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映画で知り、本で生き、舞台で弾ける。

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映画、本、観劇の記録です。 この3本の柱でわたしは成り立っています。
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#ふと思うこと

ある日の映画鑑賞

Dr.コトー診療所 先日、映画の招待状が届いた。 私に見せたい映画があると、時々招待状を送ってくださる方がいる。 それで、映画『Dr.コトー診療所』を観てきた。 招待状をくださった方に「観てきました」という報告と、私が感じたことを素直に書いて、さっきメールを送った。 流行りの洒落た映画でもなく、奇想天外なストーリーがあるわけでもないのだが、こういう映画は日本人にとっては必要な映画ではないかと思った。 弱い立場の人たちに平等に分け隔てなく愛を注ぐ…言ってみれば民のヒーローの

偶然と想像

この映画を観るにあたって、金原由香さんの解説文を読んでいたら、そこに哲学者・三木清さんの著書「人生論ノート」の中の文章が引用されていた。 私たちは何かあるたびに思う。 「これは単なる偶然?それともこうなる運命だったの?」と。 しかし、いくら考えてもそれに対する答えは出てこない。 でも長い間生きていると、これは「偶然じゃない」と思える(思いたい)ことが時々起こるものだ。 私の場合よくあるのは、とても嫌いな人がいて顔も見たくないと心底思っている時に限って街でばったり会ってしまう

もっとたくさん人を愛して死んでいきたい

「某・川上弘美」を読み終えた。 不覚にも最後は涙するという結果になって、私にもまだ人間のやわな心が残っているのだと再確認した。 「某」という言葉の意味をネットで調べてみると、『人の名前や、地名、場所、時などについて、それとはっきりわからない場合、あるいは、それとはっきり示さず表現する場合に用いる』と書いてあった。 なるほど...と思う。はっきりわからないのだ。 何もかも。 主人公の「わたし」は、突然この世に現れた。人間のような姿をしているが、名前も年齢も性別も生きているの

L'ARMINOTA 戻ってきた娘

13歳の頃の私は何を考え、何に苦悩していたのだろうと考えながら読んだ。13歳という年頃は、何もなくてもどこか不機嫌でいつも何かに悩んでいる年頃なのだ。でもこの作品の中の「わたし」は、突然理由も告げられないまま苦悩の中に放り込まれてしまう。 舞台はイタリア・アブルッツォ州...恵まれた家庭で育った「わたし」は、13歳の時に理由も告げられずに本当の母(産みの親)の元へと戻される。戻されたその家庭は貧困に喘ぐ子沢山の家庭で、いつも暴力と怒号が飛び交う家庭だった。そんな家庭で「わた

すべての道は舞台に通ず

2021.4.17(土曜日) Go watch a play 2  ざぁーざぁーと激しい音がしている。走る車の音もタイヤに水気を含んでいるようでスムーズではない。昨夜、お芝居の帰りは傘もささないでいいくらいの小雨だったが、いつの間にか夜は明け本降りになっていた。 その雨のせいか今朝は少し肌寒く、リビングの床暖房をつけた。猫も嬉しそうにお腹を床にペタッとつけてくつろいでいる。私も夫も床にペタッと座り、テレビでニュース番組を見る朝だった。政治家の言葉は私たちの耳を通り抜け雨の

史上もっとも迂闊な四畳半

『愉快』な本である。 『おもしろい』とか『楽しい』というのとはちょっと違っている。『愉快』としか表現のしようがない。「森見登美彦・四畳半タイムマシンブル〜ス(原案・上田誠)」を読み終えた。それもたった半日で。頭の中に登場人物が現れる。そして彼らのドタバタとした行動が私の頭の中で繰り広げられる。目は本に向かって文字を追っているのだけど、その映像が映し出されていく不思議さを感じる。クルクルと場面が変わりクルクルと人の気持ちが流れていく。とても愉快な経験だった。この技法はどういう

師を選ぶ。存在を攫われそうで怖いけど

歌うたいが切ない歌の弾き語りで、女性達をメロメロにすることがあるように、この人は文字でそれをやってのける。それも31文字という短い文字でだからたまらない。誤解がないように言うとメロメロになるのは女性だけではない男性もそうだろう。僕も俺もその文字の中に埋もれて眠りくなるに違いない(あくまでも個人的見解ではあるけれど) 短歌や川柳が好きでいろんな歌人の短歌を読んだりするが、私自身は短歌を作ったことはない。これからも作るかどうかわからない。でも木下龍也さんの作品がとても好きで彼が

わたしは過度にロマンチック

遠い昔に一度読んだことのある。 「銀の匙」をまた読んだ。 何だか美しいものに触れたくなって、友人が待っていたのを借りて読んだ。 この本を読むと自分が日本人だということがとても嬉しくなる。誇りになる。普段はアメリカか、イタリアか、中国か、インド、アジアのどこか...あるいは宇宙人かもと思うような生活をしているくせに、わたしは紛れもなく日本人であることを自覚し、そしてその日本人で良かったと心から思える。 この本は、作者・中勘助が、小箱にしまってある銀の匙から思い出されることを