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いま有るものに、感謝だけすること

夏休みを前にふと、自分の周りにすでに有るものに感謝しよう、と決めた。

いつもいつも、すでに有るもの、出来ていることは当たり前として「もっともっと」上や多くのことを求めてばかりきたなあと、ふと気付いたんです。

自分ひとりの心の中でそう思ってるのは、まあ向上心が高くてそれはいいことではないですか、とも思えるけれど、私の場合それを家族や身近なひとにも期待してしまうところが面倒臭かった。

子どもが、国語はいいけど算数は苦手、という成績を見たなら「国語すごいね」という言葉の前に「算数もっと頑張らなきゃ」と言ってしまう具合に。

そう気付いたきっかけは何だったか忘れたけれど、子どもたちの懇談会のあとぐらいのタイミングだったので、きっとそこでの会話や気付きがきっかけになっているような。とにかく晩ごはんの後片付けをしているときにふとそう思って、旦那さんに宣言したんです、忘れないうちに決意表明をした。いま有るものに感謝して、それを口に出していく、と。

そうして夏休みの間、子どもたちに日々「出来ていること」や「やってくれたこと」だけを認めて口にしていくことにした。

これまで、夏休みはじめ長期休みって、朝ごはんを食べたらお手伝い、それが終わったら宿題などの勉強をして午後からは自由時間、みたいなスケジュールを子どもたちに課してきた。強制的に、有無を言わさず。出来るだけダラダラした時間ができないように、できるだけ充実した一日になるように。今思えば、なかなかの圧制政治だったよね。長期休みはとくに母の手腕が問われるとばかりに頑張ってたから余計に、子どもたちにしたら息苦しかったんじゃないかなと思う。

でも今年の夏休みは、全部子どもたちに丸投げ、任せてみた。宿題や勉強をどんなスケジュールでやっていくのか、お手伝いはするのかしないのか、一日の中でいつやるのか。母は口出ししないよ、というスタンス。

決めたのは自分だから、私は「やれ」とは言わない。

朝からゴロゴロして漫画ばかり読んでる日も、決めたお手伝いをやっていないときも、そうかー今日はやらない日なのねー、と静かに見送る。ただ、出来たよ、やったよ、と報告してきたときには「すごいやーん」「ありがとう」というポジティブな反応だけを返していく。

そうしたら、なんとストレスの少ない休みだったことか。自分でも驚くほどに。

やらなくてもOK、やったらすごい、くらいのスタンスってとても楽なのだ、横で見てるぶんとして。そして、ポジティブな言葉しか出さない、って心がけた上での対応だったとしても、そのポジティブな言葉たちは自身の精神状態をとても安定させてくれる。ネガティブな言葉を口に出したら、それが自分の耳に入って再度自分を傷つけていくんだね、と改めて思う。

子どもたちにとってもガミガミぐちぐち言われない毎日、ずいぶんと気分は楽だったんじゃないかと思う。

休みの間、自分で決めたから自分なりに工夫してやっていたし、それ以上に最後にワケの分からない追い込みをしてみたり、それアリ?!という切り抜け方で宿題を押し込むように終わらせてみたり、まあ長い人生やりたくないことをそれなりに終わらせるという場面できっと役立つであろう、みたいな行動も多々垣間見られてなかなか面白かった。あなたそんなことする人だったの!みたいな子どもたちの新たな一面が見られたのはとても良かった。すべてきっちりやってる姿より、人間臭くて面白味があるなあ、と。

そして私自身の気付きとして、朝のうちに勉強しておきなさい、とか夏休みの早い時期に宿題終わらせておきなさい、ってこれまで私が口酸っぱく言ってきたのって結局、母である私が安心したかっただけなんだよね。子どもたちのため、という体で自分の安心感のために言っていたんだよね、とそういった言動を手放して気付けたのもいい収穫。


今有るもの、持てるものに感謝して、それを口にだしていくこと。我が子にガミガミ言い過ぎてイライラが止まらないお母さんにはなかなかいいと思うのだけれど。少なからず私はとても効果テキメンだった。

この気持ち、突き詰めていくと我が子が誕生して胸に抱いた瞬間に、「無事生まれてきてくれてよかった、これ以上なにもいらない」という気持ちを思い出すことかな、という気がする。私もまだそこまでいけてないけど、せっかく私を選んで生まれてきてくれた大事な大事な我が子に、出来るだけ日々その存在を感謝できる母で在りたいなと、思う。

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