くたびれ30男

くたびれ30男

 僕は生まれたそばから父親を亡くしている。セントジョーンズ病院の分娩室で彼は絶命した。

 僕はと言うと、その右手で貫いた父の胸から噴き出す血なんかには目もくれず泣きわめいていた。誰もがぼくを忌避する目で見ていたと思う。看護師は僕を思わず取り落としたが、僕は怪我ひとつしなかったという。

 母、そして双子の弟とはそれから会っていない。記憶にないのだから、会ったこともないのかもしれない。

 物覚えがつく頃には、ぼくは自分がスーパーヒーローのアカデミーにいることを知った。


くたびれ30男


 似たような異端児が多く生まれた年だった。僕らはアカデミーの長、いや、「父さん」に「互いを家族とすること」を求めた。

「お菓子食べる?」

 急速に成長する体質の「兄弟」がいた。当時の肉体年齢が20を過ぎていたから、実年齢が15歳になる頃、寿命が来ると言われていた。でも、それは実現しなかった。

 11歳の誕生日に自爆テロで彼は死んだから、予想は4年もズレた。

「このお菓子美味しいよ」

 そうやって屈託なく笑う「兄弟」の顔は、僕の記憶の中では年々曖昧になっていった。

 アカデミーに同期は9人もいたが、3人は犯罪を食い止める際に亡くなった。思春期を「兄弟」の死と、悪意や狂気への対抗に費やした僕らは一言で片付ければ、ひどく冷めていた。

 暖かい記憶は、「父さん」のジェイソン氏がよく抱きしめてくれたことぐらいだった。

「君らは大多数の善人を守る大切な存在だ。誰もが君らを愛してるよ」

 そんなふうに言って、額にキスをするのだ。とある事件の際、僕が投げた鉄パイプで民間人を貫いてしまった後も、変わらず「愛しているよ」と。

 他にすがる相手はいなかった。スーパーヒーローの研修生である僕達は、唯一、「父さん」を拠り所に生きた。


 ベンジャミンという男がいる。彼はサイコメトリーとテレキネシスを持つ、フワフワとした少年だった。

「たぶん、こっちに犯人がいるよ」

 宙を漂いながらそう言うベンジャミンに、少女が答えた。

「早く終わらせてテレビが観たいな!」

 彼は、パイロキネシスを備えた少女、シャーロットと共に悪人退治を行うことが多かった。

 その日、僕らは下水道に逃げた『トカゲ』を追っていた。『トカゲ』は非常に危険な怪人で、警察や僕らにわざと姿を見せた上で痕跡を残す、快楽殺人者だった。

 『トカゲ』の罠は狡猾だった。

 シャーロットの発火能力を逆手に取られ、僕は右腕に大火傷を負わされた。ベンジャミンが慌てて炎を吹き飛ばしている間、シャーロットは錯乱状態に陥っていた。

 いつもの薬が切れたようだった。精神安定剤もヌイグルミもそこにはなかったのだ。

 無線機から「父さん」の声が聴こえた。

「やむを得ない。気絶させるんだ」

僕らはそれを実行するためにあらゆる手段を講じたが、しかし、気絶させることは、結局できず仕舞いだった。

 シャーロットは操ることのできなくなった自らの炎で焼けてしまったのだ。僕らの「妹」がぐずぐずに崩れる時、『トカゲ』がいつもの鼻歌とともに現れた。

「哀れ哀れ、人は哀れ
 泣けよ人よ、環の中で
 進め道を、道化面で
 死せよ人よ、塵の上で」

 ベンジャミンが崩落した壁を念力で飛ばしたが、完全に的外れな場所で砕けた。『トカゲ』はそれを見届けてから、満足そうに繰り返し歌い、去ってしまった。

 ヒヤリとした悲しみが僕の頭にも流れこんできた。彼は彼女を愛していたのだ。

 9歳の夏だった。「妹」は僕の右腕と一緒に埋葬された。


 15歳にもなると「兄弟」はかなりタフになっていた。

 同時に、アウトローな気質も表に出る時期だった。その最たる例が、ジャックだった。とりわけ早熟な体を持った彼は、誰よりも強く独立した意志を持っていた。

「もうアカデミーの言うことをきくのはうんざりだ!」

「ジャック、お前のためを思って……」

「父親面するな! もう、放っておいてくれ!」

 ジャックはよく、ジェイソン氏を否定したものだった。

 補導された彼を迎えに行くジェイソン氏が悲しそうにしているのを見たのは、両手で数え切れないほどだった。

 この頃からジャックはビールを飲み続けている。

「感謝もほとんどされねぇ仕事に意味があるか!?」

 自室で空き缶を壁に投げて、ぎらついた目を僕に向けて言った。

「俺はここを出て普通の人間として、普通の生き方をするんだ」

 そういう彼の両手両足はそれぞれ鋭い爪が覗いていて、僕はそれらから目を反らすのに必死だった。満月の晩にその程度の変化で済んだのは、珍しいことだった。

 ジャックの機嫌を損ねたいとは、今でもあまり思わない。

「僕らに普通の暮らしって、できるのかな」

 小さな山を作ったビールの空き缶を拾い上げながらベンジャミンが言うと、ジャックはぎらぎらとした眼球の中に希望を浮かべて答えた。

「望めばなんでもできるさ!」

 言った途端、きまりが悪そうにジャックはツバを吐いた。それはジェイソン氏の口癖だったのだ。

 僕は少しだけ笑った。

 夜中にシャーロットの墓参りをしていると、柵を「すり抜ける」影に気が付いた。

「ゲッ、リーダー」

 嫌なヤツに捕まった、とマーガレットは舌を出した。

 父さんに報告するぞ、と脅しつけても、本人はひょうひょうとしたものだった。

「この歳にもなればデートくらいするものでしょう?」

 彼女はそのまま、アカデミーの宿舎まで「すり抜け」た。

 一人残された僕は、「この歳」にもなれなかったシャーロットの墓石を撫でた。


 その頃から僕は、なんといえば良いのか……。

 正直に言ってしまえば「兄弟」とのズレを意識していた。僕は「普通」を望まなかったのだ。

 「普通」は弱い。僕が「普通」でないから強いのか、それとも逆なのかは分からない。

 それでも――片腕が義肢であるとはいえ――一般人よりは明らかに強く、特別だ。

 出生が少し違うことは、僕を人間として浮いた存在にしていた。それだけで僕にはアイデンティティを確立させることが可能だった。

 もがいて「自分」を捕まえに行く必要はない。ヒッチハイクやバックパッカーをして何ヶ月も無駄にすることはないのだ。自分は「普通でない」ことを確信しているのだから。

 望まれた仕事を必要に応じて受ける。そんな、まさに天職であるヒーローの地位を棒に振ろうとする「兄弟」。

 僕には彼らが分からなくなっていく。

 ただ墓石の下に眠る妹達だけが、僕を肯定してくれる気がした。


 チームに生まれた曖昧な不和を広げながら、アカデミーの面々は18歳にまで成長した。

 そして、サプライズが待っていた。ジャックがついに屋敷を出たのだ。

『くたばれ偽善者ども』

 そんな粗末な書き置きが残された翌年、マーガレットもボーイフレンドと駆け落ちをし、姿を完全にくらました。

 それらを受けて、ジェイソン氏が心労で倒れた。

 活動の合間に勉強をし、医師にもなることを目指していたメンバーのリンは、舌打ちを隠さなかった。

「恩知らずめが……!」

 激しい音の波を生んだ産声で、両親ごと分娩室を破壊していた彼女は、僕と心境を同じくしていたようだった。

 全幅の信頼を寄せた養父に仇成すなど、信じられない、と。


「わたしはここにいますよ」

 父さんの寝室で彼女はよくそう言っていた。

「長くないかもしれない」

 ただ心労だけを理由に、ジェイソン氏は昏倒したのではなかった。

「……そうだね」

 ベンジャミンが痛苦に満ちた声で答えると、リンはそれを咎めるような目になり、問いただした。

「知っていたな? お前、どうして――」

「父さんが言うなって」

「それは、まさか、そんな」

 年に一度か二度だけ、近く、回避できない運命を予知する。それがジェイソン氏の能力。

 ジェイソン氏がそう言ったということは、そういうことなのだろう。

「父さんはずっと我慢してたんだよ」

 精神を読み取れてしまうベンジャミンも、間接的に未来を知っていた。目を伏せたベンジャミンに、さらに噛みつくほど、リンは愚かではなかった。

 僕はジャックやマーガレットにそのことを伝えようとしたが、ついには叶わなかった。彼らに再び見えるまで、時は待ってくれなかった。

 20歳の冬。

 雪が降る夜に、ジェイソン氏は亡くなった。

 次元の狭間を揺れていたロバートがちょうど二年振りに帰還し、葬儀を取り仕切ってくれた。僕は「父さん」と呟いて、少しだけ泣いた。

 いや、泣いたと思う、が正しいのかもしれない。

「なあ、親父は笑ってたか?」

 ロバートがタバコに点火しながら、無表情に、ぼんやりと言った。

「変わらなかったよ」

 いくらか満足げにロバートは煙を吐き出し、そのまま異次元に没入した。

 ……ロバートはジェイソン氏を愛しながらも憎んでいた。能力の使い方を教えてくれはしたが、制限されもした。異端児のあり方を教育されながらも普通であることを要求されたのだ。

 過度な次元移動は世界に変調をもたらす、と言われて。

 彼はもう帰ってこないのだろうな、と僕らは予感していた。足枷が外れた鳥は、気ままに飛ぶものだ。


 解体狂の『ノコギリ』が僕の右腕を切断した。24になってからは初めての失態だった。

 リンがアシストしてくれなければ左腕も義手にしなければならないところだった。

「考え事か」

 リンの冷たい指摘を軽く流しはしたが、図星を突かれて内心穏やかではなかった。その前日に、僕はジャックと再会していたのだ。


 寂れたダイナーのカウンターで、彼はウインナーを口に運んだ。

 4年間で生え揃ったアゴ髭がもそもそと動いていたのが印象的だった。すっかり酸っぱくなっているコーヒーをすすると、僕は尋ねた。

「普通の生活? まあまあ楽しくやってるさ」

 確かにそう見える、と僕は思った。彼は昔よりずっと表情がイージーだったし、モーターバイクから降りる時は笑顔すら見せたのだ。

 カリカリしていた狼男の面影はなかった。

「今度俺、結婚するんだよ。見ろよこれ。美人だろ」

 差し出された写真に写っていたのは、浅黒い肌のスレンダーな女性だった。

「……俺が選んで、声をかけて、モノにしたんだ」

 誇らしげに言ったジャックがジュークボックスにクォーターを放った。

「音楽も、教育のためのバッハやモーツアルトじゃないのにハマった」

 ロック。僕はこのバンドを知らなかった。

「道を選ぶってのはいいもんだぞ」


「集中しろ!」

 ハッとして、記憶から呼び覚まされた。瞬間、リンの発した、指向性を高めた咆吼が僕の真横を突き抜けていった。振り子の要領で迫るチェーンソウが爆発するのを目の端で捉えた。

「遊びに来ているのか?」

 頭を振って「ノコギリ」を探せば、その姿はどこにもなかった。ただひたすら、まぶたの裏に、ジャックの顔が浮かぶばかりだった。

「ごめんね。すぐに復帰するから」

 『歯車』のロボットが放ったミサイルによって負った怪我で、ベンジャミンは病院にいた。

「それにしてもリーダー。どうしたんだい、その様は」

 ゆるゆると、しかし抜け目なく、彼は訊いた。

 僕の体に触れてしまえば思考が「読める」のに、それをしないのが僕ら「兄弟」の礼儀だった。

「そう……。元気なら、よかったんじゃないかな」

 ジャックとの件を白状すると、ベンジャミンは遠い目をした。

「それで?」

 僕は何でもない風を装って、分からないふりをした。

「とぼけなくてもいいよ。混乱してるんだろ」

 チョコ・バーを少しかじって、僕は頷いた。

「『普通』ってなんなんだろうね」

「失礼、そろそろ検査の時間です」

 担当医が時間を告げ、僕らは別れた。

 早くも夜風が冷たくなり始め、枯れ葉が舞う季節となっていた。コートの襟を立てながら屋敷に戻ると、罵声が僕を文字通り吹き飛ばした。

 リンが何かに怒っている。

「――」

 弾け飛んだドアから覗いた顔は恐ろしいほど冷静だった。

「いいから金出しなさいよ。政府からも給料出てるんでしょ」

 くたびれたコートに、安っぽいバッグを合わせた女が倒れていた。

「――――!」

 どこか見覚えのある女に、リンの怒声――むしろ騒音と言える――が叩き付けられた。

「っざけんじゃないわよ!」

 壁に頭を打ち付けたマーガレットは、落ち窪んだ眼窩の奥に怪しい光をたたえていた。リンが屋敷を粉砕する前に、僕は仲裁に入った。

 マーガレットが屋敷を去ってからの経歴は酷いものだった。彼女が送った悲惨な3年間は、駆け落ちした男が薬に手を出したことに始まった。音楽で一旗上げようとコネクション作りに訪れたパーティが原因だという。

「何よ、悪いっていうの? スピードくらい誰だってやってるじゃない」

 あとは、ご覧の通り。彼女は健全な肉体、精神、そして透過能力を失っていた。残ったのは濁った瞳とアルコール臭い吐息。

 男の愛すら、残らなかったのだ。

「私達を捨てた人間が戻ってきて助けろと? バカげている」

 あまり騒がれては評判に関わる、と駆けつけた顧問弁護士は判断し、マーガレットに金を握らせることにした。二ヶ月弱は暮らせる額だが、覚醒剤のレートに換算すれば一月ももたないだろう。

 しかし、マーガレットは満足げに立ち去った。これが自由を手にした女の値段か、とリンは嘲笑した。

「二度と現れてみろ。次は全てを原子に還してやる」


「私達一般人をどう思いますか?」

 義肢と肉体の接触を検査してもらうために、僕は病院を訪れていた。新任の医師は、マシューと名乗った。僕と同年代の聡明そうな男性だった。

「脆弱、非力。数が多いだけ?」

 ずいぶんと卑下したような物言いに、口をつぐんだ。マシュー医師は作業を進めながら続けた。

「自分で人生を決定できる可能性と、簡単に破壊され得る弱さが、ほんの紙切れ一枚の裏表に共存しています」

 僕は薄い氷の上を這いつくばる人間を想像した。

「そうです。薄氷を踏みぬかないようにしているんですよ……慎重に。慎重にね」

 それきり、彼は黙ってしまった。僕は気の利いた言葉が浮かばず、指示通り義肢だけを動かした。

 「兄弟」は28歳になった。

 それまでにマーガレットは3回屋敷を訪れ、今は裁判の末に刑務所に入れられている。ちなみにアカデミーの名誉のため名前は伏せられているし、厳密にはただの刑務所でなく、閉鎖精神病棟だ。

 ジャックは結婚してから一度だけ便りをよこした。子供を二人もうけて慎ましくも幸せにやっているようだ。

 ベンジャミンとリンは、相変わらず僕と悪人を捕まえに奔走していた。

 『ノコギリ』を捕まえ、『歯車』を海底に叩き込み、『カメレオン』を闇に葬った。

 世間を騒がすのは銀行強盗レベルの犯罪で、街は大量虐殺などとは無縁になり始めた。


 そんな折、シャーロットが蘇った。

「寒い、寒いよ。父さん、ベンジャミン……どこ……」

 シャーロットは『トカゲ』の罠により殺される直前の姿で街をうろついていた。僕が駆け付けた時には。警官が一名、バーベキューになっていた。警官は少女を保護しようと近付いた矢先に炎に呑まれたのだという。

「とっ、父さん……何も見えない……助けて……」

 嗚咽が火花を飛ばし、涙がアスファルトを溶かし、好き勝手に翻る炎が空を焦がした。

「うえっ、ここ、どこ……帰りたい……」

「シャーロットッ!」

 ベンジャミンが走り寄る寸前、僕は彼の腕をとった。

「はっ、離してくれ! 僕ならテレパスで……!」

 ベンジャミンの顔色がみるみる青くなっていった。

「た、魂が、傷付いて、彼女に声が届かない」

 リンが周囲の可燃物を吹き飛ばしながら、覚悟を口にした

「……やるしかない」

 その瞬間にも、電器屋のショーケースが爆発していた。


『それで、シャーロットは?』

 ジャックから珍しく電話があった。大火災の原因は、ニュースにより国外まで広まっただろう。

『その、やった、のか?』

 慎重に言葉を濁したジャックに、僕は無言で応えた。ベンジャミンのいる部屋でこれ以上続ける話題ではないと思ったからだ。


「今度は父さんを……!」

 未知の犯人『ネクロ』は次々に「兄弟」の遺体を蘇生し、ついにジェイソン氏の肉体までをも操った。

「もう、一想いに眠らせてあげよう」

「ああ。予知能力に気をつけろよ」

 涙はとうに枯れていた。そういえば、ジェイソン氏の葬儀をした晩から泣いていなかったかもしれない。

 もしかしたら、それも勘違いかもしれない。いや、僕らは元から涙を流さない生物なのかもしれない。

 なにか、おかしい。僕は思った。

 ほとんど関わりのない住民のために家族を殺さなければいけない僕達は、人間として、生物として、決定的におかしい。

 僕の機械の右腕は養父の心臓を抜き取った。動きを止めていた内臓に体温は感じられなかった。

 なんの感慨もなく、感想もなく、右手はそれを握り潰した。

 産まれた時にしたことだ。無意識でできたことをいまさらどうして実行できないだろう。


「それがあなたの『普通』の生き方だからでしょう」

 マシュー医師はそっけなくそう言った。

「生まれた瞬間にあなたは人殺しとして決定されているんです」

 口角を優しく上げながら、彼は続けた。

「ようやく証明されました。長かった、実に長かった」

 その瞬間、背後から首に何かが刺された。歪み始めた視界の中、なにかがリノリウムの床に落ちた。注射器だ。

 薄暗い病室に、笑顔が浮かび上がった。

「最高のステージで、お話しましょう」

――兄さん。


 爆発的な音声を顔面に受けて、僕は目覚めた。

「ようやく起きたか」

「安心したよ」

 薄暗がりの中、周囲を見ると、そこは広い円形のボイラー室のようだった。

 正三角形の頂点を作るように、リンとベンジャミン、そして僕は磔にされていた。

「すまない、薬で念力が使えないんだ」

「救援も……期待できないな」

 足音が闇の中に響き、そして見た顔が浮かび上がった。

「人間はどうやって決定されるのか」

 そう切り出したマシューは、怪人然とした服装などしていなかった。

 『ネクロ』のユニフォームは黒のスラックス、白のシャツに白衣。その出で立ちはまるで場違いなまでに清潔感に満ちていた。

「産まれた時に決定されるのか。それとも環境によってか、教育によるものか」

 『ネクロ』は中央に置かれた黒く長いバッグを開く。

 隙だらけの背中にリンが声を当てようとした瞬間、彼女の背後から伸びた腕によって、胸にナイフが突き立てられた。

「カッ――ヒュウ――!」

 ナイフの持ち主、それは、予想され得る限り最悪の人物だった。

「もう片方の肺も潰しておこうか」

 マーガレット。

 薬物依存症の「妹」が、平然と「兄弟」を突き刺した。

「まだ死なれたら困る。それ以上はなにもしないように」

「あっそ」

 時間差で、リンの口から血液が溢れた。

「親に求められて人格を作るのか、自ら求めて変化していくのか」

 ボディバッグの中には、中年男性の死体が詰められていた。その体はどうも朽ち始めたのを留め、古いものを復元したもののようだった。

「僕はどうしたらよかったんだろう。ねえ、兄さん。教えてくれよ」

 死体が、上体を起こした。胸には、心臓があるはずの位置には、空洞があった……。

「どうして殺人狂いの兄さんは金持ちの家に行けたんだい? 父さんを、こんなにしておいて!」

 『ネクロ』は誰もが答えを出さないので、声を落として続けた。

「実の息子に夫を奪われた母さんが、僕をどう扱ったか知ってるかい? 知らないよね?」

 『ネクロ』は、弟は、シャツの前をはだけた。

「僕達は一卵性の双子。僕は父さんを殺したヤツと同じ顔をしてるんだよ。そんな僕がどうされたと思う!?」

 アイロンや火かき棒の形にひきつれた胸の火傷がてかてかと光を返した。

「僕には母さんを満足させられなかった。愛するにも、憎むにも、半端だった。僕は顔を変え、家を出て、生き方を自分で選んだ」

「……その最後の目標が復讐か」

「復讐? 違う。僕は復讐しない」

 僕と『ネクロ』の父親の死体が、右手を尖らせた。そして、どす黒く変色した爪の先が、僕の胸にあてがわれた。

「僕には人生変える余地があった。でも、父さんは人生をあの日、止められた」

 愛に溢れた生活の可能性を消されたんだ、と『ネクロ』は言って、目をつむった。

「僕の恨みなんか父さんの足元にも及ばない」

「ハァハァ……ゴブッ……!」

 僕を助けようとリンが口を開いたが、飛び出るのは血の塊ばかりだった。

 ゆっくりと僕の胸に爪が刺し込まれていく。僕の異常に硬い皮膚を貫くそれらは、特殊な施術がなされていたのだろう。

「それで終わりかい?」

 じくじくと焼けるような痛みを胸に感じている最中、ベンジャミンの声を聴いた。

「はっ、違うね。僕の人生はようやく今日始まるんだよ」

「いや、そうじゃない」


「遺言ってのがそれで終わりかってことだろ」


 父親の死体は動きを止め、声のした方を向いた。

 そこには、灰色の毛皮に包まれた巨躯の狼が立っていた。

「なんだよ、生き残り組の集まりか。勘弁しろよな」

 『ネクロ』に攻撃をかわされた、ジャックがぼやいた。

「……また兄さんみたいな連中の死体を操作できるなんてね」

「シャーロットも、親父も、みんなお前がやったのか」

「親父というと、子供を売買する富豪のことかな?」

 さあな、とジャックが爪を擦り合わせた。

 人が獣に勝てる道理はなかった。満月に近い今夜、ジャックは力だけなら僕をもしのぐ。

 『ネクロ』が周囲に設置していた罠を作動させて、ようやくイーブンというところか。

 僕は父親の死体が『ネクロ』と僕との間で迷う姿を見ていた。やはり僕は、冷めた心持ちでそれを眺めるしかなかった。なにもできなかった。

 ジャックは左肩を拳銃で撃たれながらも、『ネクロ』を退けた。僕の心臓が取り出される前に救ってくれたのも彼だった。

「悪いがヤツを追いかける暇がねぇ。リンもお前も死んじまう」

 逃げる寸前の『ネクロ』の暗い瞳を、僕は生涯忘れられないだろう。しかし、そうやって想いにふけっていたせいで、僕は大事な人間を忘れていた。「兄弟」から目を離してしまっていた。

「あーあ、つまんない。皆死ねばよかったのに」

 そう、薬漬けの「妹」を。

「待って! 待って、マーガレット! やめるんだ!」

 「妹」が落ちた拳銃を拾って、こめかみに当て、そして――


 僕は今年30歳を迎えた。

 あれからの僕は、ひたすら「兄弟」のサポートをするばかりだった。時々思い出したように庭に出て、「兄弟」の墓参りをするだけ。

 僕は考える。ここに眠る皆がこうして死することを望んだのか。ジャックのように生きたかったのではないか。

 様々なことを、考える。

 自分の生き方を誰かに定められることは、楽かもしれない。それは、選択を放棄して、考えずに生きること。強い感動も無いが、苦悩もない。

 僕はもう、そんな消極的な考えしかできなくなっていた。僕には、なにもない。なくなってしまった。

「どうした、外に出るのは久しぶりじゃないか」

 気が付くと雨が降っていて、リンが傍らで傘をさしてくれていた。

「なんだか風を浴びたくなって」

 ジャックはいつでも励ましてくれるようになった。娘達を伴って、僕を慰めに来てくれるようになったのだ。

 よく彼は言う。

「マーガレットのようにもなれる。俺のようにもなれる。望んだらなんだってできる」

 快活な笑顔に見える表情は、しかし、少しだけこわばっていた。彼自身、それに気付いていないようだった。

 おそらく、ジャックは僕の心の底を無意識に見つめてしまうのだろう。それは僕だって同じだ。

 いくらその気がなくとも、鏡を見てしまえば、弟にそっくりな暗い瞳が僕を睨見返してくるからだ。

 僕は、たぶん、生まれたことを後悔し始めたのだ。僕の中に弟の心の闇が巣食うようになった、あの瞬間から。

 この立場を捨てることを、時々考えるようになった。

 そうしてしまえば、僕らを取り巻く環境の差や、不安に悩むこともない。

 通信機から警報が響く。

「今日は行けるか?」

 リンが訊く。僕は、静かにうなずいて、立ち上がった。

 もう、考えるのすらやめてしまいたい。

 もう、僕はくたびれてしまったんだ。


くたびれ30男

お し ま い



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