見出し画像

あなたはあなたのままで十分に価値がある

画像1

Red Octoberが進んでいる。

精度の高い情報を多く集めている人は、事態がどんどん変化していることを実感しているだろう。反対に、そうでない人は、なにも感じないかもしれない。

あらゆる大きな変化は、水面下の小さな積み重ねによって起こされるので、情報は多ければ多いほどいい。情報を多く集めれば集めるほど、見えてくるものがある。(ただし、精確な解析力がある場合に限っての話だけれど。)

表側のマスメディアは、見る側の認識に誤解が生じるように、100ある情報のほんのわずかな一部だけを切り取って、さも、「これが真実だ」と言わんばかりに、湾曲した情報を報道する。100の全体を知れば、白であることが明白なことも、一部だけを切り取られると、黒に見えることがある。メディアは、そういった情報の特徴を巧妙に扱い、視聴者の意識や認識、行動を、支配者の都合のいいようになるよう操作している。騙されてはいけない。

情報戦争のなかも、健全な肉体と精神を保ちながら生きるためには、思考を磨くこと。感性を研ぎ澄ますこと。無駄なものはなるべく捨てて、人工的なものから極力離れ、自然の声に耳を傾けることだ。

自然は、なによりも美しい。

そう感じられる心を身につければ、自ずと、汚いものがわかるようになる。

人間の定義

画像2

先日の、加藤諦三さんとマドモアゼル愛さんの対談の際、加藤先生はこんなことをおっしゃっていたそうだ。(映像には残されていない。)

「このままでは、あと5年ほどで、日本人全体の精神活動が終わってしまうのではないか」

マスク着用が半ば強制状態の社会で、周囲の大人の表情が見えぬまま、友だちと、まともな交流さえできないまま育った子どもたちが、将来どんな大人になってしまうかは、いまさら書く必要はないだろう。

それでなくても、戦後の愚民化教育によって、日本人は、劣化、堕落してしまったのだ。加藤先生が懸念されることは、十分に起こりうる。

日本人の劣化は、戦後のウーマンリブから始まった。

ウーマンリブは、「男女平等」という美辞麗句(つまり嘘)の下に、女性をビジネスに引きずり込んで多忙にし、子どもたちから母親を奪う、外国勢力の戦略だったことは有名だ。ウーマンリブは、夫から妻を奪い、男女が激しく対立する社会の空気醸造を助長した。この国の劣化の根本原因は、間違いなくウーマンリブにあると、僕は確信している。

DS(旧名 ユ◯◯国際金融資本)は、他国の社会秩序や文明を効率良く破壊するには、女性を壊せばよいと戦略的に知っていた。ウーマンリブがDSアメリカから輸入された結果、日本の男も、子どもも、家庭も、文化も、風習も、すべてが彼らの都合の良いように壊された。それによって、日本は、幼児期の承認欲求がまともに満たされず、心が子どものまま大人になってしまった五歳児の大人たちが大勢生まれることになった。

森博嗣先生の受け売りではあるが、人間の定義とは、未来を想定できることだ。人間と、その他の動植物との唯一の違いは、そこにだけある。(もちろん、犬や猫の動物でさえ、ほんの少し先の未来なら、想像できる能力を持っている。)

つまり、未来を想定できない人は、人間ではないと言っても過言ではない。

しかし、幼児は、人間(大人)になりきる前の段階なので、五歳児の大人たちは、いくつになろうと未来を想定するという、人間の能力を習得することはできない。だから、政府やマスコミの垂れ流す偽の情報に、いとも簡単に騙されてしまうのだ。それらの酷い実態は、今回の捏造ウィルス騒ぎによって、より一層明確になった。

ほんの少しだけ情報を集め、自分の頭で考えれば、マスクやワクチンの効果と安全性に科学的根拠(再現性)がなく、どれだけのリスクや害があるかは、小学生でさえ理解できることだ。しかし、多くの大人たちは、それさえできなくなっている。マスメディアの垂れ流す、支配者に都合の良いように切り取られた情報(嘘)を、野放図に受け入れるだけ。そういった思考停止状態の人たちは、人間とはいえない。

日本人の劣化は、それだけではない。

他人に興味を持てない。
他人に思いやりを持てない。
まともな人間関係が構築できない。
他人に優越することしか考えられない。
自分さえよければいいと思っている。
自分より幸せな人を見ると嫉妬する。
他人を不幸にしてでも、自分が幸せになりたい。

これらはすべて、まともな両親から適正な愛情を受けずに育ってしまったことに起因する、幼児性や自己中心性だ。

加藤先生のおっしゃる「精神活動」というのは、言い換えれば、「情緒の豊かさ」ではないかと思っているが、おそらく、「情緒の豊かさ」という簡単な言葉の意味さえ、もはや多くの日本人には伝わらない時代なのだろう。

僕なりに、「精神活動」「情緒の豊かさ」を、別の言葉に言い換えてみると、

はつらつとした感情表現とか、
喜怒哀楽の起伏とか、
正しい日本語の使い方とか、

になるだろうか。

認識論的に言えば、脳細胞のレベルであり、マグマのように熱く煮えたぎる情熱的で激情的な認識とか、そういう表現になるのだけれど、どこまで伝わるかはわからない。

要するに、いまの日本には、昔ならではの、古き良き大和魂のようなものが失われつつある、ということなのだろう。

反対に、いまの日本人の脳細胞のレベルは、真冬の鉄板や日陰の氷板のように堕落している。

冷え切った家畜の死体が、電子的に意思をもたされ動いている程度の、まるでゾンビのようで、情緒の豊かさとは程遠い。本人にその自己認識がないのが、秩序破壊の一番の恐ろしさだろう。

この映像は、いまの日本人の実態を忠実に再現している。

幸せは自分のなかにある

画像3

なんか、もっとこう、明るいことを書こうとしていたはずなのだけれど、久しぶりのエントリだからか、執筆環境がいつもと違うからか、想定していたよりも暗くなってしまった気がする。(自分の文章の未来さえ想定できなかったので、僕も人間ではないのかもしれない。)

「勇気と元気は、使えば使うほど増えてゆく。反対に、使わなければ使わないほど、減ってゆく。」

これは、僕の好きな歌手の方の言葉なのだけれど、本当にそう思う。僕も、なるべく、日々を元気に生きようと努力しているし、勇気も使うよう心がけている。確かに、おっしゃる通り、意図的に元気を出していると、たとえそれが、から元気であっても、だんだんと元気になる。勇気を出して行動していれば、勇気がもっと湧いてくるのも、実感している。だから、そういう日常を続けようと思う。

でも、世の中を見渡していると、多くの人はとても暗くて、陰気だ。常に臆病で、なにかに怯えているようにも見える。

しかし、毎日毎日テレビ漬けになっている人たちが、元気や勇気がなくなるのも、当然だろう。

つい最近もどこかで書いたと思うけど、世の中は、僕ら庶民への

「いまのお前には価値がない」

といった破壊的メッセージで溢れている。特に、テレビはそれが顕著だろう。

あの人気女優が結婚しました!
「独身の私には価値がないのだ……」
あの人気タレントが第一子を出産しました!
「子どものいない私はダメね……」
あの人気格闘家が高級スポーツカーを購入しました!
「カネのない俺はダメ人間だ……」
あの人気お笑い芸人がダイエットに大成功!
「私も痩せなきゃ……」

DSの管理する資本主義社会は、こうして、いつまでも、

「いまのお前には価値がない」

とがなりたてて、庶民の劣等意識や嫉妬心を高める為に、意図的に煽ってくる。そして、危険なカネ儲け(株やFX、暗号通過売買等)や、結婚活動、妊娠活動、過剰購買など、自分たちの都合の良いフィールドに僕らを誘い込み、消費を煽り、骨の髄までしゃぶり、搾り取る。

多くの人は、幸せになろうとして行動しているはずなのだけれど、そういう怪しい情報に踊らされて、どんどん不幸になっているように見える。

そして、

「どうして私はいつまでも不幸なの? どうすれば幸せになれるの?」

と悩んでいる。

僕からすれば、怪しい人や情報に近寄らなければいいのにと思うのだけれど、もはや情報が宗教と化している現代では、そういう助言は届かない。五歳児の大人は、嘘も誠も見抜く能力はないのだから、致し方のないことか。

幸せになるのは簡単だ。

いまの自分で十分に価値があるという事実に目を向ける。それだけでいい。でも、多くの人は、子どもの頃から破壊的メッセージを受け取り続けているので、常に、今の自分には価値がないと思い込んで、不幸や不足に意識を向けて、しゃかりきになって、幸福を追い求めている。

その行為自体が実は幻想であり、不幸を招く根源だと気づいたのは、僕も最近なので、仕方がない。

でも、今なら言える。

あなたはあなたであるというだけで、今のままでも、十分に価値がある。

星那が悪い

画像4

三男の星那セナ。こいつが本当に悪い。他人様の犬には吠えるし、気に食わない相手には食らいついていく。(そして、僕に引っ叩かれるのだけれど、彼は、そういう未来は想定できないので、やはり人間ではない。あ、犬か。)

我が家に迎え入れてからあっという間に8ヶ月くらいが経過しているのだけれど、子犬の頃のやんちゃ坊主っぷりはまったく収まらない。(まだ1歳になっていないので子犬なのだけれど。)

考えてみると、K先生(有名陰謀論者ではなくて、犬のブリーダさん)は、もともとトイプードルのブリーダだ。でも、星那はK先生の排出するミニチュアプードルの第一世代。そりゃあ、長年培ってきた血統の末に生まれた、トイの陸や風太とは違うわけだ、と最近、納得した。

画像5

K先生は、

「トイよりミニチュアのほうが飼いやすいわよぉ〜」

なんて言っていたけど、全然そんなことはない。(母犬のチーはとっても穏やかないいお母さんだったのだけれども……。まあ、ある意味トイよりミニチュアのほうが賢いので、こちらの思惑を見抜かれているだけなのかもしれない。)

陸や風太の穏やかさに慣れた僕とUYは、星那の暴れん坊っぷりには、毎日苦労している。果たして、彼は、4歳までに落ち着くのだろうか?

でも、先に書いたように、星那は星那というだけで価値があるんだなと、この歳になってようやく思えるようになってきた、というお話です。

我が家は、もともと、陸にも風太にも、厳しいしつけはしていない。犬たちの生まれ持った個性を無理に押さえつける必要もないし、こちらの都合の良いように変える必要もないかな、と思っている。

陸ができるのは、お手とお座りと伏せ、待てだけ。

風太は、お座りと伏せと待てだけ。

星那は、お座りと待てしかできない。

でも、なにも日常的に困ることはない。

犬たちは、元気で健康で可愛いのが仕事なので、彼ら三人は、我が家にいてくれるだけで、もう十分に仕事をまっとうしてくれている。そう思えるようになった。
(残念ながら、風太は、7歳という若年性白内障でほとんど目が見えなくなってしまったけれど、でも、今の所、日常生活に大きな支障はない。散歩もできるようになったし、ボール投げだって、室内だったら上手に持ってきてくれるようになった。目が見えなくたって、今でも、とても可愛い次男である。)

画像6

みんなそれぞれ、生まれ持った役割と運命がある。

みんなそれぞれ、与えられた宿命がある。

犬は鳥にはなれないし、鳥は魚にはなれない。

多分、それでいいのだと思う。

ただ、熾烈な資本主義社会において、なにか結果を出すとなると、目的や目標に適った適正のある人や物、となってしまうのが、社会の過酷なところだ。

資本主義は結果主義だから、人の能力が過剰に評価され、あいつはできる、こいつはできないといった格差が生まれてしまうのだろう。

生命の本質は競争だが、しかし、同じ種族同士で殺し合うのは、人間しかいない。

そういう、醜い争いや、くだらない競争のない平穏な社会で、あらゆる人たちの、虹色の個性や特徴が許容される世界は、果たして到来するのだろうか。

いいえ。

来ると信じて、待ちましょう。