文鎮の下

「お母さん、僕、なんだか怖いよう」
「どうしたの? 幸ちゃん」
「わかんないけど、なんだか怖いよう。エスカレーターに乗るのはいやだよう」
「どうしちゃったの、いったい?」
「怖いよう。だって見てよ、あそこんところ…」
「どうしたの? どうしてエスカレーターの終わりのところが怖いの?」
「僕、機械にもまれるよ」
「なあに? どういうこと?」
「機械にもまれて、僕、あそこんとこで画用紙みたいにぺらんぺらんになっちゃうよ」
「どうしたのよ、幸ちゃん。ぺらんぺらんになんかならないわよ。とっても安全よ」
「でも…」
「もう、どうしちゃったのよ、急に。変な子ね…。いいわ。じゃあ、階段で行きましょう」
「うん」


「きんつばは今日はいいにしようよ、お母さん。だってほら、ストローがないもの…」
「もう、幸ちゃんったら…。きんつばはストローで食べるんじゃないのよ。甘いお菓子なんですもの。手でそのまんま食べていいのよ。むしろそういった方がみんなに…」
「ねえ、お母さん…」
「なあに?」
「お父さんはどうして背広を着て会社に行かないの? 会社に着いてから着替えるの?」
「お父さんはね、会社に着いてから背広じゃないけど背広に着替えるのよ」
「背広じゃないけど背広なの?」
「そうよ。幸ちゃんだってほら、前にも見たことあったでしょう?」
「ないよ」
「そうだったかしら…」
「ねえ、お母さん…」
「なあに? どうしたの?」
「ぺらんぺらんになっても、僕のこと、まだ好きでいられる?」
「もう、さっきからおかしな幸ちゃんね…。ぺらんぺらんになんかならないわよ。どうしてそんなふうなこと思うの?」
「だって僕、忍者人間じゃないもの…。ねえ、お母さん、ぺらんぺらんになっても、僕のこと、絶対に嫌いにならないでね」
「もう、幸ちゃんったら…」
「ねえ、約束してくれる?」
「ええ、いいわ。約束するわ。お母さん、幸ちゃんがどんなにぺらんぺらんになったって、嫌いになんかなるもんですか! だって幸ちゃんは幸ちゃんですもの。お母さんの大切なたったひとりの幸ちゃんなんですもの!」


「もう、幸ちゃん、昨日行ったばっかりじゃない。そんなにいっぱい本を買う人なんていませんよ」
「だって、忍者人間が折れないんだもの…」
「忍者人間?」
「うん」
「なあに、それ?」
「忍者なんだけど人間なんだって。お母さん、僕、そんな人知らないよ」
「お母さんだって知らないわねえ、そんな人。いったいどういう人なのかしら…」
「ほら見て、こういう人!」


「まあ、山下さん、手ぶらでいらしてくれたらいいのに…。こちらから何か差し上げるのが筋ですもの」
「ははは。それはなんだかおかしいですよ、水野さん、おかしいです」
「どうしてですか?」
「僕は好きで来てるんですから、幸治くんのところに。なんて言ったらいいのかなあ、好きなんですよ、僕はただ…」
「でもこんなに遠くまでわざわざ…」
「遠いからいいんですよ、水野さん。仮に水野さんちが僕んちの近所だったとしますよね、そしたら僕、こうやってこちらへ来るのをためらうんじゃないかと思うんです。むしろ来ないでいることの方が、かえって僕の誠意になるような気がします」
「誠意?」
「はい、なんとなくおかしな言い方ですけれど…」


「それでそのう、ご主人の職場で幸治くんはいったい何をしたんです?」
「デッサンですよ、山下さん。あの子、デッサンしたんですよ、そこで」
「デッサン? 職場でですか?」
「ええ、そうなんです。主人はその時、溶接をやっていたんですよ、マスクをつけて。わかります? 溶接のマスクって。目のところがこうメガネみたいになってる…」
「はい、あの剣道のお面みたいなやつですよね?」
「そうです。あれです。あれをしていた主人の顔を描いたんですよ、あの子、その時」
「ははは。そしたらもう、顔じゃないじゃないですか」
「そうなんです。でもあの子にしてみたら、それが自分のお父さんの顔なんですね。きっとあの子、思い出したんだと思います。私と二人で主人の工場に行った時のことを」
「へえ、すごいですね、そういうのって」
「あと溶接をやる人はだいたい、工場の入り口付近にいるんですけどね、工場の中では光が入りませんから。それでその時、工場に着いた途端、あの子ったら、忍者、忍者ってもうはしゃいじゃってはしゃいじゃって」
「ははは。溶接をしている格好が忍者に見えたんですかね」
「どうやらそうみたいなんです。僕のお父さんは忍者なんだって、ちょっとすごいんだって、園長先生にまでそう言ったんですよ」
「かわいいじゃないですか」
「でも父親の顔を描いた絵が、溶接用のマスクだけじゃ、主人の心も複雑ですよ。しばらくの間、公民館にも貼られたんですから。あの時の私ったら、もうとっても恥ずかしかったわ。主人は皮肉でおもしろいって言って笑ってましたけど」
「それで髭が好きなんでしょうか?」
「ええ、たぶん。主人もずっとそうでしょう? だから髭をあれくらい生やしてる人はたいてい忍者なんですよ、あの子の不思議な頭の中では」
「おもしろいですね。そしたら幸治くんの不思議な頭の中では、僕も忍者だ」
「ええ、どうやらそうみたいです」
「ちょっとすごいんでしょうかね?」
「ええ、おそらく」
「それはいいな! そうなるとなんだかこうやって僕が水野さんとお話できるのも、どこか近いところで幸治くんがバチバチ火花を飛ばしてくれているからじゃないかなって気もしますよ」
「そうだといいんですけどね」
「そうですよ、そうに決まってますよ。溶接なんですよ、これって」


 普通のサランラップと
 細いのと
 もっと細いの

 太いサランラップと
 太くないのと
 細いの

 どのひとがいちばんすごいの?
 えらいの? 

 滝はどれ?
 お母さん、このサランラップの中でほんとうの滝はどれ?

 ほんとうの滝を見せて
 お母さん、ほんとうの滝のことをぼくに見せて


「私、滝って見たことないんです。もしかしたらどこかで見ているかもしれない。でもそういうのって、滝を滝として見たことにはならないと思うんです。水しぶきの集合体としてしか、たぶん見ていないんです」
「水しぶきの集合体、ですか?」
「ええ。蛇口の水を見ているような、そういう感覚です。だから滝的にサランラップを見るようなことが、私にはなかったんでしょうね。あの人はこうだ、こっちの人はあの人とちょっと違うからこうだ、というふうにしか、私には見ることができなくなっていたんです」
「おかしな言い方ですけど、滝にだって気持ちはある、例えば、そういうことなんでしょうね」
「ええ、ほんとそうだと思います。忍者人間だって同じです。彼らにも気持ちはあるんです。それは息子が与えたものであったり、時に息子自身だったりするんです。たとえぺらんぺらんになったとしても、彼は私の息子なんです。あの子はあの日、私にこう言いました。『ぺらんぺらんになっても、僕のこと、まだ好きでいられる?』って。私はいったいどうしてそんなふうなことを思うのか、聞いたんです。そしたらあの子、『だって僕、忍者人間じゃないもの…』って…。自分はまだ忍者人間じゃないから、折り紙のような出来上がりじゃないから、肉体に忍びを燃やしていないから、だからこそ自分のことが不安でたまらなかったんじゃないかって思うんです…」
「そう言われてみれば、僕たちはみんなそうだな」


「山下くんの下の名前、なんて言うんだっけ?」
「慎之介です」
「へえ、立派な名前なんだなあ。慎之介かあ、いいなあ」
「そうですか? 僕はあんまり気に入ってませんけど…」
「なんで? どうして?」
「はい、慎之介の之っていうのが嫌なんです。なんだかつなぎみたいで」
「つなぎ?」
「はい、このハンバーグでいうとパン粉みたいな感じっていうか…。子供の頃からずっと嫌でしたよ、もう」
「ふうん、わかんないもんだなあ。俺は耕太郎の耕の字が嫌だな、線ばっかりで」
「え、そうですか? かっこいいじゃないですか、耕太郎さんの耕って」
「そうかなあ…」
「いいですよ、耕太郎さんの耕」
「いや、俺は慎之介の之っていう字の方がいいよ、昔っぽくて」
「じゃあ、交換しますか? 丸ごと」
「いいよ」

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