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テレビをみる人たち

 高知のような田舎であっても「テレビ、もう家にないんですよ」という友人が増え始めた。死語ではないデジタルディバイドが生き残っているような本県であるが、高知市を始めほとんどの市町村に光回線が開通しており、モバイル通信網も事欠かなくなった。テレビ本体がなくてもそれに準ずる放送媒体にアクセスできるようになったのだから、テレビは必要ないという家庭が増えるのは自然なことだろう。
 先に断っておくが、別にテレビが時代遅れだとか偏向報道だとかの話をしたいのではない。

 無テレビ家庭が増えているとはいえ、Twitterのトレンドを観察しているとテレビ番組に関するツイートはまだまだ優勢である。みんな色んな番組に反応しているし、ドラマもよく見られている。テレビドラマなんてもう20年くらいちゃんと見てない、そもそも見る方じゃなかったが、それにしてもみんなドラマ好きですね。
 自分ごとだけど、FNS歌謡祭は好きな番組だが今年はスルーした。興味がないのではなく、単純にテレビの前にスタンバイするのが面倒くさくなったからだ。
 たとえばニュースにしても、本当に重大なニュースはネットを介して届いてくる。スポーツだってストリーミング動画サービスで鑑賞できる。アニメも好きな時間に好きな場所で鑑賞できる。そういう生活環境において、一定時間テレビの前に座すること自体、面倒なことだ。デバイスとして時代遅れを感じてしまう。

 ではテレビをみる人たちはどんな生活環境なのだろう。
 とりあえずテレビしか娯楽を知らない世帯も多いことだろうが、ネット環境がしっかりの人もテレビはまだまだニーズがあるようなのだ。
 息子を持つ知人は「高校から帰ってきてまずテレビをつけるけど、テレビをつけたままスマホでYouTubeみてる」という。「テレビがついてると寂しくない」んだそうだ。この感覚は僕も知っている、何も用事がなくてもテレビがついていて、画面に誰かが写って笑っていることで安心する。カフェのデカいBGMやおしゃべりの騒音で落ち着くのに似ているし、もし緊急地震速報などが流れるなら、テレビがそれを知らせてくれるから減災の意味合いもあるだろう。
 いや、そんな役立つことはどうでもいい、とにかくテレビがついていると「寂しくない」のだ。テレビは擬似同居人なのである。

 それに、オンデマンドで好きな番組を好きなときにみられるとはいえ、その番組を『選ぶコスト』が必要だ。そのコストを支払う精神力さえ持ち合わせない状態で帰宅したとき、テレビはSiriよりも気楽にコンテンツを提供してくれる。そしてテレビはSIriと違って返事をしてくれないし聞いてもくれいないから、そのぶんをTwitterに垂れ流して満たされているのだろう。

 そして、それはとても安価だ。

 友人とカフェでおしゃべりするにはアポを取るコスト、LINEごしに向うの生活に付き合うコスト、移動するコスト、カフェで支払うコスト、その時間というコストが必要になるのに対して、テレビを見ながらTwitter。安価だ、お金だけでなく。それが悪いという意味合いはまったくない。
 仕事やプライベートで消耗している身になれば、テレビは実にフレンドリーで有能だ。

 問題があるとすれば、『考えるコスト』を計算してくれない社会や人間関係であり、考える能力を奪おうとする教育や文化にある。「豊かさ」とはなにかを考える隙が不足しているように感じるし、テレビは「これが豊かさです」とゴチバトルを繰り広げ、ワイプで笑い転げる。それが「豊かさ」であるかの判断を『考えるコスト』が不足しているのだから、受け入れて満足するような。
 この先10年くらいで、もっと『考えるコスト』とか『選ぶコスト』をケアできる社会になっていけばいい。希望でしかないが、個人の豊かさを守るためにも、そうあって欲しい。

 インターネットは我々に『選ぶコスト』を要求しがちだ。
 マスメディアは『選ばさない優しさ』を行使できる限り、次の元号になっても生き残るのだろう。人はまだまだ寂しさを克服できないだろうから。

パソコンが普及していけばテレビがなくなっていくだろう、と妄想している人も少なくないと思うけど、実際はテレビの普及率は横ばいのまま。『選ばなくていい』という利点は、まぁまぁ普遍的なものなのかもしれない。僕はテレビ面白くないなぁと思いつつニュースとスポーツとジョジョ録画のお世話になってるし、寂しさの克服という意味ではテレビではなく、ウェザーニュースLIVEをエムキャスで視聴するスタイルです。

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