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弔い

今日会った友人に、共通の知人が先月急死していたことを聞いた。

友人も直接ではなく、さらに別の知人からのまた聞きの情報だから死因以外の詳細は分からなくて、少しの情報から死期すら予想せねばならない話だった。
情報が少ない故に最初は実感が湧かず、なんだかものすごく遠いひとの死を聞いているような感覚。

でも彼女の年齢をふたりで指折るように思い出し、その若すぎる死に似合わない死因への衝撃が頭の中で重なると、逆にじわじわとわたしの中で実感となり泣けてきた。

わたし自身はもう5年近く疎遠になっていた彼女、いまどうしているかといった近況は共通の知人を介して聞いてはいたけれど。まさか。

公私で一緒に過ごした時間や、そのときどきの彼女のキュートで悪戯っぽい表情を思い出すと胸が締め付けられるような気持ちになる。
一緒に取り組んだこと、しょうもない会話で笑ったこと、恋愛話や家族観の話をしながら、数年間ほぼ毎日顔を合わせて関わりあった日々。一見パリピのようで実はとても繊細で少女のように純粋だった彼女の姿が、今日は話を聞いてからずっとわたしの頭の中を行ったり来たりしてる。

わたしより10歳以上若かった彼女の死に、まだ若いのに、という言葉が出そうになるけれど、それはちょっと違う気もしてる。
それはきっと残された者が自分勝手に感じること。彼女は彼女なりの人生を全うしたんだと信じることで、彼女の死を弔いたいなと思う。

彼女が最期の瞬間に、幸せな気持ちでいられたことを願います。
もしかしたらそんな願いも、わたしのエゴなのかもしれないけれど。


落ち着かない気持ちで帰宅して、今晩は長男とふたりだけだったので、知人の死について彼と話をした。
早すぎる死とかじゃない、でも先のことより今を生ききらないと、と感じたことを長男に伝えたら、静かにそれに尽きるな、と返してきた。
少し驚くような報せに対しても、いつも通りのトーンとスタンスで言葉を返してくれる長男の空気感にずいぶんと救われた気分だった。いまのわたしの気持ちを受け止めてくれたのが、長男で良かったなと心底思った。


昨年の日本人の超過死亡が6万人を超え、今年はさらに増えている今、自分自身の回りでも今後そんな話が出てくるのかもしれない。
矛盾だらけのルールがまかり通る混沌とした世の中で、そうした報せに気持ちを引っ張られ過ぎず、いかに自身のペースを崩さず粛々と丁寧に生きていけるか。そんなことをますます問われていく気がしてる。


ねえ、でもさ。会いたかったな、彼女にもう一度。





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