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波とクラゲ

うっすらと目が覚めて、まず聴こえてきたのは波の音だった。ざあーん、ざざああ、ざああ。カモメの声が近づき、また遠ざかっていく。まつげにやわらかい陽の光が降ってくる。洗い立てのシーツの匂いがする。

遠い頭のまま、体をゆっくり起こす。目の前の壁は一面ガラス張りで、その先にどこまでも海が広がっている。薄い雲が一枚かかった空は白く光り、空と海の境界はぼんやりと霞んでいる。

ざざああん、ざあーん。寄せては返す波をしばらく見つめていると、だんだんと目の奥に重力が戻ってきた。そして思う。一体、ここはどこなのだ

昨夜。連休前に仕事を片付けてしまいたくて、夜遅くまでオフィスに残った。パソコンをシャットダウンしたのがたしか22時すぎ。金曜日のにぎわいを突っ切って、宮益坂をまっすぐ渋谷駅まで歩いた。階段を上って、ちょうどホームにすべりこんできた山手線に乗って、めずらしく端の席が空いているのを見つけて座ったところまでは覚えている。それから?

まわりをぐるり見渡す。10畳ほどの、ホテルのような真四角の部屋。ほかに人はいない。小さなテーブルに、洗面台、クローゼット。着ているのは、見覚えのない白いコットンのワンピース。すうっと息を吸う。今日はいつで、ここはどこなのだ。

コンコン。

後ろからノックの音、同時にドア越しに男性の声がした。
「お目覚めですか」
反射的に「あ、はい」と答えると、カチャリとドアが開いた。
「おはようございます」
50代半ばくらいだろうか。白髪混じりの髪に丸いメガネをかけた紳士が立っている。手には真っ白なバスタオル。リネンのシャツに青いパンツを穿き、足元ははだしだ。
「ブランチの時間に間に合ってよかったです。外のレストランで準備ができていますから」
「はあ」
「ああ、すみません。申し遅れました。ここの案内係をやっている者です。『おじさん』と呼ぶ方も『メガネさん』と呼ぶ方もいます。お好きな呼び方でどうぞ」
「はあ」

“メガネさん”は小さく口笛を吹きながら、タオルを洗面台に並べている。開け放ったドアから入る風に、白いシャツが揺れる。その様子をぼーっと眺める私に、彼は言う。

「おなかが空いたでしょう。まずはお食事をどうぞ。ビーチまでの階段を降りて、左にまっすぐ行ったところがレストランです」

はだしのまま外に出ると、むわっと潮が香った。背中側は木が生い茂る山になっていて、そこから続くゆるやかな斜面にコンテナハウスのような四角い箱(というか、部屋)がぽつりぽつりと置かれている。ビーチへの階段を降りる途中、砂混じりの風が足元を通り抜けた。

ビーチの一角には舞台のような大きな木の床が敷かれていて、その上にテーブルが等間隔に並んでいる。そこが「レストラン」であるらしかった。

一番手前のテーブルに、今まさにトースターから出したばかりに見えるトースト、そしてサラダ、スクランブルエッグ、ベーコンが置かれている。横付けされたステンレスのキッチンワゴンには、ガラス瓶に入ったドリンクが並ぶ。アップルジュース、パインジュース、マンゴージュース、グアバジュース、冷たいミルク、アイスコーヒー。

「みなさん、グアバジュースがおいしいとおっしゃいます」

横を見ると、メガネさんが立っていた。

「そうなんですか」
「僕はマンゴージュースのほうが好きなんですけどね」
「あの」
「はい」
「ここは、どこですか」

「島です」とメガネさんは言う。
「島、ですか」
「波はいつもだいたいこんな感じで穏やかです。あっち側には図書館とアイスクリーム屋があります。アイスクリームはいつでも食べ放題ですが、おなかを壊さないように気をつけてくださいね。それから、日が沈む頃にここで映画を1本上映します。ほら、あそこにスクリーンがあるでしょう。今日はね、たしか『ニュー・シネマ・パラダイス』をやると思いますよ。あなた、好きでしょう」
「はあ」
「自転車もあります。歩いても十分回れますが、自転車をこぐのも気持ちいいですよ」
そう言ってから、メガネさんは手元の時計をちらりと見た。
「お部屋の掃除に回る時間なので行きますね。またあとでお話ししましょう」

ざざあん、ざーん、ざざざああ。海の音はゆったりと規則的に流れ続ける。どれくらい時間が経ったのだろう。ふと横を見ると、いつのまにか隣のテーブルに大きな帽子をかぶったマダムが座って本を読んでいる。私と同じ白いワンピースを着ている。

視線に気づいたのか、マダムは顔をあげた。

「こ、こんにちは」
「こんにちは。あなた、今日ここにいらしたの?」
「えーっと、ええ、そんな感じです」
「グアバジュース飲んだ? おいしいのよ」
「あ、いえ、あとで飲んでみます。いや、そうじゃなくて、あの」
「なあに?」
「あの、ここはどこですか」
「ここは、島ですよ」
「島、ですか」
カモメの鳴き声が空を横切っていく。マダムは遠い目をして言う。
「自分がどうやってここに来たのかは忘れちゃった。1週間、ううん、1ヶ月くらいかな?もっと長い間ここにいるような気もする。でも、そろそろ出ていく頃かなと思っているの」

そう言うと、彼女はまた手元の文庫本に視線を落とした。山の木々がざあと揺れた。

ちゃぷりと波に足をつけてみると、思ったより水は温かかった。半袖でも寒くない、かといってジリジリとした暑さもない。ぬるま湯のような西日が、浜辺に均一に降り注いでいる。

私は“島”にいる。いつ、どうやって来たのかもわからない所にいる。

ちゃぷちゃぷと波ぎわをまっすぐ歩く。ときおり強い海風が髪を巻き上げる。

「ひとり海を眺める時間もいいものでしょう」

後ろからメガネさんの声がした。この人は、いつも気配なく突然現れる。

「人には、孤独と静寂が必要だと僕は思います。それがないと心の泉が枯れていく。一度枯れた泉を元に戻すのは、とても難しいことです」

そう言いながら私の隣にやってきた。ふたり並んだままゆっくりと歩く。ざざあん、ざーん、ざざざああ。ただ波の音だけが流れている。

「あの、私は、死んだのでしょうか」
「みなさんそれを聞きますね。気になりますか」
「ええ、そりゃあ…」

メガネさんは、まっすぐ前を向いたまま微笑んでいる。

「大丈夫ですよ、死んでいないですよ」
「じゃあここは」
「あなたは、ここに“来ることになった”。それだけです。出ていく時期は明日かもしれないし、もっとずっと先かもしれない」
「自分で出ていくことはできないんですか」
「あのね」

メガネさんは私の目をじっと見つめて、おだやかに続けた。

「自分で行く道は自分の力で決めているとみんな信じ込んでいるけど、それは幻想なんですよ」
「はあ」
「いつ、どこへ行くかっていうのは、残念ながら自分で決めることはできないんです。波に揺られてるクラゲみたいにね、僕たちは流されていくんですよ。でもそれはね、別に悲しいことではないと僕は思います」

メガネさんも私も、その続きはなにも言わなかった。渋谷駅。山手線。パソコン。白いシーツ。トースト。文庫本。断片的なイメージが頭に浮かんでは消えていった。

「もうすぐ映画が始まりますよ。夜は星空もきれいです。しばらくゆっくりしていってください。こんな予定外の旅も、たまにはいいでしょう」

空は薄紫に染まり始めている。私は大きく息を吸った。潮の匂いが体中を渡っていった。


「ソファでわたしは旅をする」は、"空想の旅"がテーマの共同マガジンです。


あしたもいい日になりますように!