忘れているわけではなく、祖母の記憶のなかの僕はもっと幼い姿をしている可能性もあって、それと今の僕が結びつかないのかもしれなかった。それはわからない。
 そのあと三人で近況を話していると、時折祖母が僕の顔を見て、まごまごとし、その度に僕はきわめて明るい調子で自分の名前を伝えた。祖父はそんな祖母に「さっきも言っただろう」と少し怒気を孕んだ声で言った。祖母の認知症が進んで、悲しんでいたり苦労していたりするのはきっと祖父であろうけれど、彼はそれをおくびにも出さなかった。
 僕はふと、昔のことを思い出した。小学校低学年だったろうか。祖父母の家にひとりで泊まったときのことだった。冬のことで、あたり一面には白く雪が積もっていた。僕は少し離れたところにある駄菓子屋に、祖母からお小遣いをもらってひとりで向かった。何もなく、ただ見渡す限り雪原が広がるなかを歩いて、駄菓子屋に行き、駄菓子を少し買った。ひとりで買い物に行く機会がほとんどなかったから、僕は少し興奮していて、道中の雪原で雪だるまなどを作って遊んでいた。ひとしきり遊んで、気がつくと真っ暗になっていた。か細く街灯が立っている以外に光源はなく、僕は夜の闇のなか、帰り道がわからなくなって、途方に暮れた。とにかく祖父母の家があるだろうと憶測した道を歩いて、まったく知らないところに辿り着いて、寒さも増して歯ががたがたと震えてきて、もう家に帰ることはできないのではないかと思いはじめて、目の奥からじわりと涙が浮かび上がってくるのを感じた。どうすることもできずに道端に座り込んで泣いていると、祖母が息を切らしながら歩いてきて、僕を強く抱きしめた。僕はそのあと泣きながら祖母の手に引かれて、家に戻った。あのときの僕にとって暗闇のなかで繋がれた手から伝わる祖母の温みだけが、世界のすべてだった。
 そうしたことを今の祖母は覚えているのだろうか。おそらく覚えていないだろうなと思って、話題には出さなかった。三人で僕が持ってきた弁当を食べて、早い時間のうちに床についた。眠りにつく前に布団のなかで天井を見ながら、祖母の認知症がこれからさらに悪化して、僕のことを完全に忘れてしまうのだろうなと不安になった。僕だけでなく、娘である僕の母親のことや祖父のことも忘れてしまうような未来が、遅からず来てしまうのだろう。そうなったとき、僕は祖母にきちんと向き合うことができるのだろうか。
 僕が起きるともう祖父も祖母も起きていた。寝ぼけ眼でリビングに入ると、祖父が嬉しそうに「ばあちゃんが絵を描いている」と僕に言ってきた。祖母を見ると、おぼつかない手先で紙に向かって筆を走らせていた。
「なんだか描きたくなってね」と祖母は恥ずかしそうに言った。
 僕も紙を一枚もらって、祖母の横で一緒に絵を描いた。祖母の絵は昔に比べるとつたないものであった。しかし以前と同じような目で一生懸命に筆を走らせている祖母を見ていると、これからもきっと大丈夫だと何の根拠もないけれどそう思えた。

著:早尾(https://twitter.com/haya_toma

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