月曜日は来ない

 雨が好きなのは私だけだと思っていました。
 閉じられた世界で自分だけが湿気を好むのだと思っていました。

 夜が好きなのは私だけだと思っていました。
 真っ暗な世界で自分だけが光から逃げているのだと思っていました。

 自分だけが

 自分だけが、そんな、引きこもった精神を抱えたままでいるのだと思っていました。

「……こんばんは」

 私は、男性に声をかけます。

「……こんばんは」

 私は、彼が死に続けている様を見るまでは、自分だけが不幸なのだと信じ切っていました。


月曜日は来ない


 斉藤という男に出会ったのはもう一週間も前になります。
 初めて会った時から彼は私の目の前で死んでいます。

 彼は私へ焦点の合わない視線を送り、何事かを言おうとします。

「おや、げほっ……これは……」

「大丈夫ですか?」

 彼の死因は交通事故。

「いだだだ……」

 彼が運転していた車は電柱にまともに衝突してしまったのです。
 エアバッグは大切な臓器をいくつか潰してしまったようでした。

 ひしゃげた車体の中に、彼の下半身は埋もれていました。
 街頭の下に、黒々とした血だまりが広がっていたのを覚えています。

 そして、私は今もそれを見ています。

「これは、助からない、かな」

 今晩も、彼は同じセリフを呟きました。

「大丈夫です、まだ大丈夫です」

 今晩も、私は同じセリフを繰り返しました。

「一体、一体、これ……」

 赤い塊が、ごぽん、と音を立てて吐き出されます。
 それが、しぼみ始めたエアバッグに伝い、暗がりに垂れていく様子を頭の片隅で予想します。

 ですが、思考の大半は「そんなこと」どうだっていいと判断しています。
 私にはもはや興味のないことでした。

「交通事故に遭われたようですね……」

「くるし……げぶ、うぇ……」

 彼は自分の置かれた状況に気付くことができないようでした。

「さっき救急車を呼びました。しばらく我慢してください」

 初めて出会った日、救急車は、Uターンラッシュに巻き込まれてなかなか到着しませんでした。
 その結果は言うまでもないことです。

 私は冷えた手を伸ばし、彼の頬を触っていることしかできませんでした。

 秋口の、雨の日でした。

「お名前は?」

 初日のように、私は質問を投げかけていきます。
 彼も同じ返答を歯の間から押し出します。

 努めて、興味がある風にしなければなりません。
 すぐに死なれては困るからでした。

「それで、何かしたいことは?」

「家族、に会いたいな……」

 二日目、同じ時間、同じ場所で彼が「同じように死にかけている」のを見かけた時は驚きました。
 三日目、全く同じように彼が死に続けているのを見て、首をかしげました。

 四日目、ついに私は笑ってしまいました。
 彼は毎晩、その事故現場で同じ苦しみを味わっているのです。

 まるで哀れで、笑いをこらえきれなかったのです。

「奥さんはどんな方ですか?」

 斉藤の妻は、毎朝夫のために弁当を作る良妻でした。
 2人目を身ごもったところだと言います。

「奥さんのためにも、これから生まれてくる――」

 云々。
 心配そうな表情で、励ますような口調を真似て、私は続けます。

 斉藤は時折、妻のことを思い出しながら弱弱しく微笑みます。
 震える唇から覗く歯が、三本まで折れているのが確認できました。

 少し、私もぎこちない笑顔を返します。

「寒いな……ここは、寒い……。君は、寒くないの、か?」

「少し……」

 羽織ったカーディガンの内側には使い捨てカイロが貼ってありました。
 何日も寒い思いはしたくなかったのです。

 やがて斉藤の視線が定まらなくなり、頭をハンドルに付けました。
 寒々しい空の下で、呼吸がひとつ、ゆっくりと途絶えていきます。

「眠ってはダメです」

「~~~」

 意味のない言葉をむにゃむにゃと吐き出して、彼は沈黙しました。
 雨音だけがうるさく鼓膜を叩きます。

 手首の脈を探り、しっかりと死んでいることを確認してから、私はコンビニに向かいました。
 そのコンビニでは少年ジャンプが23:30から棚に並ぶのです。

 少し早い月曜日を自分から覗きに行くのは、私にとって重要な儀式でした。


 毎晩のように、「翌朝」が私を苦しめます。
 ご存じの方もいるように、眠れない夜は長い。

 携帯電話でネット上の知り合いと少し会話し、簡単なゲームを始めるとします。
 昔の漫画を少しパラパラとめくり、小説の背表紙を指でなぞるとします。

 そうしてたっぷりと気を紛らわせたつもりが、一時間も経っていない。

 即席麺を作り、無理やりお腹に収めたとします。
 すると見えない重圧が胃をひねりつぶそうと襲いかかってくるのです。

 その苦しみにすっかり消耗しきったと思っても、まだ夜明けはこない。

 しかも睡魔は一向に私を襲ってはこないのです。

 午前三時頃、新聞屋が原付のエンジン音を響かせます。
 日本中、朝刊を届けない日はほとんどありません。

 その「時報」を聴くと、いよいよもって焦り出します。
 「どうして私はこんな時間に起きているのだろう」と。

 空が白み、部屋に明るさをねじ込みます。
 雨戸の隙間からでも、容赦なく。

 鳥達が朝食を求めて活動を始め、さえずります。
 近年の建築にも関わらず、よく響く声で。

 顔に原因不明の熱がともります。
 手のひらに汗がにじみます。

 鼓動が速くなり、息が少しだけ荒くなります。
 耳を塞ぎ、布団に包まり、呪詛を繰り返します。

 でも、私は救われない。

 ついに次の日が私を殺しにきた。
 逃げるには魔法の薬を使わなければいけない。

 アルコールと錠剤を一気に飲むしかない。

 とりわけ、月曜日というのはかなりの強敵です。

 ここ数ヶ月、私の世界に太陽はありません。
 目覚めればいつも空は暗く、月がきまぐれに痩せたり太ったりしています。

 日々の変化は夜風の温度とコンビニの雑誌の入れ替わりのみ。
 出来そこないの金太郎飴みたいに、少しだけ違う。

 時々不細工な金太郎の顔が現れる日があれば、そうでない日もある。
 しかし、平均してしまえば「同じ」。

 そう、斉藤の死のように。


 初めは「嫌な物を見つけてしまった」という気分でした。

 まず、怪我人と会話をしなければいけないかもしれない。
 そして、もしかしたらどこかしらに電話をしなければならない。

 事後の処理に関わらなければ、警察、遺族と話さなければ。
 ほんの一瞬でたくさんの忌避すべき事項を考えました。

『たすけて』

 その小さな呻きを聴かなければ、私はその場から逃げていたことでしょう。
 事実、踵を返しかけていました。

 それでも結局逃げなかったのは、誰あろう自分のためです。
 私は罪悪感を抱えることから逃げるために、ネガティブな感情から救護を買って出たのでした。

 斉藤はひどい状態でした。
 もう助からないであろう、という感想のみ。

 無理。
 ダメ。

 死ぬ。
 死ぬ。

 痛みを伴った死の臭いを胸に吸いこんだのも、冷え切った絶望を肌に感じたのも、初めてでした。
 悲しみや哀れみよりも、虚無感が私を支配します。

 全く知らない人間が、ただの肉に還る。
 虚しさだけがそこにありました。

「助けて、たす、いたい、ああ……」

「ううう……誰か……」

 その時です。
 本当にその一瞬。

 たすけて、と言った斉藤が私に見えたのでした。


 動かなくなった彼の体に流れていた生がアスファルトに流れていきました。
 最期の一息で吐き出された魂が雨に溶けて行きました。

 明滅する街灯の下、私は傘を取り落としたのにも気付かず立ち尽くしていました。
 救急車が到着して、ようやく私は自分がどういう状況に置かれているかを思い出しました。

 オレンジ色の服を着た男性達が現れ何事かをまくしたてる間、
 車体のひしゃげた部分で何かしらの作業している間、足先から昇ってきたのは、「無」でした。

 それは斉藤だった物が流した血液から、私のスニーカーごしに侵入してきたようでした。

 寒さとは無関係に、肌が、粟立ちました。

 その晩、私は久しぶりに焦燥感からでない不眠を体験しました。
 目を閉じると全身が揺れるような、奇妙な感覚に包まれるようになったのです。

 腹部を中心に臓器が地中へ溶け込んでいくような感覚。
 皮膚の下で血肉が柔らかくなり、骨すらなくなり流れ出るような。

 何度も意識が混濁し、夢現の境界が曖昧になりました。

 私は朝日の下、高校の制服を着て歩いている瞬間がありました。
 夜更けに目覚めて母の目を盗み、キッチンへ入る瞬間がありました。

 父が笑いかけてくれました。
 父は私の髪を掴み頭を壁に叩きつけました。

 月が笑い太陽と出会ってダンスし、空に雲が流れず地面に落ちてきました。

 私はそれらを全て眺めることしかできませんでした。

 ウサギが時計を片手に走り抜けマンホールに落ちて消えるのです。
 鳥が地面に落ちてクチバシを突き立て、またたく間に灰となり風化します。

 後には何も残らない。

 振り向くと、胸から下を無くしたはずの斉藤が、健康な体でブロック塀の上に立っていました。

「日曜日に僕はいなくなったのか」

 ぽつりと言うと、彼は私から隠れるようにひょいと向こう側で飛び降りてしまいました。
 塀の切り取られた部分から、彼の背中が遠ざかっていくのが見えました。

 私はそれらを眺めているだけでした。


 初めて斉藤と出会った翌日。月曜日。
 私は彼が消えた場所へ足が向いていました。

 そこで、全く同じように助けを求める彼と遭遇したのです。
 消えたはずの男と。

「帰らないと……明日も、仕事だ……」

「休日に、こんな……くそ……」

 斉藤はしきりに休日出勤を悔いていました。
 家族を放り出して仕事に出た罰だと。

 上手い励ましが見つからないまま対応していると、彼はまた無に還りました。

 三日目も同様に、彼は後悔を口にしました。

 彼の時間は、日曜日の事故の瞬間で止まっているようでした。

「君は優しいな」

 一週間と一日が経った頃、彼はこんなことを言いました。

 たったその一言で、私はすっかり面喰ってしまいました。

「ありがとうございます」

 思わず出た言葉が場違いで、斉藤は赤く染まった歯を覗かせました。

「くく、あはは……おかしなっ、ゲボ……おかしな話だな……」

 彼が笑うと、アスファルトの染みが広がる速度が上がりました。
 血流が良くなっているのか、少し顔に赤みが差したようにも見えました。

 死ぬほど笑っている。

 ぼんやりとそんなことを考えました。

 母が部屋の外に置いていった食事を部屋で摂ると、定時まで布団の中に包まっていました。

「今日はどんな話をしよう」

 相手は毎晩、記憶ごと存在をリセットしています。
 何の話をしようと、どんな質問を投げかけようとあちらは気にしないのです。

 それなのに、私はそんなことを考える。
 希望を持たせたり、生気を取り戻させたりする話題を考えているのです。

 どうやったら彼を生きながらえさせることができるか考えているのです。
 既に、死んでいる人間に対して気を使っていたのです。


「落ちつく晩で、よかったかもしれ、しれない、い、な」

 空は相変わらず雨を落とし続けていました。
 斉藤はそんな最後の夜を、満足げに受け入れているようでした。

「……死んでしまってもいいんですか」

「悪くはない、という程度さ」

 こんな晩ならな、と彼は言いました。
 そして、くふぅ、と息を吐き出した後、やはり彼は日曜日に消えました。


 ……不安に襲われました。

 私は死ぬのが怖かったのです。
 彼の「無に還る」様子を見て、ますます。

 何もかもが溶け出してしまう。
 死後の世界なんてものはないように思える。

 ならば救いはどこにあるのか?
 今抱えている苦しみはどうなるのか?

 死は多大なる苦痛を伴うが、しかし、解放である。
 これが私の考えでした。

 救いを得るための、最大の恐怖が死。

 では、現状を幸福に思っていた斉藤が迎えた、あれはなんだろう。
 それを受け入れた心持はどんなものなのだろう。

 自らの考えが打ち崩されるのは堪えるものです。
 しかも、明確な反論によるものではない。

 死ぬことは怖くない?


「どうしたんだい」

「どうした、とは」

「僕なんかより、ずっと、君は、顔色が悪い、よ」

「そんなこと」

「君はまだ若いだろう、今から、そんなでは、よくない、よ」

「そんなこと……」

 ついに立場が逆転してしまいました。
 死人には口があったのです。


 私は斉藤の死を眺めに行くのを止めました。
 外出もしなくなりました。

 外は雨が降り続けています。
 気温も下がり続け、ついに暖房が必要となりました。

 一日か二日に一度、食事を摂り、後はひたすらにベッドの上で目を閉じている日々。
 窓をガムテープで目張りにし、携帯電話の電池を捨てました。

 見たくないこと、聞きたくないことからは逃げてしまえばいいのです。
 今までもそうしてきて、今回もそうしただけのこと。

 ただただ、時間がすぎるままに。
 ひたすら、苦しまない死を望むままに。

 命の灯が勝手に費えるのを待つだけになったのです。

 すると、夜が長くなりました。
 これまでの何倍にも長くなりました。

 秒針がうるさく、時計を壊しました。
 それでも家族の生活音が気に入らなくて、耳に棒を差し込みました。

 次第に臭う自分の体を恨み、痒みを感じる皮膚を呪いました。
 時間が経つことを望み、時の経過を知る物を遠ざけようとしました。

 毎日、明日が月曜日であるように思われました。
 毎日が日曜日ということは、つまりそういう事でもあり得ます。

 泥のように眠ることもなく、曖昧な境界をたゆたう意識は混迷を極めました。

 過去が未来と直結し、現在をないがしろに独走していきます。
 後悔により将来の自分が苦しむ様を、確定した未来のように感じるのです。

 何をしても昔の自分がついてくる。
 どうしたって事態は好転しない。

 自分を愛することはおろか許すこともできない。
 永遠の日曜日に囚われたまま、私は眠りを求めて錠剤を嚥下しました。

 どこからどこまでが夢かも分からない状態なのに。


「君だけが苦しんでいるわけではないんだよ」

「何をしているんだい、そんなことでいいのかい」

「ねえ、応えたらどうかな」

「家族に会いたいなあ」

「君は、誰?」

「君は、何?」

 斉藤に似た声の持ち主が私の耳の中に入り込んできました。
 そして、私の心を貫く言葉が脳内に大きく響きます。


「そういえば、今は何曜日だったっけ?」


 あ、あ、あ、あ、あ。


「ああああああああああ」

 目覚めると暗い天井がそこにはありました。
 私には何が起きているか分かりませんでした。

 枯れ木のように細くなった手を顔に当て、悲鳴をあげるしかありませんでした。
 ベッドから降りようと身を捩ると、思うように体が動かず床に頭を打ってしまいました。

 痛みに涙を流し、息苦しさから鼓動が速くなります。
 薬品臭い廊下には非常口の案内灯だけが緑に怪しく光っていました。

 転び、膝を打ち、足首がおかしな方向に曲がっているのを見てしまいました。
 そんなもの、切り落としてしまいたかった。

 身軽になりたかった。
 何故自分はここにこうしているのだろう?

 階段を転がり落ちました。
 雨が降る夜空の下まで出ました。

 這って、這って、爪が剥がれても、まだ這いました。

 逃げなくてはいけないと思ったのです。
 自分から、日曜日から、月曜日から、時間から。

 きっと斉藤が死んだ場所まで行けば一緒に無へと連れて行ってくれるはずです。
 スニーカーから沁み込んだ消失の気配を今度は全身に余すところなく受ければ。

 ここはどこだ。

 あそこはどこだ。


 私は誰だ。


 手足が動かなくなっていきます。
 体中の力が尽きようとしていました。

 空が明るい気がして見上げれば、街灯があるだけでした。
 鳥のさえずりに怯えたのですが、私の耳はもはや何も聞こえないはずでした。

 背後に何かが迫っている。
 秒針の音が聞こえる。

 明日が来る。

 今日が明日を連れてきた。
 明日が来る。

 たすけて。

 もう誰か私を許して。
 逃げて何が悪いの?

 逃げてどうしていけないの?

 後ろから何かが来る。
 もうすぐそこだ。

 ああああああああ。


「あっ」

 視界の端から、二つのヘッドランプが躍り出ました。
 それは私に急速で接近し、そして。


月曜は来ない。もう来ない。
きっと来ない、絶対来ない。


 目前に大きな影が迫った直後、私は暗闇を舞いました。
 ドライバーの顔は、斉藤に似ている男のものでした。


もう終わり、これで終わり。
これ以上は苦しくない。


 日曜日、深夜。

 路上の障害物を避けようとした乗用車が電信柱に衝突。

 ドライバーの男性は病院に運ばれたが、間もなく死亡。

 (+身元不明の誰かがどこかで消え去ったかもしれない)


月曜日は来ない

お   し   ま   い

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